表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

9話

 すでに君の中から冷静さは破棄されていた。君は彼女を守るという一心だけで動いているようなものだった。そして彼女を救う、と決意していると共に自分が高峰 薫に怒りのようなものを覚えていることにも気がついた。いつの間にか君は高峰 薫に対する本来の感情を忘れかけつつある。いや、忘れようとしているのだ。今の君にぴったりと当てはまる正確な感情は、「森の中の彼女」を救う、というものだ。森の中にいる白い少女と、高峰 薫は同一人物だという繋がりを君はすでに自己の思考のなかで断ち切ろうとしていたのだ。彼女と森の中の彼女は別人だ。そう思い込むことで、今までの呪縛から開放されるのではないかと思ったのだ。僕は高峰 薫を助けようとしているんじゃない。森の中にいる、自分にだけ微笑みをみせてくれるあの白い少女を救おうとしているのだ。そう思おうとした。

 けれど。やはりそんなことはできなかった。彼女に対する思いを断ち切ることはできなかった。君は高峰 薫という人物をなによりも求めているのだ。たとえそれが君を苦悩させようと、たとえそれが君の身を虐げようとしても。やはり君は彼女を忘れようとすることはできない。なんとしてでも、君は彼女に好かれたい。そう強く思っていままで生きていたのだ。それを簡単にかき消すことなど、無理だ。なにもかもが嫌になりそうだった。彼女を救うこともできなければ、彼女を忘れようとすることもできないのだ。君はいつまでも苦しめられる。自分が蝕まされる選択しか、そこには存在しないのだ。

 どうしてだよ。君は水嶋とはなしている彼女に目をむけようとした。けれど昨日の出来事が心情に強くたたずんでいて、その行為を妨げた。君は何度も親指をこすり、破裂して走り抜ける感情をこらえた。ドアを強くしめて、その感情が鎮まってくれるまでそれを押さえつけた。巨大な感情はそのドアを蹴り飛ばして外へと駆け抜けようとしてくる。ドアを押さえつけている自身の身も伴って幾度と弾む。その弾みは鎮まるところか、さらに強度を増していく。どうしてだよ。どうしてなんだよ。なぜ僕に振り向いてくれない! あんなに僕は君を守っているのに! どうして僕が悪役にならなくちゃいけないんだ! ほとばしる莫大な感情はもう使い古されているというのに、それは変わらず活発なままだ。行く先を隔てるドアをこじ開けようとする怒りや憎しみの邪気に、君は押しつぶされそうになる。鎮まれ、静まれと唱えながら、頬と平手をべったりと張りつけてドアを押さえつける。なんで僕じゃダメなんだ! あいつのどこがいいっていうんだ! なんで僕と君との間には隔たりがあるんだ! 混みあった人の群れのような、感情の雑踏が一気に押し寄せてくる。その波は一度だけで済むようなものではない。何度もだ。最初のその波から次の波が襲うまでの間隔は限りなく短い。そしてどれも巨大な力をたずさえている。いつまでも感情の波は変わらずの力を維持して君を襲ってくる。吞まれそうになる君は体勢もなおせないまま新たに飛び込んでくる波と闘う。

 彼女は手の届く距離にいるのに。視界の先には彼女がいるのに。それなのに君は手を伸ばすことができないでいる。彼女の隣にいる男が邪魔だから――。どけよ。そこをどけよ。お前はいらない。消えろ。ぐつぐつと湧き上がる君の「心」。昂ぶっていく君の「心」は、あの日みた夜の妖怪たちの集団を連想させた。白い狐の男が盛んに跳ね、激しく太鼓の音がして、その無茶苦茶なリズムにさらに三味線の音をひっかけてくる。喧騒に身をゆだねる彼らはまるで、君を嘲笑うようにも思えた。キイン、と突き刺してくるような耳鳴りに苛まれる。耳を塞いでも響きつづける不快な音に侵食されないように首を振る。左に右に。体を揺らして机を蹴りつける。椅子を蹴りつける。辺りの奴らの怪訝そうな顔がみえる。そんな気味悪そうなものを見る奴らの視線もやがて見えなくなってくる。「ああ……、あああああ」洩れてくる自分の声が聞こえてくる。鳴りつづける耳鳴りに重なって小さな自分の悲鳴が聞こえてくる。そんな声もやがて聞こえなくなってくる。教室がぐんにゃりと歪む。周りの奴らの体が湾曲する。ひそひそと話す奴らの声も、気味の悪そうな表情も、全部がぐんにゃり曲がる。空間の中央から一気に潰れていった。「ああああ。あああ……あああああ」はたしてその声が実際に洩れているのかどうかは、わからない。なにもわからない。森の中の彼女を救いたい。水嶋の手から放したい。そうすることで、僕が。僕がどうなるかはわからないけれど。



 自分が今どこを歩いていて、なにを目的として進んでいるのかわからない。君はいま森の中を歩いていて、彼女の「闇」を殺すために進んでいる。気がつけば森にきていた。その森はあの彼女の森であることは違いない。なにの音からも遮断されて、ただ密集する樹木が並んだそっけない、いつもの森だ。しかし、その森はいつもと著しく違った点があった。

 それはこの森の空が明るいということだ。空はどこかの海と同じ色をして、澄み渡った純粋な表情をしている。どこまでも無邪気で、ずっと微笑んでいるようだ。雲もない。夜に攫われて以来、雲は姿を現していない。君が歩んでいる森はとても鮮やかな緑色をしていた。それは当然のことなのだけれど、いつもこの森には夜が連行していた。だから森の本来の色など確かめることはできなかったのだ。はじめて目にするこの森の色はどれも艶のある緑色をしていて、君の視界を優しい色彩が包んだ。足を踏みしめている地面にも夜の翳りはなく、存分に光を掬って豊潤さを染み出させて緑を広げている。空から注がれる陽射しを樹木は浴びて、葉っぱの塊の内部にへとその光を運んでいく。葉の集いはそれを中核まで運んでから、その暖かな光をぎゅっと搾って、一枚一枚の葉に欠片を配った。一枚一枚の葉はその陽の欠片を慎重に抱きかかえて、にっこりと笑っているようだった。

 樹木の皮は茶色だということを君は知る。今までは夜の衣を着飾ったシルエットだったから、新鮮だと思った。君はその樹木に触れてみる。すこし湿っていて、切れ筋を指でなぞっていくと苔に覆われている箇所に達した。森は穏やかで、いるはずのない小鳥のさえずりが聴こえてきそうだった。どこを見渡しても森は柔和に微笑んでいて、先ほどまで激しく波打っていた君の感情の群れはすこしずつではあるが凪を取り戻そうとしていた。押さえていたドアの重みも幾分軽くなり、体勢を直すゆとりもあった。いや――。

 いや、違う。ぼくはそこで気づいた。

 君はもうドアを押さえつけていることを「やめていた」。君はまるで「死んでいる」のだ。盛んに湧き上がる感情の波に身が侵食されていくことを君はすでに許していたのだ。君はすでに呑まれている。感情の雑踏に。流されてしまっているのだ。もう君の中で押さえつけているドアはない。最初から、ドアなんて存在しないのだ。

 気がつけば、君の右手にはナイフがあった。そのナイフがどこから出てきた物かはわからない。記憶を辿っても思い当たることは無いだろう。そのナイフは突然、君の右手の掌に出現したのだ。突発的な物事のように。

 君は何度もそのナイフの持ち手の感触を確かめた。気がつけばナイフを持っていた、という事態に対してはなにも不思議に思わなかった。ただただ、そのナイフの感触に肌を重ねて、その感じたことの無い重みを手の平に覚えさせていた。そのひんやりとして生々しい感触は、君を静かに高揚させた。肌をくすぐってくる生え茂った植物の葉をその手ではらい、迷いのない足取りで彼女の元にへと向かった。

「見つけた」

 樹木にもたれて静かに眠っている少女がいる。白いワンピースを着て、白い肌をして、黒い髪をして、あの蒼い瞳を白い瞼が隠している。そっと指で穴を塞ぐように。君はその眠る彼女を見つめる。ナイフを握りしめる。「助けに来たよ」足を彼女の方へ、踏みだす。ゆっくりと。少女の瞼が一瞬震えた気がした。君はその僅かな震えも逃がさずに視界におさめる。溜まっていた唾を喉に流しこむ。彼女が、おもむろに瞼を開いた。君はいささかだけ身構える。ナイフの感触を確かめる。

 彼女の意識は漠然としている。まだ殆どが眠りのなかに閉じ篭ったままだ。仄かにそこから抜け出した淡い意識が、彼女の瞼を持ち上げた。そっと蒼い瞳がのぞかれる。そしてその蒼い鏡が映すのは、君が持つ鋭利なナイフの刃だった。その瞳が完全に見開かれる。「……え」

「やあ」と君は低い声調で言った。その声は自分の声ではないようだった。「気がついたかい? 助けにきたんだ。君を」君は足を踏み出して、彼女との距離を縮めていく。

 彼女は青ざめる。彼女は、青ざめる。彼女の視界を占めているものは君の握る銀色のナイフだ。空から落ちてくる光を反射させて、蒼白く刃がきらめく。空から降り注ぐ光がナイフの刃を掴もうともがいていた。「……いや。こないで」彼女は戦慄の声を洩らした。狂い果てた君のおもむらな歩みに恐怖を覚え、君との距離を広げようと試みるも足が萎縮して力が入らなかった。まるでどこかに大きな穴が開いたタイヤのようだった。力を加えようとすると一瞬だけこわばり、そしてしゅるうと音を立てて竦んだ。

 どうしてそんなことを言うんだ? 君は彼女の慄然して震える瞳をただ見つめていた。君の眼差しはまるで蟻に食われている死骸を見るような冷徹なものだった。冷え切った視線だった。「大丈夫」距離を縮めていく。「僕が助ける。いま助けるよ」彼女の瞳が震える。蒼く変色した顔をこちらに向けたまま、「いや……いや」と首を何度も振っている。君の拳が握りしめるナイフの刃はなにも動じず、ただ彼女の表情を捉えている。鈍い光と共に映る彼女の怯える姿をみて、君は胸が苦しくなった。水嶋の顔が浮かんで、とても殺意が湧いた。彼女はこんなにも怯えているんだ。僕が助けなくちゃいけないんだ。ナイフを握る拳がさらに締まった。

 彼女は君から逃れるために後ずさりをする。しかし背後には樹木が堂々とたたずんでいて、その逃げる道を防いでいる。ナイフを握る手がゆっくりと動いて、空気をおもむろに二つに裂いた。鋭い刃の先端から左右へと裂かれて別れていく空気は、君の瞳に映っているような気がした。君はそのもろく破けた空気の布をみて、ほくそ笑むような苦笑を洩らす。ナイフを持つ手は軽い。彼女の唇と瞳は震え上がる。安定しないでせわしなく震える視界は森の木々を揺らし、降り注ぐ光を揺らす。それなのにその中心には君の姿がしたたかにそびえていた。「やだ……こないで。こないで」君にその声は聞こえない。「こないで……、なんで、なんで」君の耳にその声は届かない。

 君はナイフを構えた。とうとう彼女の背後から「闇」がゆっくりと顔を覗かしたのだ。ひとりでにうごめきだした「闇」は露骨にその姿を出現させ、彼女の白い肌を包んでいった。それは黒い霧のようにも見えるし、黒い煙のようでもあった。君はその「闇」が完全に輪郭を整えるまでじっとナイフを構えて見据える。「闇」は静かに彼女の頭上にへと上昇していく。そして輪郭を明確にへと成長させていく。「闇」は徐々に顔をつくり、腕をつくる。君はじっと目を凝らす。そしてナイフを握る。「彼女から……離れろ」そう闇に向かって声を吐く。

 その「闇」を睨む。その姿があきらかになる。ナイフの矢先をとうとう詳細を見せた「闇」にへと突き出す。その姿をみせた「闇」を見つめる。え、という自分の声が聞こえた。「え?」

 なぜだ。どういうことだ? その「闇」はまるで、君のようだった。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。そうだろう? 誰かそうだと言ってくれ。肯くだけでいいから。

 

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ