表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/10

7話

 水嶋は君が振り向くと同時に敵意むきだしの目つきで「もう薫を目で追うのやめろよ」とたしなめた。水嶋はナイフのように鋭い視線を君にむけている。君は黙ってただ水嶋を見ていた。「もうやめろよ。薫も嫌がってんだよ」と彼は言った。夕日が彼の肌を赤く染めた。

 君はなにも言葉をかえさなかった。けれど脳裏では様々な罵りで溢れていた。なんで彼女が僕を嫌がっているのだ。ありえないだろう。僕は彼女のヒーローなんだぞ? そんな僕が彼女を見つめてなにが悪い。見つめるのをやめるのはお前だろう。君はただ怒りに任せて罵声を発する水嶋と、夕暮れの空の模様を交互にみつめた。空はトーストの表面に塗り伸ばしたマーガリンのような平べったい雲が貼りついており、その雲は埃のような色をしている。空はすこしずつ隣り合わせの夜を招きはじめていた。紅潮する空の頭はすでに薄暗い。藍色になりかけの群青色を滲ませていた。そして水嶋の目を一瞥し、またしてもその奇妙な空の表情にへと視線を戻した。

「お前、薫のことどう思ってんだよ。まあ言わなくてもわかるけど」

 君はなにも言わない。空の彼方から訪れるものは夜を含んだ沈黙と淡い燈り。なにも返答せずに、彼の顔を一瞥して、すぐに逸らす。

「なんとか言えよ! どうなんだよ」水嶋は怒号を放つ。その気迫に君は目つきをゆがめる。「いつも俺らを見てんだろ? ほら。目の前にいるじゃねえか。なんとか言えよ。言いたいことがあるなら言えよ。聞いてやるよ。ほら」

 それでも君はなにも声を発さなかった。言えなかった、という表現のほうが正しいだろう。君は彼の迫力に足が竦んで、軽い慄然を覚えていた。なんとか声を振り絞ろうとする。「お……」

 あ? という不快感を隠さない声が返ってきた。「なんか言ったか? もっとはっきり喋れよ」君は悔しさから歯を噛み締めた。今から言うんじゃないか! 脳では軽々しく彼を罵る声がでた。しかし声にまでそれを運ぶことはできなかった。「お、おまえこそ……」

 水嶋はじれったそうに頭部をはげしく掻き、舌打ちを宙に洩らした。「うぜえ」

 君は小刻みに震えだす自身の手のひらに目をやる。慄いている場合じゃないんだ。なぜ僕がこんなやつに怯えているんだよ。自分自身にもどかしさを覚えた。親指の爪をこすりたかったが、互いの手はうまく動かなかった。戦々恐々としていて、指先の感覚が喪失した気がした。「なあ」水嶋が怒りを隠さずに君に言う。

「なにも言えねえくせによ。いつもこっち見てんじゃねえよ。言いたいことがあるならさっさと言えよ。なにもわかんねえだろうが。なあ、お前は薫のことが好きなんだろ? そりゃ見てればわかる。でもな、ずっと睨まれてもよ。目で追われてもよ、俺はなにもできねえだろ?」

 君は思わずうなずきそうになった。けれどそれだけは途中で踏みとどまった。これで彼の話につられて肯きでもしてしまえば、完全に立場は自分のほうが下となってしまう。それは阻止したかった。負けたくなかった。「あ、あの」と君は情けない口調でなさけない声が口から洩れた。水嶋はああ? と君の小さい声音に耳を傾ける。

「お、お前こそ」声を振り絞る。水嶋の顔を睨んでいるつもりだったけれど、視界にうつるのは自身の白いスニーカーだった。「た、高峰さんから……離れろ」

 水嶋からの返答はない。代役でも務めるかのように沈黙が流れた。その沈黙は君の神経をすり減らして苛ませるには十分すぎる代物だった。なんとかいえよ、と君は脳裏で叫んでいた。けれど水嶋のほうへ視線をやることはできなかった。自分が彼に畏怖している、という感情は認めたくなかった。白いスニーカーから目線は変化をみせなかった。静まった空気に夜が含まれていることに気づく。しかし夜が君に力を与えてくれることはなかった。裏切られた。そう思った。空は橙色から群青色に変貌していって、そして藍色にへとなっていく。夜がすぐそばまで来ていた。青紫色の淵から夜が顔をだしていた。水嶋の溜めていた息を吐く音がした。その次に舌打ちがした。

「お前、それ本気でいってんの?」水嶋は淡白とした口調で言った。そして苦笑を洩らした。「だとしたら笑える」また苦笑の声がして、舌打ちも聞こえた。「うぜえ」その声もちゃんと聞こえた。

 君は黙っていた。またしても静黙のなかにへと蹲るように逃げた。目を逸らしたまま、握りしめる手に滲む汗に煩わしさをおぼえる。舌打ちがしたいのは君のほうだった。

「お前さ」水嶋が君との距離を縮ませる気配がした。水嶋の足が君のほうへ踏みより、思わず君は一歩下がる。しかし水嶋は君との距離を詰め寄ろうとする。君はたどたどしく何歩か後ろにへと下がって彼との距離をやや広げた。彼から舌打ちが聞こえた。「うぜえ」その声が耳から鋭く忍んできて肌をこわばらせる。刻まれた慄きの感情は拭えなかった。まばたきの回数が盛んになっている気がした。悔しさから唇も噛んでいた。涙だけは窺わせたくなかった。涙を流してしまえば完全に自分の負けだと思った。この状況でも十分に屈辱なのだが、涙を流すという行為だけはなんとしても阻止したかった。

「お前さ、自分で言ってることおかしいなって思わねえの?」思わねえんなら笑えるわ。彼はそう言った。怒りを通り越してもはや彼は呆れているようだった。その侮られているような態度がさらに君の怒りを募らせた。けれどなにも反抗できなかった。もともと誰かと会話することが苦手なんだ。はやく森に行きたい、と君は思った。はやく夜があの森にへと連れていってくれることを祈った。祈った。祈った。

「なあお前。お前に一つだけ言っとく」

 君は「え」と声にならない声を洩らして水嶋のほうへと視線をやった。足が竦んで不安定に身が揺れている気がした。

「薫はな、お前にいつもああやって見られていてな、相当むかついてんだよ。嫌がってんだよ。だからさ、今お前がやっているのは無駄なんだぜ。アプローチかなんかならもうやめろ」そう水嶋は言った。そして「うぜえな」と声を洩らした。

 違う。そんなわけないだろう。ありえない! 君は唇を噛みながらそう嘆いた。もちろん声にはだせなかった。彼女が僕を嫌がっている? 馬鹿なこというなよ。嫌がっているのはお前にだ! 僕は彼女を救っているんだぞ! それなのになぜ僕が嫌われなくちゃならない! いい加減にしろよ! 幾らでも罵声は生まれた。しかしその罵声を声にすることはできなかった。やりきれないまま脳裏の奥隅にへと消えていった。消化不良だ。認めたくない。君は水嶋に殺意ににた感情を抱く。殺してやる。言わせておけば、好きなようにぺちゃくちゃと。水嶋はそんな君の様子を見て、こう言った。

「お前があいつを苦しめてんだよ」

 そして水嶋は「じゃあな」と帰っていった。君はなにも言えないまま、一人になった。空は夕暮れの気配などとうに損なって、タンスの抽斗をあけて新しい夜を引っ張り出そうとしている。この青紫色の空がさらに更けこんで、完全な闇となるまでを繋げる時間はとても短い。肌を染めていた紅い灯りはすでに消火されていて、肌は暗色を深めている。君は涙をこらえながら自転車置き場まで足を運んだ。不安定な足取りだった。裏切った夜は君の憎しみなど知りもせず順調に歩みを続ける。夜の歩幅は規則正しく時間を歩んでいた。

 自転車に鍵を差し込んで、帰宅の準備をする。車輪を持ち上げていたスタンドを蹴り、自転車が二、三度ほど弾む。サドルに腰をおろしてペダルに片足だけ置く。まだ不完全な夜のなかをその自転車で駆けた。君の脳裏には森のなかにいる少女の姿だけが浮かんでいた。鼻を啜る。溢れでそうになる涙を自転車から感じる淡い夜の風でごまかした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ