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蒼空とリウ  作者: 流源太
13/13

逆転

何事もなかったかのように時間がたんたんと流れて行く。リウと別れ現実の世界に戻った蒼空は、昭成化学と文久化学との特許係争に悩む日々を過ごしていた。そして、昭成化学との打ち合わせは三回目になった。

 前回までの会議では蒼空は高須にやり込められ、ぐうの音も出ない状況だった。

 大石特許事務所としても蒼空自身としても、何らかの提案をしなければならない状況だ。

一方の高須は、文久化学から捏造だと指摘された634(ムサシ)特許の実施例を再現するために、研究所に再実験を命じていたが、高須が望むような報告はいつまで待っても届かなかった。高須の文久化学を出し抜き、レンズ業界でトップになるという野望どころか、昭成化学の社会的信用まで失墜させかねない状況だった。当然の成り行きとして、高須の社内での立場はギリギリのところまで追いつめられ、正直焦っていた。高須はこの数週間でゲッソリとやつれ、相当にこたえているのだろうと誰の目にもわかるほどだった。

 今日の会議には第一発明者であり、実際に634特許の実験を行い、今も高須の命令で再実験を繰り返している川内研究員が招聘されている。川内は連日、徹夜で実験をしていたのだろうか、ぼさぼさの頭で目の下にクマを作り、薄汚れた実験室で黙々と試験管を振る姿を彷彿とさせた。

蒼空は634特許がどのような経緯で出願されたのか、川内自身が本当に実施した実験はどれなのかを本人から直接聞き出そうとした。

大石所長がいつもと変わらずのんびりとした口調で会議の開始を宣言し、続けた。

「夏姫君、これまでの議事録を簡単に説明してください」

蒼空は、はいと答えポイントの説明を始める。

「前回までに明らかになったことを申し上げます。文久化学から昭成化学様の634特許をライセンスして欲しいという申し出がありました。文久化学は634特許に記載された実験例の再実験を行い、その中で特許の記載どおりにならない例があると指摘してきました。それらに対して昭成化学様の方で再現実験を行っていただいております。その結果をお聞きするのが本日の議題の一つでもあります。以上です」

 大石はわかりましたと言い、高須に視線を送った。

 高須は小さく咳払いをし、川内に再実験の結果を話すよう、顎で指示した。

 川内はぺこりと頭を下げた。川内は弱々しい風貌とは異なり、明快な言葉で話し始めた。

「ご承知だと思いますが、634特許の技術内容を再度確認しておきたいと思います。この技術の最大の特徴は、液状のレンズ原料をレンズの型に流し込み、その液状物とそれを固める触媒の選択にあります。当初わたしが発見した触媒は八種類の化合物です」

「しかし、634特許には二十六種類が記載されていますよね」

 蒼空が念を押すように訊ねる。

「ええ、いつそんなに増えたのか……」

 川内の顔に困惑の色が広がり、高須はきつく腕を組み、眉間にしわを寄せ、どっかと椅子の背にもたれている。

「それで、追加された十八種類について再実験をされたとお聞きしていますが、その結果はどうなりましたでしょうか」

 川内は頷き、幾つかの表がまとめられた資料が全員に配られた。

「お手元の資料をご覧ください。種々条件を変え、実験した結果をご説明します。先に見つけていた八種類以外に、追加されていた十八種類の中から今回四種類の触媒が見つかりました。この四種類を用いるとレンズ原料はなんとか固まりましたが、それ以外は……」

「もういい」

 高須は川内の説明をさえぎると体をぐいと前に突き出し、机を叩かんばかりに吼えた。

「そんなバカなことがあるか。化学の常識を考えてみろ」

「でも、何度実験をしても結果は同じでした……」

 川内はか細い声で言い返すと下を向いて黙ってしまった。

高須の方も納得できないようで再び腕を組み、椅子に深く沈み込んだ。

会議室は重い空気に包まれ、物音一つしない。息をするのも(はばか)られるくらいだ。

しばらくして、大石が気まずい雰囲気を和まそうと声をかけた。

「実験は難しいんですよね。時としてうまくいかないということもあるのではないでしょうか」

 すると、

「できるものはできる」

「できないものはできません」

 高須と川内は同時に声を張り上げた。

 大石は二人の怒りの形相に目を白黒させるばかりで次の言葉がでてこない。再び重い沈黙が訪れた。

蒼空は先の会話には加わらず、ひたすら川内が提出した資料をじっくり眺めており、これまでずっと思い描いていたことを口にした。

「今回の実験で見つかった四つの触媒ですが、これまでの八種類と効果は同じでしょうか」

「いいえ。まったく同じというわけではありません」

「と、いいいますとそれはどういうことでしょうか」

「今回の四種類の触媒ですが、反応して固まるまでの時間が二倍以上かかったり、固まって成型されたレンズに極わずかですが濁りが見られます」

 川内は即座に答えたが、蒼空の真意を測りかねていた。

「それは私のような素人でもわかるものでしょうか」

「多分、透かしてみればわかると思いますが……」

 二人のやり取りを黙って聞いていた高須はピクリと体を震わせ、身を乗り出した。

「レンズが曇るということは、多くの場合は致命傷になる」

 と、断言した。

 蒼空は高須の目を見つめ、大きく頷いた。

「今ある634特許の二十六種類の触媒から川内さんが最初に発見した八種類の触媒に権利を狭めましょう」

 その案に川内の顔がぱっと日差しがさしたように明るくなった。

「それは、わたしの実験結果を信じてくれるということですか」

「もちろんです。川内さんは慎重に、誠実に実験されたんでしょう。結果には自信をお持ちですよね」

こくりと頷くと、川内は高須に気づかれないように小さく胸を張った。

「残りの十八種類の特許権は捨てるということか」

 高須は納得できないと憮然として言った。

「そういうことになります」

 蒼空は落ち着き払っていた。

「それなら、八種類じゃなくて十二種類だろう。川内が新たに四種類を見つけたんだから」

 高須の当然とも思える遠慮のない胴間声が響く。

川内も、それはそうでしょう、と高須の意見に従った。

「確かにそうなのですが、触媒を八種類に限定することで文久化学との交渉を有利にできる策があります」

蒼空はニンマリと目を細め、今後の作戦の内容を高須、川内、磯貝特許部長、そして大石に伝えた。


蒼空は直ちに634特許の権利を二十六種類の触媒から川内が最初に見つけ出していた八種類に限定・減縮する補正書を特許庁へ提出し、ひと月を待たずして特許庁より受理するとの内諾を得た。

一方の磯貝は数日後、文久化学の大崎知財部長と例の密談場所となっているホテルのラウンジで会っていた。

「大崎さん。大変お待たせいたしました。弊社といたしましては誠に残念なのですが、634特許は二十六種類の触媒から八種類に減縮した補正書を特許庁に提出いたしました」

 磯貝はいかにも悔しそうに肩を下げ小声で告げた。

「昭成さんにとってはそれが一番、賢明なことだと思いますよ」

 大崎は勝ち誇ったように、自信たっぷりに磯貝を見下すようにそう言うと、必死に笑いをかみ殺しているようだった。

 密談後、大崎は634特許が大幅に減縮されたことで十八種類の触媒が自由に使えると、文久化学のレンズ事業部と研究所、そしてレンズ工場に報告した。

 文久化学は総力を挙げて実験を繰り返し、川内が新たに見つけた四種類の触媒をたったの三日で探り当てた。この結果は直ちにレンズ工場に連絡され、四つの触媒を使った処方で工場の装置を使ってレンズの試作試験が実行に移された。期待されたその成果は、レンズ材料が固まるまでの時間が従来品と比べて二倍以上かかり、生産性が悪いというお粗末なものだった。まさしく川内の実験結果を再現するものであった。

品質保証部からは、曇りのあるレンズが時々混じっている。これでは安心してお客様に提供できないと、大クレームが付いた。これでは売り物にならない。高須が断言した通りになった。

文久化学の研究所では、これらの問題点を解決すべく、再び全力を挙げることになったが、固まる時間を短くすれば固まったレンズの曇りが増し、曇りをなくすと固まる時間が三倍、四倍かかり、最終的には満足のできるものはできないと結論付けられ、いやがうえにも諦めざるを得なかった。

大崎は硬い表情で再度、密会のラウンジで磯貝と会った。

「改めてお願いに上がりました」

 磯貝とテーブルを挟んで、大崎は深く頭を下げた。

 磯貝は、「大崎さん」と声をかけた。

「頭を上げてください。それではお話ができません。でも驚きました。大崎さんとはもうお会いすることはないと思っておりましたのに、今日はまた、どういったご用件でしょうか」

 磯貝は何のことかわからない、と惚けていた。

 大崎は頭を上げて磯貝をギュッと見つめ、

「御社の634特許の弊社へのライセンスをもう一度ご検討いただけないでしょうか。それも文久化学だけにお願いしたいのです」

 大崎は疲れ切った様子で再び頭を下げた。

「御社だけとはそれはまた虫のいい、いや失礼、先日のお話とはがらりと風向きが違っているようですが」

「誠に面目ないが、是非、よろしくお願いします」

大崎は最早、深々と頭を下げ続けるしかなかった。

「どうしたものか……、わたしの一存ではねえ」

 磯貝は、テーブルに額をこすり付けんばかりに頭を下げ続ける大崎の、髪の毛の薄くなった頭頂を眺めていた。

いつまで経っても返答をしない磯貝に痺れを切らしたのか、大崎はゆっくりと頭を上げると、これまでの表情を一変させ、(まなじり)をピクリと震わせると大会社の部長の顔に戻っていた。そして、磯貝をじーっと睨み付け、低く響く声で言った。

「この件に関し、弊社としてもことを荒げたいわけではありませんが」

と、いったん言葉を切り、テーブルの水を一口含んだ。

「昭成さんの今後の対応の如何では記者会見を開き、634特許に捏造データが使われていたことを公表することになりますが……」

「……。」

 磯貝が黙っていると、

「どうなんですか、磯貝さん」

大崎は返答を催促した。

「ああ、そのことですか。それならどうぞ、ご自由になさってください」

磯貝は顔色一つ変えずあっさりと答え、さらに続けた。

「634特許の触媒に間違いがあったことはすでに特許庁に経緯を含め報告しています。それも自己補正によりすでに認められています。法律的にはなんの問題もありません。このような手続きは大崎部長もご存じのはずでは」

「法的に問題がなければ許されるというのですか。捏造は科学者としてあってはならない犯罪行為ですよ」

「ですから当初の二十六種類の触媒から勘違いのあった触媒を削除し、八種類に減縮しました。削除した十八種類の中にも触媒作用を示すものがあった、と弊社の研究者からも報告を受けていますが、新たに見つかった触媒は断腸の思いで断念し、諦めることにしました」

磯貝は顔をしかめ、本当に残念だと溜息をついた。大崎が小さく頷くのを見てとるとさらに続けた。

「弊社としては特許を出願する際にもっと詳細に実験をして、広い範囲で権利を確保しておくべきでした。実にもったいないことをいたしました」

磯貝は唇をかみ締め無念だと演技してみせた。

 しかし、大崎はなおも食い下がる。

「ですが、捏造と思われてもしかたがない行為じゃないですか。社会的責任というものが」

 磯貝はその後の大崎の言葉を遮るようにして、

「それは見解の違いというものでしょう」

「うっ、うー……」

 大崎はこれ以上反論する言葉を無くし、途方に暮れた。

 磯貝は大崎の気持ちを察したかのように、一拍おいて淡々と話しを継いだ。

「だからと言って、文久化学さんに634特許をライセンスしないわけではありません」

 大崎は、「エッ」と一瞬ためらい、磯貝がどのような条件を出してくるのか、期待と不安が交錯した。

「ライセンス料ですが、常識とされている販売額の五パーセント、と言いたいところですが、これまでの文久さんとのお付き合いもあります。そこで三パーセントでどうでしょう。直ちにご返事をいただきたいのですが、そちらの事情もあるでしょうから三日お待ちします。文久様からのいいお返事をお待ちいたしております」

 と磯貝は締めくくり、レシートを掴むとラウンジを後にした。

 これは前回の大石特許事務所との会議で、蒼空弁理士が提案、想定していたもので、磯貝にとっては面白いほどにシナリオどおりの展開であった。ホテルを出ると明るい太陽に照らされ、思わず笑みがこぼれ、小さくガッツポーズをしていた。そして、一刻も早く高須や蒼空に連絡せねばと帰路を急いだ。

 テーブルに独り残された大崎は最後の切札に、気の弱そうな磯貝に捏造事件の記者会見を開くと詰め寄れば、その後の交渉次第では無償で634特許を享受できるだろうと踏んでいた。ところが磯貝からそれらの計画は一蹴され、雨散霧消した。逆に磯貝から、売ってやると言わんばかりの一方的な提案となり、まったく立場が逆転してしまった。

大崎はこの提案をいったん持ち帰り、事業部に伝えた。そして、緊急の役員会議が招集されたが、当然のことのように会議は紛糾した。

あくまでも記者会見を開き、昭成化学の不正を(ただ)すと主張する強気の役員もいたが、今となっては法的に何の問題もなくなった634特許に対して捏造を主張することは返って自分たちの首を絞めることにもなりかねない。さらに、昭成化学の心証を害し、迂闊なことをすれば634特許のライセンス交渉がこじれ、場合によってはライセンスしてもらえない可能性もでてくると想定された。それに、特許料は常識外れの三パーセントと格安だ、と磯貝は説明した。

レンズ事業部を統括する役員からは、一刻も早く新たな高収益事業を開始し、世界市場に打って出、世界のトップメーカになりたいと強い希望が出された。

引き続き開かれた常務会ではあくまでも反対を主張する重役もいたが、最終的には昭成化学からの提案を受け入れると、これまでに例のないスピードで決裁された。

 634特許を利用した文久化学製の高屈折レンズは、文久化学の販売力を遺憾なく発揮し、スーパーモデルを起用して、これまた異例の全世界で同時発売された。従来になく薄く仕上がり、軽くて装着感がよく、着色も自由なためファッション性にも優れていた。パリやベニス、そして東京で流行に敏感な女性や、アメリカ、イギリスの有名なスポーツ選手やサッカー選手が(こぞ)って愛用し、世界的なブームを巻き起こし、文久化学の大ヒット商品にまでなった。文久化学の生産能力と文久グループを巻き込んだ世界市場への営業力はすさまじく、その販売量は昭成化学が逆立ちをしても到底達成できるものではなかった。

その結果、文久化学に多額の利益をもたらすと同時に、文久化学製のレンズが世界市場で売れるにつれ、634特許からもたらされるライセンス料は数億円に達し、昭成化学の全製品からの純利益と匹敵するものとなっていた。

来年度からはアメリカと韓国、台湾のスマートフォンやタブレットメーカのカメラレンズにも採用が決まった。この分野からも大きな利益がもたらされるだろう。

高須が当初練った戦略とは異なるものであったが、昭成化学に多大な利益と名声をもたらし、昭成化学に盤石な経営基板を築き上げることができたことに変わりはなかった。


 大石所長と蒼空弁理士、高須部長と磯貝部長、そして川内研究員の五人は昭成化学の社長室にいた。

社長の藤沢から、今回は大石特許事務所さんには大変お世話になった、との労いと感謝状が大石所長に授与された。

授与式が終わり、高須は一番の功労者の蒼空に久米屋(くめや)の『かりっと饅頭』を手渡した。高須の弁では実家の近所の親友がやっている和菓子屋とのことで、材料や仕込みにこだわった絶品だからと、わざわざこの日のために出来立てを取り寄せてくれたそうだ。

「わたし、これ大好きです。ほんのりとした黒糖が香り、暖めてもいいし、冷蔵庫で冷やして食べるともっと美味しいですよね」

 蒼空は笑顔で答えた。

「今回は蒼空先生の機転のおかげで、わたしの大失態も見事な逆転の発想で有利に事が進みました。弊社には多額の特許料が入り、今後の経営も安泰です」

 高須はこれまでに見せたことのない優しい笑顔で感謝を伝えた。

「わたしもお役に立てて嬉しいです」

 それに自信にもなりました、と蒼空は言葉を添えた。

「今後とも弊社の特許戦略に一歩も二歩も踏み込んだご提案をお願いしたい。磯貝や川内ともどもよろしくお願いします」

高須は大石と蒼空に握手を求めた。

「こちらこそよろしくお願いします」

 と、晴れやかな気持ちで蒼空は高須の手を強く握り返した。


あれから二週間が過ぎた。大石特許事務所はすっかり落ち着きを取り戻し、いつも通りみな(せわ)しなく机に向かっている。蒼空の活躍で昭成化学とも新たな太い絆を築くことができた。充実した達成感で何とも清々しい。

そんな気持ちのいい日に、蒼空のデスクにパートナーの村上弁理士がふらりとやって来て所長室へ行くようにと告げた。634特許事件を解決して何かご褒美でもあるかと、わくわくした気持ちで所長室をノックした。

「夏樹君、そこに座って」

と軽い調子で大石はソファを勧めた。

いよいよ来たぞと思いきや、

「夏樹君に頼みたいことがあるんだ」

 大石は蒼空を見やり、にやりとした。

「はあー……」

予期せぬ言葉にすーっと気が抜けていき、体が自然とソファーに沈み込む。

大石はそんな蒼空の気持など無視するように、

「文久グループ、知ってるだろ。日本でも三本の指に入る財閥だが、文久化学もそのグループ企業の一つだ。今回は、グループ内でもトップ企業の文久電気からの依頼でね。座るだけでその人の健康を診断してくれるという装置の、システムに関する重要な技術が盗まれたらしい。このシステムは脳から心臓、血管などの循環器系から、胃、肝臓などの内臓疾患、骨、筋肉まですべてをリクライニングチェアに座っているだけで検査してくれるものだそうだ。それも家庭内ででき、必要な薬は直ちに送られてくるというから驚くだろう。その情報がどこから漏れたのか、それを調査し、阻止して欲しいという依頼だ。その担当を夏樹君にしたからね。いまやっている仕事は村上先生に引き継いでもらうように手配したから。あとはよろしく頼む」

 と、大石は一方的に告げると、おれは忙しいからと立ち上がり、熱帯魚に餌をやり始めた。そして、もう用は済んだとばかりに手のひらをひらひらさせ、蒼空は追い立てられるように所長室から押し出された。

 ――えーっ、そんな重要な技術が盗まれた。何とかしろだって。また難題を持ってくるのだから。ご褒美が先でしょう……。

所長室を出てブツブツ言いながら自分のデスクに戻ると、山積みになっていたファイルが一冊もない。いったいこれは、と思いながら村上弁理士のところへ行くと、全てのファイルが机の上に無造作に積まれている。

村上は、「そういうことだ。君も大変だなぁ」と、言って積まれたファイルの整理を始めた。

――あーあ、なによこれ。もう、やるしかないか。それにしてもどうして、こうもややこしい仕事ばかりが回ってくるのかなあ。ああ、イライラする。

そうだ、こういうときは早く帰れと、昼あんどんが言っていたっけ。

――ええい、帰ってやる。

プリプリしながら事務所を出た。

 ――ご褒美なんて考えた自分が甘かった。

――あーあ、こんなとき、ちょっと話を聞いてくれる彼がいたらなあ。

なんて思いながら、頭を軽く振った。

そのとき一陣の風が吹き、カールストレートボブヘアが逆立った。蒼空が顔をそむけたそのとき、

「すいませんが……」

懐かしく聞き覚えのあるテノールが心地よく胸に響いてきた。










本作品は、フィクションであり、実在の個人・団体・事件とはいっさい関係ありません。


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