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蒼空とリウ  作者: 流源太
1/13

捏造

「おはよう」

「……」

「なんだ、あいつ。挨拶もしないで」

「許してやれよ。今日の会議のことで頭がいっぱいなんだろ。初回の会議ではクライアントから相当やり込められたらしいぞ」

 夏姫蒼空(なつきそら)は暗い闇の中を右に左にさ迷い歩いていた。どちらを向いても闇が広がっているばかり。どこをどう進めばいいのかわからない。誰の声も耳に届いてこなかった。

「それにしてもなんでまた、あんなひよっこにこんな難しい案件を任せるかね。まだ素人に毛が生えたようなもんだろうが」

「まあそうなんだが、昼あんどんには何か別の考えがあるんじゃないか」

 そんなひそひそ話が聞こえる中、大石特許事務所は朝から普段にない重苦しい雰囲気の中、ピリピリと張り詰めた空気が漂っていた。

皆の心配は的中した。

「なに言ってるんだ、お前は。前回、打ち合わせたことからぜんぜん先に進んでないじゃないか。君は今の状況が本当にわかっているのか。こんなことで裁判に勝てると思うのか」

 九八キロの巨体を震わせ、いかにも体育会系と思わせる高須勇一の胴間声が会議室いっぱいに(とどろ)いた。高須は昭成(しょうせい)化学株式会社のレンズ事業部長を務め、先輩の取締役を抜いて次期社長候補との噂があるほどの男だ。

 昭成化学は従業員が七百人ほどの中堅の化学会社で、高須が開発したレンズ事業で大幅な躍進を目論んでいた。しかし、その前途には巨大財閥系の文久(ぶんきゅう)化学が大きく立ちはだかっていた。

 蒼空は高須の前では蛇に睨まれた蛙の如く、硬直してしまい、何も言い返すことができないまま、背中を丸め小さくなっていた。

蒼空はすらりとした体型で、すっきりとした涼しげな目鼻立ちをしており、風が吹くとゆらゆらなびくカールストレートボブヘアが気に入っている。蒼空は大学卒業の年に皆と同じように数社の就職試験を受けた。一次試験、二次試験は突破するのだが、三次試験になると落とされた。何とか三次試験をクリアし、役員面接までこぎつけても結果は、『残念ながら今回は……』という不採用通知を受け取っていた。蒼空の同級生たちが一人、また一人と内定をもらい、卒業までの残された時間を謳歌していたが、蒼空はそんな晴れやかな気分になれず、独り落ち込む日々を過ごしていた。

何気なくネット上の就職欄を見ている時だった。東京神田岩本町にある大石特許事務所で「弁理士または弁理士志望者を募集」の広告が目に飛び込んできた。どうせ駄目だろうと大して期待はしていなかったが、受けるだけでもいいかと思い直し、使い回しの履歴書と身上書をパソコンから呼び出し、社名と日付だけを変え、これらをハードコピーして郵送した。

面接は一週間後にあり、面接官は所長の大石太平(おおいしたいへい)とパートナーの村上弁理士と他二名の弁理士の四名であった。

大石は中肉中背で額が狭く、髪の毛がふさふさしている以外は特にこれといった特徴のない顔立ちをした、何処にでもいるような五十過ぎの男だ。

村上が自信無げに俯き加減に座っている蒼空に、名前や大学のことなど確認事項の質問をする様子を大石はただ黙って見ていた。村上の質問が終わると大石は、蒼空の履歴書や身上書には一切眼もくれず、世間話を始めた。蒼空はその話に適当に相槌を打ったり、首をかしげたり、どうでも良いと思われる質問に適当に答えていた。

突然だった。大石は、

「実は、ここのみんなは僕のことを影で、『昼あんどん』と呼んでいるんだ。夏姫さんはどう思いますか」

と、質問とも思えない話題を振ってきたが、いくらなんでも初対面だし、面接の席で、「そうですね」とも、「違います」とも言えず、眉根を寄せた。返事ができずに黙っていると、

大石内蔵助(くらのすけ)を知っているだろ。忠臣蔵の。別に我が家のご先祖じゃないんだけどね。その大石内蔵助の渾名(あだな)が『昼あんどん』。いいねえー。僕は好きだよ。その愛称。でもね、僕の前では言ってはいけないよ」

と、訳のわからないことを独り言のように言うと、くっ、くっ、くっと笑いをこらえているような声を発した。そして、蒼空に優しい眼差しを向け、

「はい、これで終わります」

と、何とも要領を得ない面接は終了した。

蒼空は、何の手応えもないまま面接を終え、どうせまたダメだろうと思っていた。ところが、三日後に『貴殿の入所を認める』という封書を受け取った。まさに青天の霹靂(へきれき)だった。その後、大石特許事務所に入所し、今に至っている。

入所後の歓迎会の席で、村上弁理士が、面接の時に「自分は『昼あんどん』と呼ばれている」という発言があると合格の合図だと教えてくれた。さらに、あの「くっ、くっ、くっ」という奇妙な笑い声が出るともう誰も変えようがないというのだ。

一方の村上は、大石に夏姫さんのどこが良かったのかと聞くと、「勘だよ、カン」と、ただそれだけだった。村上が怪訝(けげん)な顔をすると、「君だって俺の勘で採用したんだ。そして君は立派なパートナーになった」と言われ、村上はそれ以上何も返す言葉がなかった。

あの未だに不可解な面接の日から五年になる。弁理士試験に合格して三年。近頃になってようやくスーツ姿が似合ってきたところだ。

弁理士というのは、発明品の特許を出願したり、その特許の権利の取得を発明者にかわり代行する専門家であるが、蒼空はこの世界ではまだまだ駆けだしの部類だ。

「こんなことじゃ、私の立場がない。とにかくなんとかしろ」

 高須の罵声はまだ続いている。

蒼空は口ごもりながらやっとのことで(かす)れる声を絞り出した。

「ですから、実施例が再現できないようでは……」

「実験はできるはずだ。それが化学の常識というものだ。だからそれを前提にして何とかしろと言っているのだ」

 ――何とかするのはあなたでしょ。

 喉元まで迫った言葉を飲み込むと、その塊で次の言葉が出てこない。

 大石所長はあらぬ方向を見、パートナーの村上弁理士、先輩の谷口弁理士も下を向き、口を閉ざしたままだった。

 ヒリヒリするような時間だけが過ぎていく。

――この場をなんとかしなければ……。

高須もこのままではまずいと思ったのか、

「再実験については弊社の研究所でも総力を上げて検討している。そのうち良い結果も出るだろう。だから、そこのところをよく踏まえて裁判を有利な方向に進めてもらいたい」

高須は言いたいことを言い終えると渋面を作り、腕を組み椅子にもたれ込んだ。

この事件の発端は四ヶ月前に遡る。

昭成化学の磯貝特許部長のもとに一本の電話が入った。大手の化学会社である文久化学の知的財産部長の大崎からで、「貴社の特許番号××××634号の権利をライセンスして欲しい」、というものだった。

文久化学は創業百六十年、海外のグループ会社も含めると従業員数が一万人を優に超える国内でも一位、二位を争う総合化学メーカである。レンズ事業に限れば日本のトップシェアを有し、世界でも三本の指に数えられるほどだ。他の化学部門がアジア勢の振興により停滞する中で、文久化学のレンズ部門は今や会社を支える大きな収益源となっている。

 高須らが発明した特許634号は、その番号から634(ムサシ)特許と愛唱され、ガラス並みの高屈折率とプラスチックの成形性の良さを併せ持った画期的な光学用のプラスチック材料であった。この材料を使ったメガネはデザイン性に優れ、薄くて軽く、装着感の良さで好評を得ていた。しかもガラスレンズより遥かに安価だった。

 文久化学は以前よりレンズ部門の更なる強化を図ることを画策していた。そのためにも昭成化学が開発した634特許の技術がどうしても欲しかったのである。昭成化学の高屈折レンズを手に入れることにより世界の強豪メーカを一気に出し抜き、世界第一位になることも夢ではないと予測していた。その後の状況によっては昭成化学のレンズ部門を切りとり、傘下に収めても良いとまで考えていた。

 文久化学からのライセンス供与の話は直ちに高須の元に届けられた。

高須がレンズ開発部長になる以前は、634特許の共同発明者の一人として研究を推進するリーダをしていた。二年前にレンズ開発部と営業部を兼務する部長になり、翌年には最年少の執行役員に大抜擢されていた。高須はレンズ事業を昭成化学の第三の柱に成長させるよう社長の藤沢からも大きな期待を寄せられており、日々励んでいるところであった。

 つい半年前には、高須らが開発したレンズ材料がスマートフォンのカメラレンズとしても有望であることがわかり、アメリカや韓国、台湾の携帯電話メーカからサンプル要請が届いていた。高須が本社に来てからというもの、とんとん拍子にいい話ばかりが舞い込み、今や昭成化学のラッキーボーイとなっており、旭日昇天の勢いであった。

まさしくそうしたときに雲の上の存在であった文久化学から634特許のライセンス供与の話が飛び込んできたのだった。この話は昭成化学にとっても高須にとってもすこぶる好都合なことだった。

高須は磯貝からの連絡を当然だという顔をして頷いたが、内心は踊り出したいほど嬉しいことだった。高須は足取りも軽く社長室のドアをノックした。部屋に入るなり挨拶もそこそこに、

「文久化学から634特許を譲って欲しいと連絡が入りました」

 満面の笑みを浮かべ、じっとしていられないという様子で高須は話を切り出した。

 藤沢はパソコンの画面から目を放し、高須を見上げた。

「文久から。それは確かな話なのか」

「はい。我が社がレンズ部門で文久に取って代われる可能性があると思います」

 いきなりの話に藤沢は驚きとも戸惑いともとれる顔をした。

「そうなればいいが、そんなうまい手があるのかね」

「もちろん、うまくやれば、ですが……」

 その後、高須は藤沢にそうなるための戦略のあらましを話した。

 それは、高須が開発したプラスチック材料を文久化学に提供する代わりに文久が有する汎用レンズの商権の半分を譲り受けるというものだった。もしそれが達成されたなら、文久化学に代わって昭成がプラスチックレンズからカメラレンズの分野までを支配でき、さらにうまく行けば世界のトップメーカの仲間入りも夢ではないと説明した。

「わかった、わかった。その件は君に任すからしっかりやってくれ」

 藤沢はそんな夢のような話を鵜呑みにするほど楽観主義者ではなかったが、ラッキーボーイの高須なら、もしかしたらやり遂げてくれるかもしれない、という期待は大いにあった。

高須は社長の期待に応えようと、いや自分の出世のためにこれまで以上に奮闘したのは言うまでもない。だが、そこに大きな落とし穴が待っていた。早く結果を出さなければと躍起になり、他人の言うことに耳をかさず、傍若無人な振る舞いが見られるようにもなっていた。

それからひと月が経ったころだった。再び文久化学の大崎知財部長から磯貝の元に連絡が入った。

「二人でお会いしたい。用件はその時にお話しする」

 と言うだけで、具体的な内容は告げようとしなかったが、特にこれといった不審を抱くこともなかった。

 翌日、磯貝は大手町駅前のホテルのロビーで大崎と待ち合わせ、そのまま最上階の喫茶ラウンジに移動した。午前中の比較的早い時間のためかラウンジの客は少なく、二人は最上階からの東京の景色を眺めることもなく、奥まった席に向かいあった。ラウンジのテーブルに着くと、大崎は磯貝を怪訝な目つきでじっと見つめた。

おもむろに大崎は切り出した。

「同じ特許関係者としてお聞きしたい」

と、前置きしてとんでもないことを言い始めた。

「貴社の634特許の実施例を弊社の研究員が確認するために実験をしたのですが、記載されたとおりの結果にならない、何度やっても同じだと言うのです」

「おっしゃっている意味がよくわからないのですが……」

 磯貝は正直に言い、小首をかしげた。

「わたしも最初は信じられませんでした。こちらのミスで何かの間違いがあり、実験がうまくできないのではと思いました。しかし……」

 大崎はここでいったん話を切り、テーブルの水を口に含んだ。そして、周りを見回し、さらに声を潜めるようにして磯貝に顔を寄せた。

「実験をした彼は、このデータは捏造(ねつぞう)だと」

 大崎はぎょろりと目をむき、磯貝を睨みつけた。

「捏造だなんて、とんでもない」

 磯貝は反射的に否定し、こんな言いがかりをつけるために私を呼んだのか、と腹立たしささえ覚えた。

 それを予期していたのか、大崎は先を続けた。

「わたしも気になりましてね。ことは重大ですから研究者に何度も確認を取りました」

 磯貝はゴクリと固唾を飲み込んだ。

「そうすると、『確かに記載どおりになるものもあるが、うまくできないのは一つだけではない。幾つもある』と言うのです」

 磯貝の脳裏に、まさかの「捏造」の文字が浮かんだが、とっさに打ち消した。

「言いがかりは止めてください。634特許を(おとし)めるようなことを言って後で後悔しますよ」

 磯貝は精いっぱい強がって見せた。

 しかし、大崎はその言葉にまったく動揺することもなく、椅子の背もたれに体を預け、投げやりとも思える態度で続けた。

「まあ、そうおっしゃりたい気持ちは良くわかりますよ。貴社のお立場、とりわけ特許部長としての磯貝さんのお立場もよく理解しています」

と言うと、体を前のめりに突き出し、磯貝をじっと見つめた。

「いきなりこういった話に驚かれたことでしょう。ここは、磯貝さんご自身で確認を取られてはいかがでしょうか。そうですね、ご返事の期限はひと月後、このラウンジで」

 大崎は言い終えるとすっくと立ち上がり、伝票を手に取るとスタスタと出て行った。

 残された磯貝はまだ大崎の言ったことが理解できず、茫然としていた。

 ――データの捏造! そんなばかな。うちの研究員に限って、そんなこと……。でも、それが本当なら634特許は潰れる。いや、待てよ。対応の如何では文久化学から何らかの形で訴えられることも考えられる。そうなれば、昭成化学は社会的責任を追及されることもありえない話ではない。

記者会見の席上で藤沢社長が頭を下げ、謝罪する姿が目に浮かんだ。その情景の横では自分も頭を下げている。何てことだ。そんなことにでもなれば……、下手をすれば会社の存続すら危ぶまれる……。

嫌な予感ばかりが頭を廻り、磯貝は頭を抱え込んでしまった。

どれくらいそうしていただろうか、

――こんなことをしている場合じゃない。早く帰って高須に問い(ただ)さねば……。

はっとわれに返り、血相を変えて帰社した磯貝は、レンズ事業部に飛び込んだ。普段なら声をかけることすらはばかられる相手なのだが、もくもくと机に向かう高須に、ひと呼吸置いて声をかけた。

「高須さん、少し時間をいただけますか」

「新工場建設のための資料作りで忙しいんだ。後ではだめなのか」

 高須は書類から顔を上げるといかにも面倒くさそうに言った。

「634特許の件で、ちょっと大変なことが」

 磯貝は高須に顔を寄せ、耳元で囁いた。

 高須は仕方がない、といって腰を上げたが、顔は不愉快だと告げている。

 磯貝は高須のそっけない態度に少しひるんだが、ここはしっかりと話さなければ、と自分自身に言い聞かせ、廊下に出て高須を小さな会議室に誘った。

 磯貝が部屋に入り、高須は後ろ手にドアを閉めるなり磯貝の背中に向かって声をかけた。

「634特許がどうかしたのか」

磯貝は一つ大きく息を吐き、振り返った。

「先ほど文久化学の知財部長とお会いしてきました」

「おお、そうでしたか。それで……」

高須の顔に期待とも不安ともつかない表情が浮かんだ。

「634特許に書かれたデータの一部に捏造があると言ってきました」

 磯貝は大崎との会談の内容をかいつまんで話した。

「何を言い出すかと思えば、いきなり何だ。言いがかりも大概にしろ。実験は確実に実施されている。それに、専門の化学者が見れば誰でもわかることじゃないか。君もそう思うだろ。それとも特許料を値切るための口実か。そんな見え透いた話を持ってくるようじゃあ、文久もたいしたことないねえ」

 高須は言いたい放題まくし立てた後、こんな詰まらない話を持ってきた磯貝に怒りの矛先を向けた。

「君も君だ。そんな根も葉もない話を鵜呑みにしたのか。634特許が信用できないのか」

 その後も高須はブツブツ文句を言い、その間、磯貝は高須の怒りが収まるのを黙って待っていた。そして、おもむろに大崎の話の内容を再度伝えた。

「文久化学で再実験をしたところ記載どおりにならないものがあったというのです」

「単に実験がへたくそなだけじゃないのか」

「わたしもそうだと思いたいのです。ですが、できないものが幾つもあるというのです。ですからこちらでももう一度実験をして、確認していただきたいのです」

 その後、再実験をするしないで押し問答になったが、文久化学からの特許のライセンスの申し出があること、それよりも文久化学との交渉を有利に進めるためにも疑惑を払拭しなければならない、と磯貝は重ねて説得した。

 高須は渋々だったが、磯貝の申し出を受けることにした。机に戻ると高須は研究所の川内(かわうち)研究員を電話口に呼び出し、至急、634特許の実施例の確認実験をするように命じ、電話を叩きつけた。

川内は634特許の第一発明者であり、命じられるまま直ちに、再現実験に取り掛かった。

数日後、実施例どおりにならないとの第一報が、川内から高須の元に届いた。

――そんなバカなことがあるはずがない。研究者ならだれだってできるはずだ。

川内がへたくそなだけだ。高須が求める結果を得るために別の研究者に代えてやらせてみたが、やはり結果は同じだった。

それでわかったことは、うまく行かない実験データは、高須が周知のことだとして実験もせずに特許に書き加えていたということだった。

高須の研究者としての過信が引き起こした結果ともいえるのだが、高須は後日このことを、特許の権利範囲を広げることと、文久化学などの競合相手に真の技術を分かりにくく惑わすためだったと説明した。

しかし、実験が再現できないことが明らかになれば、せっかく権利化された特許も嘘があるとして消滅することになる。ましてや捏造ということになれば……。634特許もいつ権利が消滅してもおかしくない状況であった。

自業自得と言えばそれまでなのだが、高須はもちろんのこと昭成化学も窮地に落ち入った。

 ひと月後、磯貝は大崎と前回会った同じホテルのラウンジで向かいあった。

「磯貝さん、ご回答いただけますか」

 大崎の声音は余裕を感じさせるものだった。

磯貝は考え悩んだ末に、研究所が忙しくて確認実験が遅れていることを理由にもうひと月待って欲しいと頼んだ。現状ではそれ以上のことは何も言えなかった。

さらにひと月が無為に経過したころ、磯貝の元に一通の内容証明郵便が届いた。差出人を見ると文久化学の大崎からだった。

磯貝は周りに人がいないことを確かめ、恐る恐る封を切った。そこには634特許の無効審判を起こすと一言書かれていた。

磯貝が恐れていたことが目の前で起ころうとしている。手紙を握る手が小さく震えた。

――グズグズはしていられない。一刻を争う状況だ。

磯貝はその足であたふたと大石特許事務所に向かった。所長室に飛び込むなり、

「先生、助けてください」

と、叫ぶようにしてこれまでの経緯を説明し、必死の思いで頭を下げた。

大石は、しばらく考えた後、その担当者としてこともあろうか夏姫蒼空を指名したのだった。

大石は蒼空にこの案件の要点と今後の対応について話した。

「文久化学からの634特許の無効審判請求は、データの捏造を強く指摘する内容になっているだろうから、それをかわす案を提案することだ。それと……、634特許は、わかっていると思うが潰さないよう、維持することだ」

 大石は一人頷き納得しているが、蒼空は、

――そんなこと言われなくてもわかるわよ。でも、それを具体的にどうするかでしょう。それを教えてくれなきゃ。

ブツブツ独り言を呟きながら頷いた。蒼空は自分の知識と経験量で的確な対応ができるかどうか、心配と不安で押しつぶされそうだったが、指名された以上、やるしかないと覚悟を決めた。

数日後、何のアイデアもないまま会議に臨んだ蒼空の説明は要領を得ず、もごもごと口篭(くちご)もるばかりであった。

このような蒼空を見て、高須の苛立ちは頂点に達した。

高須の(わめ)き散らす声はもはや蒼空の耳には届いておらず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

――とんでもないことを引き受けてしまった。

後悔ばかりが胸の内に行き来していた。

これまで黙って状況を見ていた大石は会議の終了を持ちだし、高須も、仕方がないと半ば呆れるようにしてそれに従った。

――このままではだめだ。クライアントの要望に応えられない。何とかしなければ……。

そう思うのだが、焦れば焦るほど頭の中がフェードアウトし、何も考えられなくなっていた。

高須は、「次の会議までに何とかしろ」の捨て台詞を残し会議室を後にした。

元はと言えば高須の思い込みが引き起こしたことなのだが、それを(かたく)なに認めようとしないことが事件をさらにややこしくしていた。

あの忌まわしい日から二日が過ぎた。会議の席での高須の理不尽な態度に怒りさえ覚える。

――あのくそオヤジ! いまに見ていろ。


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