4話
水島 篤という男は、現実での高峰 薫のボーイフレンドだ。学校での高峰 薫はいつも水島と一緒におり、一度として離れているときを見たことはなかった。君はそんな二人の様子をただ見つめていた。彼女は水島の席の近くでなにかを話していた。その彼女の表情には笑みはなく、からといって嫌々接しているような雰囲気も感じれなかった。君はただその光景を目にしながら、必然的に訪れる身を焦がすような煩わしい嫉妬と対峙している。腕で机に囲いをつくり、そこに顔を填めるようにする。二人は何を話しているのだ? わからなかった。いつも二人は一緒に行動しているが、そんなに何を話すことがあるのか君にはわからなかった。
君は水島の愉快そうな顔を見るたびに強い嫉妬心に苛まれる。誇張されていく憎悪が君の奥底で蓄積していき、気がつけば歯を食い縛っている自分がいた。左手の親指の腹で右手の親指の爪をこする。君が怒りを抑えるときはいつもこの癖があらわれる。落ち着け、落ち着くんだ僕、と自身に言い聞かせながら。何度もこすりつけ、傷を深めていく邪気と格闘した。水島はそんな君のことをからかうかのように、気軽に彼女の腕に触れたり、息がかかるくらいの距離にまで接近したり、そして誰にもわからない二人だけの会話をする。なぜだ。なぜあそこにいる男が僕じゃない? 君はその現実が不思議でたまらなかった。あんな男のどこがいいんだ。僕はなぜあの二人を見ることしかできないんだ。毎日のようにそう感傷に耽り、一人の夜に死について思考を巡らす思春期の少年のように空虚な悲しみだけを覚えた。毎日のことなのに、慣れないこの感情に君は辟易としながらも向き合わなければならない。高峰 薫という人物を好きになってしまったのだから。
淡々と活字が空白を埋めていくように、君の思考はさまざまな感情に満ちていった。激しく君を揺さぶる感情はどれも莫大な力を備えており、一斉になって君の心内に忍び込んでくる。親指をこすってそれを堪える。腹の底を焦がす嫉妬心がまるでガラス窓に打ちつける雹のように君の腹底を叩く。親指をこすってそれに耐える。歯を食い縛ってその悪魔を取り押さえる。息をする。息をする。君は机に身を預けたまま静かに疲弊していった。机に顔をかくしてもがいている君を見る周りの視線がどんな意思をしているかなど、興味もない。どんな目でみられようが構わない。君は声を殺して狂ったように歯を噛み締めて、親指の爪をこすり続けていた。
君は親指をこすりながら、森の中にいる彼女のことを思った。白い肌に白いワンピースを着た蒼い目の少女。あの少女は君を待っているはずだ。そうであってほしい。君には夜がいる。闇が空を覆えばまた君はあの享楽の夜のなかで踊り暮れるのだ。それまでの辛抱じゃないか。そう君は自分に言って、森の中にいる少女の妄想をした。今日はなにを話そうだとか、どんなことをしようかだとかだ。やはり君が信頼できるものは夜の来訪者だけなのだ。君はしばらくして訪れる夜を待ち詫びる。夜のことを思う。その感受する夜のなかには夜の繋ぎ人という存在も入っている。君はぼくが君に言ったことを思い出す。「彼女の「闇」を取り払ってくれ」そうぼくは言ったんだ。君はそのことについて思考を巡廻させてみる。
彼女の心を苦しめる「闇」。それの正体はなんなのだろうか。君は考える。そして君は呻る。もちろん声にはださない。学校で君は滅多なことでも起きない限り声を発さないことにしている。自分はこの教室の壁とそこまで存在の意義が変わらない。話す友人もいなければ、同情からか君に声をかける人もいない。君はただ呼吸をする壁と変わりはしない。必要のないところに建った壁だ。邪魔になるくらいしか自分の特徴は見当たらない。それは君も自覚済みだった。君を匿う存在はこのぼくだ。ぼく以外には誰もいない。学校は水島への憎悪と怒りだけしか湧かない場所だ。君にとって息苦しい空間なんだ。君を取り囲む最適な環境はいつだって夜が築くのだ。そう、このぼくだ。
君は遠くから高峰 薫を観察する。彼女はなにかを抱えている。彼女を虐げるなにかを。胸の内になんらかの「闇」を秘めている。それがなにかはわからないけれど、その「闇」は多分この今の瞬間でも進行しているのだと思う。なんとなくそう思うのだ。水島に目をやる。水島は高峰をじっと見つめて微笑んでいる。その水島の表情が君の心情を激しく煽るのは容易いことだった。やりきれない思いに駆られて、また親指をこすった。その感情が殺意に似ているものだということに気づいたのは、つい最近のことだった。水島という存在が君の世界にあることで、君はいつまでの蹂躙されていく。いつか君は崩れ、欠けていき、消える。そのまえに君が彼を始末しなければならない。水嶋という男を彼女を取り巻く環境から引き剥がさないといけない。そんな風に思えてきていた。そう、すでに君は「狂い始めていた」んだ。静かに。部屋にこもった煙のように。
夜がくる。そのことがわかった。肌に触れる空気がいささか冷えを佩びたのだ。君は田んぼの水面に反射されて映る夕方の空と雲をみつめている。水面の雲は静かに流れ、黄昏を引き摺り出そうとしている。空の色がすこし黒ずむ。暗色が滲みだした。夕日の火を底にへと仕舞い、蒼白い色にへと変わる。そこから夜が本格的に更けこんでくる。しかし、それまでにはまだいささかの時間があった。いわば現在は夜をつなげるための暫定的な時間帯なのだ。昨日のような肌をさする風もなく、月の姿も見当たらない。律儀に夜は訪れるのに、月は気まぐれなものだなと思った。その代わりでも務めるかのように今日は星がうっすらと出ていた。まだ青紫のままの空に星がちらほら確認できた。眩暈がして視界を飛び交う粒子のような光にも似ていた。君は高い位置に並んだ星や色を深めていく空の様子をただただ見つめていた。
尽きるのことのないカエルの鳴き声が夜にたなびき始める。ようやく君の待ち望んでいた夜が到来してきた。ぽつりぽつり、と雨がアスファルトを濡らしていくみたいに星の数が夜に増えていく。君は身の疲労を繕ってくれる風をまつ。空はシャツを水に濡らすと付着していた絵の具が滲むみたいにゆっくりと夜をほどこしていく。
君はまたどこからか聞こえるぼくの声を心待ちしていることだろうと思う。君の脳裏に浮かぶのはあの夜の草木が生え茂る深い森の奥だ。そこで樹にもたれて碧い瞳で月をみあげる少女だ。君はそんな彼女のことを思うと水嶋に強い嫉妬心を抱くかたわら、優越感のような感情にも埋もれた。高峰 薫を救うのはこの僕だ。彼女の心にある退屈な夜に声をかけるのは僕なんだ。それは決して水嶋なんていう男じゃない。彼は高峰 薫と青井 静の間には必要のない人物だ。息を夜に吐くと、同時に笑みまでこぼれた。昼間の君――つまり嫉妬にもがき苦しんでいた君はもうこの夜にはいない。訪れる夜のなかにいる君という存在のなかには、昼間に苛まれていた感情など既に消えている。高層ビルに隠れた夕日みたいに、余白も残さず。
星があの森の中の樹木みたいにおびただしく増えはじめ、この夜が君の名を呼んだような気がした。そして必然的なことのように前髪が揺れ、君を匿う癒しの風が静かに夜に流れはじめた。




