8話
お前があいつを苦しめてんだよ。彼の言葉が冷たい雨となって君の頭上に降りしきる。森のなかを歩むに伴って揺れる視界はとても不安定で、足取りに自信がない。君は森のなかをさすらっていた。以前のような強い意志を君はたずさえていなかった。いま自分がどこを歩いていて、どんな瞳をしているのだろう。君の中にある、君という存在を大きく尊重している何かが、水嶋の声によってかどわかされてしまっていた。視界は森のどこにも定まらず、肩にも気力がない。無機質な壁のように、今の君からは生気が感じれなかった。君には視界にうつるものすべてが夜に疲れているように思えた。疲れた樹木や疲れ果てた葉。君は俯いて夜にまみれた足元に目をやった。しかしそこに自分が履いているスニーカーのデザインはみえない。闇の海に浸かって、その淵から二本のたよりない足がのびている。その頼りない二本の足が頼りない君の胴体を支えている。淀んだ夜を蹴りながら森をあるく。彼女のところへ行かなければならない。けれど、今の君には彼女に会いにいくことが正しいことだと肯けることができなかった。さらにいえば、君はこの森で少女の姿など探していなかった。ぼくは君の頼りない背中を見つめる。指ですこし触れただけでぱらぱらと崩れていってしまいそうなほど、もろい風格だった。昨日までの君に溢れていた意思はそんな簡単に壊れてしまうものなのか?
「うるさい」と君は振り返らずに呟いた。「黙れよ」ぼくは黙った。再び沈黙がそっと君に寄り添った。足取りは不確かで、吐く息は不規則だ。水嶋の顔がうかぶ。彼の舌打ちが聞こえる。うぜえ、という見捨てるような声がする。彼はあれからどうしたのだろうか。電話かなにかで高峰 薫に先ほどのことを話したのかもしれない。なぜだ? なぜ僕がこんなことになっているんだよ。僕のなにがいけないっていうんだ? 僕はただ彼女が好きなだけなのに。なんで好きな子の姿を見たらいけないんだ。彼女を見てはいけないというのなら、僕はどこを見ていればいいというんだ。鼻を啜る音がした。頬が震えた。瞬きをする回数が増え、真っ暗な足元がゆがむ。ふと右手の手の甲で目元を拭う。拭い終えたあとの自身の手は湿りを覚えていた。どうやら自分は泣いているようだった。悔しさがこみ上げた。それなのになにも反抗できなかった自分に腹が立った。なにも言い返すことができない自分に。僕は弱い。拭っても凌ぐことのできない狡猾な涙は先ほどの景色を思い出させる。そしてそのたびに涙が溢れ、何度も手の甲で瞳をこすった。それでも洩れてくる涙に屈服して、拭っていた右手もおろした。流れてくる涙もそのままにした。涙は頬をつたい、筋を描いて唇をこえたあたりで足元へと落っこちていく。新たな涙もおなじように筋を辿って、夜の底にへと攫われていく。震える視界。震える頬。鼻を啜る音。握りしめる拳。そこに滲む汗。地に垂れる涙。君はもう一度右手で涙を拭う。何度もごしごしと拭う。瞼は赤い腫れを残していると思うが、しかたない。樹木と樹木の間をくぐりぬけると、少女はいた。昨日とおなじように。
彼女は君に気づくとゆっくりと微笑んだ。苦しそうだった。樹木に背をもたれかけて、地面に散らばる落ち葉をかきむしっている。君は彼女に駆け寄り、「大丈夫?」と声をかける。彼女は弱々しくうなずいた。それから「……ええ」と小さい声で言った。また涙が溢れそうになった。これが僕のせいだというのか? 僕のせいで彼女がこのように蝕んでいるというのか? お前があいつを苦しめてんだよ。あの言葉が脳裏によぎる。うるさい。うるさい。やめろ。違う。僕じゃない。水嶋の顔をはらって苦しそうな彼女に目をやる。
「……ねえ」という彼女の声がした。声はかすれていた。口元からこぼれた瞬間に夜に擦られたみたいだ。「昨日みたいに、してくれない?」彼女は弱々しく右手を君に伸ばし、君の左手を掴む。力のないすらりとした五本の指が君の手首を掴み、すぐに尽きて地にへと落ちそうになる。君はそのたどたどしい彼女の手を握る。握りしめる。けれど肩を抱き寄せることができなかった。彼女は不思議そうに君をみていた。息があがっていた。頬が仄かに紅く染まっていた。苦しそうだったけれど、君はやはりできなかった。水嶋の顔が浮かんで、君の身を蝕ませた。「ごめん」君は彼女の手を握ったまま、何度もそう謝った。彼女に目をやると、「ううん」と彼女は優しく首を横にふった。「気にしないで」
涙がまた昇ってきて、鼻を強く啜った。
彼女は本当に水嶋という男を求めているのか。君は自室のベッドに腰をおろして考えに耽った。水嶋の言っていることは本当なのだろうか。薫はな、お前にいつもああやって見られていてな、相当むかついてんだよ。嫌がってんだよ。だからさ、今お前がやっているのは無駄なんだぜ。アプローチかなんかならもうやめろ。幾度と彼の発した言葉が脳で繰り返される。寂寥な室内の空気はまだ夜に触れている。時刻はまだ午前五時にもなっていない。窓から確認できる外はまだ暗く、まだ世界は眠りのなかにいる。いつもよりはやく目を醒まし、もう一度眠ろうとしても不可能だった。だから身を起こして適当に本棚から文庫本をとりだしてそれを読もうとした。けれど空白に満ちた活字に目を通そうとすると、やはり水嶋の顔がうかんで読書なんて無理だということに気づいた。やはり君はあれから彼に吐かれた言葉を重く引き摺っているのだ。手の平をみる。それは不確かで、不鮮明で、まるで自分の手じゃないみたいだ。やつれて、死人の手のようだ。外から渉ってくる音はなにもない。窓をあけて空を眺める。素朴で何もない夜だったが、いささか青みを佩びはじめていた。雲もまだ夜に隠れていて見えないほどだけれど。窓をしめて枕に頭を落とす。天井をみあげる。まだ天井も夜がただよっていて本来の色をみせていない。枕元から自分の使っている柔らかいシャンプーの匂いがした。眠気はもう取り除かれてしまっていて、君は不快さを引き摺ったままただ天井を見ていた。
森にむかったのは二十三時くらいのことだったから、睡眠時間としてはいささか少ない。しかしこの身体の疲れはそれが理由ではない気がした。多分いまから何時間と眠ったところで、このくたびれた君の身体は癒されないだろう。水嶋に与えられた傷は夜更けの淵のように深く、いつまでも痛みをもたらしていた。あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。どれだけ時間が経過しようが、君にはあの出来事がつい二、三分前におきたことのようにしか思えない。脳裏に浮かぶ景色はまだ生々しいほどに鮮明で、つよく焼きついている。彼の言葉も声調もあの奇妙な空の模様も、どれもがクリアに思い出される。画用紙とペンを渡されれば、そのシーンをほぼ模写に近く正確に描写できると思うほどだった。
君はひとしきり天井を見上げていた。頬あたりがこわばっているのがわかった。それは緊張などからもたらされるこわばりではない。涙が筋を描いて、そのまま乾いてできたものだった。乾いた涙は固まって君の頬にこびりついてそのまま放置されてできたものだ。
「見ているんだろ」と君は天井にむかって声をはいた。「出てきなよ」
僕は部屋の壁の隅に身を潜めていた。気づいていたのかい。ぼくは言った。君は当然だよ、と言った。そう言いながらも視線の向かう先はやはり天井だった。夜が染みこんだ白い天井だった。天井はまだ夜をあやかって、自身が何色だったのか、思い出せずにいる。
「なんでもいい。話がしたい」と君は言った。君はまるで「死んでいた」。何一つ変わりをみせない表情には熱もなく、色もない。口元だけが動きをみせるだけで、瞳には輝きも色彩も激しく欠落していた。君はゆっくりとまばたきをして、「あの森に動物はいるの?」とぼくに訊ねた。
ぼくは壁に背をつけて、腕を組んだ。いないよ。「あの森に動物はいない」
「あの森には彼女しかいないの?」君は訊ねる。
そうだよ。あの森には彼女しかいない。虫もいない。あの森のなかはなにもない。密集したおびただしい数の樹木と盛んな植物、滞りなく無邪気に流れる冷たい川、それを流す苔まみれの岩。それだけさ。
「なぜ彼女はあそこで一人でいるんだ」
ぼくは首を振った。それはわからない。彼女の心を再現するのにあたってそうなったのかもしれないし、「彼女がそう求めているのかもしれない」。詳しいことはぼくにもわからない。ぼくはあの空間と君を繋げることだけしかできない。
君はぼくが述べたことについて思索しているようだった。なにもない無機質な天井にそれらのことをメモするように。それから「君は気楽な立場でいいね」と皮肉を言った。嫌味だった。「僕の滑稽じみた様を見ているだけでいいんだからね」ぼくはそれを無視した。
森の中に彼女はひとりでいる。いつもあの森の中核にたたずんで、繰り返される夜の空をながめている。なにもない森はいつまでもしんと静かで、自身の呼吸音すらも研ぎ澄ませるほどだ。そんな素朴な空間の中でいつまでも彼女はいるのだ。君は彼女について思考を巡らす。それにつれて激しい後悔を覚えていった。彼女はあのとき、苦しみながらも君を確かに求めていた。それななのに君はそれを拒んだ。自身に対する嫌悪心を拭えなかった。それはやすりで削られた石の傷のように元に治すことはできなかった。彼女は確かに僕を求めていたはずなんだ。そう思い込もうとすると水嶋の声がよみがえった。お前があいつを苦しめてんだよ。そしてまた懊悩してしまう。なにが正しいんだ。なにが正しくてなにが間違っている? そして君はなにもわからなくなった。彼女のことも。水嶋のことも。夜更けの森のことも。そして、自分が彼女になにを求めているのかすらも。水嶋の声が幾度と脳に重なって響く。彼の声が思考の部屋のガラス窓を執拗に叩きつけてくる。君はその中で布団にもぐり、その音がなりやむ時をじっと待っている。怯えながら。涙をこらえて。恐怖が肌のさらに奥で沸騰してまた涙がでそうになる。夜は朝を迎えることに腑が落ちない様子で渋々撤退していっていた。ゆっくりとうごめく夜の気配には雲や星たちも伴われていた。月すらも掴んで、連れ去ってしまう。夜がまだ留まろうとしている雲や星に手を伸ばし、そのまま東側にへと引っ張って帰っていく。かどわかされていく雲の切れ目からあたたかな光が覗きこんで、世界に朝を告げる。それを誰よりもはやく感受するのは息を潜めていた鳥たち。光を悟った瞬間に活発さを取り戻し、威勢のいいさえずりを街中に渉らせて、まだ曖昧で青く霞む空のまわりをぐるぐると踊って舞っている。ぼくは消えた。夜はぼくも連れて帰ってしまった。その部屋には苦悶する君ただ一人だけとなった。カーテンの隙間からみえる空は群青色になる寸前の状態となっている。夜が明ける。それを知る。誰でもいい。僕のしていることが正しいと肯いてくれれば。今日も君は二人をみて憎悪を覚え、嫉妬に苛まれるのだろう。水嶋は勝ち誇ったような顔をみせてくるのだろう。違うんだ。彼女にふさわしいのはお前なんかじゃない。僕だ。この僕こそが正しい。自分が正しい。そう君は何度も自身に言い聞かせて、落ち着きを無理やりにでも作り上げた。僅かに得た落ち着きから君にもたらしたものは、以前のように静かに湧き上がってくる狂気だった。それにつられて、奇妙な笑みが口元から洩れた。




