6話
君の身にそっと夜が寄り添う。その夜を振り払って君は少女の肩を抱いていた。少女は突然の君の行動にいささか困惑していたかもしれない。けれど彼女は抵抗をなにもしなかった。君も気がつけば行っていた自身の言動に羞恥心を覚えたが、やがてそんな淡い感情も夜に融けていった。水面に沈む雪のようだった。
君はいつものように森にへと降り立ち、少女のもとにへと向かった。いつにもまして君が彼女を想う気持ちはつよく固定していた。水嶋から彼女を取り返す。君の脳に深く刻まれたその目的が、歩みをさらに毅然としたものにへとしていた。森を俯瞰する空ははっきりとした雲を携えていた。夜の色に抱かれて暗く滲んだその雲は君の頭上をたやすく覆い、夜の深みをさらに強調させていた。そんな雲のことなど君は気にしない。その雲に対する感情などそなえていない。君の脳裏を占めるのは彼女という存在。それだけだった。月が夜から消えようが、その代わりに引っ張り出されたような雲があろうが、どうでもいい。君は樹木から大地にかけて這い登った根を踏みつけて進んだ。少女の姿を探し出すのになにも迷いはない。彼女が夜を通じて君の名を呼んでいる。耳からではなく、脳から小さく聴こえてくる彼女の助けを求める声が君をさらに奮いたたせた。
どこからか伸びて空間を奪う蔓や大きな葉をした羊歯を手でどかし、肌をくすぐる煩わしさに舌打ちを洩らしながら前を見る。少女は苔がこびりついた岩に腰を任せて座り込んでいた。すぐ近くに川のせせらぎが聴こえる。彼女は君の顔に一瞥し、なにかを言った。その声はまどろむ猫が揺らす尻尾のように弱く、君の耳元にへは届かない。君の肌に夜と悪寒が抱きついてきて駆けた。君は地を蹴り、彼女にへと近寄る。「大丈夫?」君は彼女の肩に手を回し、顔色を確認する。白い幻想的な肌に青みが孕まれていた。水嶋の顔がうかぶ。怒りが脳に燻った。
その漂う空気からして彼女の具合が悪いことが理解できた。無理に柔和な笑みを浮かばせる彼女をみてさらに水嶋に対する憎しみが増した。お前のせいで。なぜ彼女がここまで苦しめられなければならないんだ? 水嶋への憤りは自己嫌悪を引っ張った。助けると決意したのに、いざとなればなにもできない。僕はなにをすればいい?
君はとりあえず水を汲もうと思い当たった。どうやって汲もうとまでは考えられなかった。君が立ち上がろうとすると、彼女は弱々しく君の袖をつかんだ。君は彼女のほうにへとまた視線を戻す。「ここにいて」と彼女は小さな声で言った。それは風に吹かれて舞い上がった砂埃のようにもろい声だった。君はいささか頬を染め上げ、そしてぎこちなく「う、うん」と肯いた。白く細い指は君の袖をまだ掴んでいた。シャツ越しに伝わる奇妙な感覚が肌をこわばらせた。頬の熱が冷めないまま彼女に目をやると、ゆっくり素敵な微笑みをみせた。頬の熱はさらに膨張した。しかしすぐに彼女の微笑みは失せた。
彼女はじっと君の右肩辺りをみつめて、小さく息を洩らしていた。君はただ彼女の肩を抱き寄せて、その小さな息を確かめていた。息はまるで雲の切れ端のように夜にへと消えていった。空にうごめく巨大な雲は二人をすっぽりと吞む影を引き摺っている。
水嶋の顔がふたたび君の脳裏に浮かぶ。水嶋は君の夜のなかで笑い声を轟かせている。耳障りな声が止め処なく君の全身に駆け、肌が痺れる。やめろ。君は頭を振って荒く息を吐く。お前じゃない。彼女から離れろ。夜が震えているような気がして、空をみようとすると自分がもがきながら地を這っていることに気がついた。彼女の肩から手は離れてしまっていて、森の地に散乱する葉っぱや折れた枝などを闇雲に掻きむしっていた。彼女は背を預けていた岩から離れ、君の方へと近寄ろうとする。混乱する君の視界は不安定にゆれ、ぐるぐると回って切り替わる。視界に映りこむのは闇を着飾った樹木。苔にまみれた岩。地に満ちる折れた枝と乾いた葉。そこから覗く黒い土。密集した木々からのびた影。光が差して目をやる先は雲に恐縮しながら顔をうかがわせる半月。そして彼女だった。彼女が君をみつめていた。
水嶋の声が消える。君の中を占領していた悪魔は夜のなかに隠れていく。やがて冷静さが君の底から踵をかえしていく。たぐり寄せていく。熱されたアスファルトに水を撒くように君の昂ぶりが冷めていく。興奮していた思考が彼女の姿によって暴走を中断する。君はしばらく彼女の瞳を見つめていた。そうだ。この彼女は僕が助けなければならない。僕がおかしくなっていちゃ駄目なんだ。この娘は僕に助けを求めているんだ。
ぼくはそんな独り言を脳裏で述べている君を背後で見つめていた。不安定な君は不安定な彼女をたすけようとしている。君はうつむきながら「ごめん」と呟いた。彼女は大丈夫なの? と君に訊く。うん、大丈夫。君はそういって彼女をみた。「ねえ」
なに? と彼女は首をかしげる。身を苛んでいた何かは先ほどと比べればとても弱くなっていた。普通に会話や仕草をとれるくらいには。
「……僕が」君は彼女のほうへと足を踏み出す。彼女はその踏み出した足を一瞥してから踵をかえして、君の顔をみた。君は俯いていて影が表情に重なっていた。「僕が君を守る」
君はそう言って彼女の肩を抱いた。彼女は突然の君の言動に動揺を隠せないが、からといって抵抗することはなかった。君は自然と彼女の肩に触れた自身の手に目をやる。そして自分がいま、何をしようとしているのかがわかった。君はそこで思いとどまる。彼女の肩にすらりと伸びたままの手を離そうとする。けれどまた彼女のほうへ視線を戻すと、君は手を離すことができなかった。この手を彼女の肩から離してしまえば、彼女は次こそ夜のなかに消えていってしまうんじゃないかというような感覚に陥った。それは嫌だ。彼女を失いたくない。ようやくここまでこれたんだ。いつまでも見ているだけじゃ嫌なんだ。音もたてず忍び寄る水嶋の存在から僕は彼女をまもらないといけないんだ。気がつけば自分が彼女を抱き寄せて、その細く白い身体の背に手をまわしていた。もう中断することはできなかった。彼女はなにの声も発さず、ただ君の胸元で息をしていた。闇にまみれて密集した樹木は風と共に葉をゆらす。川の流れる音はやむことなく二人の耳にへと渉ってくる。二人はそんな不思議な夜のなかで静かに息をしていた。
彼女をすぐ傍で感じ、君の脳裏に刻まれた覚悟はさらに強みを増して固くなる。僕が彼女を守る。彼女を救う。そう自分に言い聞かせて、降り注いでくる夜が首筋にしたたる煩わしい感覚を無視した。
今日も君は机に身をあずけて、水嶋と高峰 薫の行動をストーキングした。水嶋も君からの視線を鬱陶しくおもっているはずだ。君はそれでも構わず二人の様子を見据えた。君のなかで嫉妬という感情が湧くことは二の次なっていた。まず溢れてくるのは憎悪と怒りなどの邪気だ。それから遅れてやってくる嫉妬心がいつものように君の身を焦がす。自分でも醜いものだと思った。狂気の煙が君の肌をつつむ。君はじっと二人の様子を観察した。彼女の身にたたずむ「闇」の正体が水嶋だという証拠を掴まなければならない。いつもどおりに二人は二人にしかわからない会話し、二人だけの世界にいる。いや、違う。その世界には君もいる。君はただ見つめていることしかできないけれど。
終わりを告げるチャイムがなる。君は誰よりもはやく廊下をでて、誰よりもはやく登下校用のスニーカーを取り出す。靴をはく。街は夕暮れを坐らして、まるでライターの火のような色をほどこしていた。空からそそがれる炎は君の服を赤く染め、肌の色合いも深みを増す。校舎の白い外壁もその色をたくわえ、夕暮れの灯りに飼いならされている。夕日が君を見つめる。
誰かが君の肩を叩いたのはそのときだ。君は肩を置かれたほうへ振り向く。そして、即座に湧き上がる怒りと狂気をぐっと抑えて、鋭い目つきでその赤く染まった男をみた。彼の眼光も君に対する不快感で溢れていた。水嶋だった。




