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5話

 森の中から見上げる夜の空はなんだか所々欠けたみたいだ。純粋な黒い面に、おびただしい数の星を広げていた。月を隠す無愛想な雲はとっくに夜の奥にへと溶解されて消え、星たちがもたらす幻想的な煙のようなものをその黒い天井に昇らしていた。空はまるで空気を通すための穴を針であけたようだった。久しく見せていなかった夜の表情だった。ひとしきりその景色をみてから、君はまた草木の空間の奥にへと進んだ。

 夜の森になびく風はなかった。その森はしんと静寂を淀ませ、虚ろに葉が擦れる足音だけを発した。夜の隙間に流れる星の川は深い闇の淵にへと向かって上流している。樹木の間をくぐり抜けて、羊歯をはらう。沈黙は凪いだ森のなかの僅かな音ですら誇張させる。君の呼吸が素朴な空気に落ちていく。地に散らばった枝や葉を踏みつける。それらの音は洩れると同時に消散する。君と森を繋げる夜には切なく乾いた音だけがした。耳元に鳴り続けるのは自身の息を吸う音。息を吐く音。夜を吸い、夜を吐くだけの音だ。その呼吸音は安定して規則正しく耳元まで渉ってくる。なり続ける呼吸音とともに森は険しさを増して先にへと向かっていく。君の足取りに迷いはなかった。散らばる星はそんな君の歩幅に合わせて、魚の群れみたいに夜のなかを泳いでいた。

 どこを見ても景色は変わらずいつまでも森の繁茂な空間を演出していた。そんな闇のなかで君の足取りは毅然としていた。したたかな足取りで、着々と少女の元にへと向かっている。まるで匂いをたどって進む犬のように。君はなにの声も発さずに冷ややかな夜気を踏みつけて歩いた。巨大な樹木が地に落とす影は夜の闇のうえにさらに重なり、君の肌をまるで雨をしみ込ませたアスファルトのように暗く染めた。君の視界もそれに伴ってより暗闇を増す。

「こっちよ」という少女の声が夜をはらいながら君の耳もとに触れた。君は振り向いた。するとそこには彼女が微笑みながらいた。優しく手を縦に振って、君を手招きしていた。「待ってたよ」と彼女は言った。その言葉に君は思わず頬を赤らめた。照れからつい視線を夜の地にへと落とした。うつむく。それは本当に? と思わず確認をとる。「ええ。本当だけど? 誰も喋る相手がいないからわたしも退屈なの。毎日」そう彼女は言った。わざとかもしれないな、と君は彼女の様子をういぶかる。軽い軽快を肌にまとった。彼女は「どうしたの?」という表情で首をかしげて俯いた君の顔をみようとする。君は目を逸らして「なんでもないよ」と手を振った。そう、と彼女は視線を空にやった。

「今日は星がでているね」彼女の純粋な瞳には数え切れないほどの星が描かれていた。青い瞳がより幻想的となった。

 君も彼女の視線が向かう先に視線を同調させる。水がグラスから溢れ出てくるみたいに、次々と洩れていくる星を夜は急いで掬いあげていた。君はそんなせわしない夜をみて、都会の夜景のようだと感想が浮かんだ。

「夜にも様々な顔があるのね」と彼女は言った。そうだね、と君は言った。それから改めてそのとおりだ、と彼女の言ったことに対して思った。君にとって夜は生きているのだ。命を携えているものなのだ。夜が悲しみを装えば人々はなんだかやるせない感情になり、夜が闇を深めていくほどに人ははたして朝はくるのかと不安になる。人間は夜にしたがって歩んでいるのだ。海も、山も。すべては夜を迎えるために営んでいる。

 君は空を見上げている彼女に目をやった。彼女は変わらずしなやかな美しさを身にまとい、神秘的な光に包まれている。けれど。昨日の彼女と比較するとどことなく表情に翳りがあるように思えた。そこはかとなく元気が少ないような印象を抱いたのだ。いささか生気が抜けている、と言い表してもいいかもしれない。そう君は思った。君は彼女の顔色を窺いながら「どうしたの?」と訊ねた。「すこし、昨日より様子が変だと思う」昨日が初対面だったのに、こんなことを訊いてくるのは気味が悪いかもしれないな、と声に出してから考えて悔やんだ。もう遅い。

 彼女は君に一度目を向ける。それから「いや、なんでもないの」とかぶりを振った。「ありがとう」なにかを彼女が隠しているのはすぐにわかった。それから彼女を苛む「闇」という存在が君の脳裏に過ぎった。まさか。

「いや、隠さないで言ってほしいんだ。具合が悪いの?」訊ねる。

 彼女はしばし黙って、足元の小石のような塊を見つめていた。夜に包まれていて、それがなにかはわからかった。「たまにね」と彼女は訥々と喋りだす。「ものすごく胸が苦しくなるの。なんていうんだろう。ものすごく不安になる。まるで夜がわたしを試すみたいによ。とてもやるせない気持ちになるの。頭上に巨大な雲がたたずんだみたいに、なんだかわたしの心に陰ができるの。「心」のわたしがいうのもおかしいけれど」

 彼女が言い表そうとしていることには、高峰 薫に関した何かが示唆されているような気がした。彼女を虐げる「闇」のなにかがわかるかもしれないと思った。君はそのことにもうすこし言及した。どういう痛みがするか、やどういう時にそうなるか、などの質問をした。

 しかし彼女は静かに目を閉じて首を振るだけだった。「ごめんなさい」と静かな声でいった。「うまく言い表せないの。わからないの。ごめんなさい」いや、いいんだ。と君は言った。

 君は彼女をみる。無理に笑顔を作ろうとする彼女をみて君の心が痛んだ。そして水嶋のあの微笑んだ顔が脳裏に過ぎった。なぜ現れたのか理解できなかったけれど、彼の微笑んだその顔はそのまま君の脳裏に焼きつけられた。剥がれることなく、そのままそこにたたずんだ。すると徐々に君の怒りが体の奥底で震え、夜の核のように濃い闇の淵から腕を突き出し、ぽっかりと顔を静かに現した。憤りが君の瞳に宿る。マッチ棒の先端に火が灯るみたいに。まだ断定的な確信はない。だが君のなかで彼女に取りつく「闇」は水嶋の顔にへと変貌していた。彼は高揚する感情に委ねるように豪快な笑い声をせり上げていた。不快な幻聴が君の身体にのしかかり、感情をなぶった。彼は君の心情を挑発するように笑い狂い、増していく怒りに君は身が震えた。親指をこすっていた。お前じゃない。彼女はお前なんかを求めていない。彼女は僕が救うんだ。僕がヒーローになる。なあ、そうだろう? ぼくは黙って静かに歯を食い縛る君を見ていた。彼女は急変する君の様子に困惑しているようだった。「ど、どうしたの?」君の化物じみた顔を覗きみる。君は親指をこすりつけ、「……なんでもない。なんでもないんだ」と激しくかぶりを振った。

 やはり君は狂い始めている。彼女を強く想いすぎている。けれど、そんなこと。ぼくが君に言えるわけなかった。ただただ怒りを堪える君の小刻みな震えを見つめているだけだった。恋というものはその者に一の喜びを与え、十の苦しみをもたらす。ぼくは君の姿をみてそう思った。

 先ほどまで感じれなかった風が吹いた。森のなかを競馬のように駆け抜け、一気に君の背中から夜と共に押し寄せる。草陰が揺れ、樹木の葉が舞い散る。夜の空気が震え、君と彼女の髪や服がなびく。君は親指を力いっぱいにこすりながら、「僕が」と声をこぼした。彼女は「え?」と顔を近づける。

「僕が君を守る」その声には震えがあった。君の狂気が涙を誘っていた。それが頬に垂れた。



 翌日。君は高峰 薫を延々と目で追った。誰からでもわかるくらい露骨に。なにも隠そうとせず、君はただ一途に彼女の姿を見つめていた。彼女も気づいていることだろうと思う。構わない。君はじっと彼女を見据えていた。差し込む朝日のように震えのない君の視線は水嶋にも気づかれる。構わない。水嶋は君を不快そうに目をやり、「見てんじゃねえよ」とその眼光で吼えていた。けれど君はなにも動じない。揺れない。いつものように身を襲う嫉妬よりもはやく、彼女を救うという決意の意思がますます向上した。以前のように歯も食い縛らない。親指の爪をこする癖も現れない。ただ君は彼女を救うことだけを目標にして見つめている。やがて学校が終わり、「君の時間」にへと移ることを告げるチャイムが校舎に響いて壁に痺れた。君は席を立った。

 今までの彼女の日々を思い出す。彼女について、振り返ってみる。彼女が同姓の友人などと一緒にいるときを君はみたことがなかった。彼女は宿題を教師に渡すときだったり、お手洗いにいく時だったり、授業中だったり、そんな時以外はいつも水嶋と共に行動していた。それはなぜかはわからない。それが自然な流れなのかもしれないし、ただ一緒にいたいからかもしれない。けれど君にはどうもそんな理由だとは思えなかった。思いたくなかった、という方がぼくから見たら正しいと思う。彼女は水嶋に強制されているのだ。束縛されているのだと思い込んでいた。彼女も本当は自由にいたいはずなんだ。なのに水嶋がそれを許さないから。彼女はそんな水嶋の束縛がもたらす苦痛に苛まれ、「闇」を身の中で生んだ。そうに違いない。僕のこの推測が間違っているわけがない。まさにそのとおりだと思わないか? 君は自分自身に訊ねた。ああ、そうだよ。そうに違いない。間違っているとは思わない。君は水嶋を睨む。君は水嶋の背中を睨みつけて脳裏で呟く。君が彼女を想う気持ちは、森の樹木をすべて溶かしたとしてもまだ足りない。まだまだ十分に余るくらい膨大なものなのだ。

 僕の彼女をかえせ。その彼女は僕のものだ。お前のじゃない。

 そのとき、ぼくは純粋に。ただただ単純に。君に恐怖を感じていたと思う。実態がないぼくの体が粟立つのがわかった。




  

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