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3話

 うごめきを窺わせた草陰を延々と君は見つめた。やがてそこから「だれ?」という警戒の意思を携えた少女の声がした。その声は君がいつも目で追う彼女のものとそっくりだった。模倣しようとしてもここまで正確には出来ないだろうと思う。そのことを君はすぐに判断できた。あの声の主が高峰 薫の心理を比喩した少女だ。彼女の心なのだ。ようやく見つけた。樹木の葉の隙間からは蒼い光が地に注がれ、君の足元を青く染めている。闇夜を引き摺っていた森のなかに僅かな光が加わる。君はひとりでに動きをみせた草陰を見据える。少女はそこに身を隠して君が何者なのか疑っているようだった。

 君は彼女の訝りを解くために思いつく言葉を淡々と言った。「大丈夫だよ」とか、「僕は君に会いにきたんだ」とかそんな言葉を夜に並べた。彼女は草陰に隠れたまま「わたしに会いにきた?」とその言葉を反芻した。「一体どこから? この森はわたしだけしかいないはずよ」僕は現実の世界から来たんだ、と言った。「どうやって?」と訊かれて、君は「夜の繋ぎ人」という名前を口にした。彼女はなるほどね、と納得したような声を出した。「つまりわたしの「本体」と関わりがあるのね」そのとおり。君はそう言おうとしたが、それを言い切ることはできなかった。たしかに君は彼女のことを知っている。そして好意を抱いている。けれど高峰 薫のほうはどうだろうか? 君と直接的な関係などあっただろうか? 無かった。しばらく思考をめぐらす必要もない。君と高峰 薫の関係などなかった。君が彼女に片思いを抱いている、それだけのことだった。だから君は自信をもってそのことに肯定することができなかった。「そ、そうだよ」君はぎこちなく肯いた。

 君は蒼い月に照らされながら彼女の登場を待った。「だから出てきてくれないかな?」と訊ねた。すると翳りを蓄えていた草陰が激しく震えた。そしてそこから白い腕が覗き、葉を払いながら立ち上がる白い少女が現れた。君はその少女をしばらく見つめていた。美しい白肌は夜の暗闇のなかで輝き、肩ほどの長さをした黒い髪は夜の空気を震わした。白いワンピースを着飾っていて、すらりと伸びた白い腕や足は細くて幻のように脆い光に包まれている。君は目の前に現れた白い彼女の身体を視線でなぞる。整った爪先から、純白な足は大胆に太ももまでも露になっている。そしてなんの飾りもない白いだけのワンピース。それから細い腕。すこし触れれば壊れてしまいそうな肩。首筋。そして、瞳。その瞳はまるで海の中核のように青かった。君はその瞳から先ほどの白い狐の男を連想してしまう。綺麗だ、と君はつぶやいていた。

 「ありがとう」と彼女は言って月の光が落ちる場所にへと肌を晒した。白い肌が澄んだ湖のような色合いへと変わる。君は近くに彼女の触れた空気を感じて緊張する。彼女は高峰 薫の心なのだ。君がいままで見つめてきた憧れの女性なのだ。その彼女がいま君の触れれる距離にいる。森には誰もいない。君と彼女の間には月の雨と夜の闇だけだ。

「わたし夜が好きなの」と彼女は言った。そして彼女が見据える先には、空に乗っかった青い月があった。月は灰色の荒れた雲が渦をまくような模様をしていて、薄く蒼い服を闇のなかで着飾っている。彼女はそんな夜の月を見つめつづけていた。

「僕もだ」と君も言った。やがて暗い雲が夜を滑るように伸びて、月をおもむろに隠していった。そのひとりでにうごめく雲は水を含み、月と夜を隔てる隙間を湿らしていった。君の肌に降りしきる蒼い光がまた陰謀をかかずらって訪れる暗闇に喰われていく。雲がつらなりながら夜に流れて、それが引っ張ってきた影に君と彼女は納まった。彼女は「ああ、消えちゃった」と残念そうに言う。「綺麗だったのに」またすぐに見れるさ、と君はいった。そして樹木に背をあずけて坐った。まあそうね、と彼女もいって隣に並んだ。

 「夜って素敵だよね。いつも当然のように現れてこの森を暗く包んでまた新しい光を迎えるの。それってとても素敵だと思うの。そう思うでしょ?」

 そうだね、と君は言った。肌からはがれな妙な緊張は彼女の声を耳にすることでさらに拡張した。慣れない歯痒さに思わず視線をやる場所に困る。せわしなく切り替わる視界にやれやれ、と思いながら君は頬を掻いた。なぜ僕が緊張しなければならないのだ。「どうしたの?」と彼女が君に訊ねる。なんでもないよ、と君は手を振る。

「ねえ」と彼女が君にいう。「この森ってわたしの「本体」が作ったものなんでしょ?」

 そうだね、と君は言った。自らのことを「本体」と呼ぶ彼女がいささかおかしくて笑みを洩らしてしまう。なにかおかしいこと言った? いや、言っていないよ。君はごめんごめんと謝って彼女の話の続きをまった。

 そう、と彼女は言って話を続けた。「それでね、わたしがその彼女の心――というよりは精神を具体化した概念なんでしょ? それはわたしにもわかる。でもわたしはその「本体」がどんな人で、どんな事情があるのかなにも知らないの。いつもわたしはこの森のなかにいる。というより、「気がついたらここにいるの」。いつのまにか眠ってしまっていて、目を醒ますとまたこの夜の森のなかにいるの」

「目が覚めるとここにいる?」君は彼女の話の言葉をくりかえした。

「そう。目が覚めるとここにいる。森の中にいる。深い夜に包まれたこの森に。朝や昼などの明るい時間帯を過ごしていた記憶はないの」

 そういうことだよ。青井 静くん。君がいま目の前で話している彼女は「彼女の心」であって「彼女そのもの」なんだ。高峰 薫が眠りにつくと目の前の少女が目を醒ます。そしてこの森が夜明けを迎えると少女は消えて、高峰 薫が目を醒ます。彼女の日々はこの循環さ。君が訪れた夜に傷を修復してもらうように。彼女も眠りにつくと森にへと向かうのだ。ぼくは君にそう教える。君はよくわかっていないだろうけれど、曖昧にうなずく。

「私の「本体」はどんな人なの?」と彼女は訊ねた。「ねえ教えて」

 君は高峰 薫のことを脳裏に描き、考えてみる。「教えてもなにも、君と一緒だよ。とても美しくて、周りを魅了している。君の「本体」に好意をよせている男子もいっぱいいるよ」そして僕もその中の一人だ、と君は声に出さずに言った。

「へえ」と彼女は興味深そうに肯いた。「やっぱりわたしと似てるのかな? ほら、顔とか」

「とても似ている」と君は言った。本心からだった。「顔どころか声まで一緒だ」

「それなら、君も照れちゃうんじゃない?」

 そう訊かれて君は驚く。まさか彼女は気づいているのか? 君はあわてて訊きかえす。「そ、それはどうして?」

「だってわたしの「本体」はモテるんでしょ? ならそれの声までそっくりなわたしでも照れちゃうんじゃない? そういうことじゃないの?」彼女は平然とした表情で首をかしげる。君の瞳をずっと見つめていた。「ごめんなさい。わたしあまり人の心理だとかがわからないの。なにせわたし自身が「心のメタファー」だし」

 君はうなずく。「ぼ、僕はあまり君の「本体」にそういう感情は抱いていないし」

「でもわたしに会いに来たじゃない。やっぱりわたしの「本体」と何らかの関係はあるわけでしょ?」

 君はしばし黙り込む。言い返す言葉が見当たらなかった。若干の焦りを額に浮かべる。やがてあきらめて、ゆっくり肯いて認めた。「そうだね。正直、照れる。変な感覚だよ」ほらね、と彼女は君の顔をみつめながら笑みを浮かべる。「あなたとわたしの「本体」はどんな関係なの?」再び君はうつむいて黙った。なんと説明すればいいかわからなかった。君はひとしきり思考を巡らして、幾つかの嘘を夜の欠けた箇所に填めてみた。しかしどれもその欠如した箇所を完全に塞ぐことはできなかった。ぴたりと重なる形態のものが無かった。そんな君の押し黙る様子を彼女は察したように「複雑な関係なのね。ごめんなさい」と謝った。君は都合のいい彼女の解釈に感謝した。「いや、構わないよ」そう言いながら内心では安堵の息を洩らしていた。助かった。

 しばし二人の間に沈黙が挟まった。これはいけない、と君は違う話題をきりだす。「そういえば、ついさっき森の中で変な集団に出逢ったんだ」変な集団? と彼女は言葉をくりかえした。それはどんなの? 君は先ほどみた妖怪の集団たちの舞踏のことを話した。白い狐の男や着物をきて三味線を弾いていた女、青い炎を囲んで太鼓の音にあわせて踊っていること、そして奇妙な色にへと変貌した瞳のことなどを。その非現実な話に彼女は興味深そうにうなずいていた。その幻想的な光景を想像しているようだった。

 その話を聞き終えたあと、彼女は「それは多分、この夜があなたを歓迎したのよ」と言った。「わたしはその集団を見たことはないけれど、そういう気がする。多分この夜更けの森があなたのことを歓迎したのよ」

「君のその解釈はとても素敵なことだと思う」と君は言った。「ぼくはまだあの集団が残していった余韻を引き摺っているんだ。まだ思い出すだけで心が踊ってしまう」

「きっと君の「心」も、君が作り出した世界で踊っていると思うわ」

「あればの話だけどね」君は言った。

 先ほどからなかなか彼女に目をやれないでいる君は、夜にたたずむ無数の樹木をただ見つめていた。樹木をひとしきり見つめていると、徐々に樹木がその容姿をあからさまにしていっていることに気がついた。樹木にこびりついていた闇が朝焼けを迎える寸前のような色を蓄えていっているのだ。空を見上げると、さっきの雲はとうに夜に擦れて失せていて、瞳のような月が、まるでテーブルにそっと花を添えるみたいに夜の面に置かれていた。

 「そろそろお別れの時間ね」と彼女は言った。確かに空は先ほどの徹底していた漆黒から黴のような濃い藍色に変化しつつあった。夜が明けつつある。ゆっくりと。彼女はじっと空の模様をみながら「また今夜も来てくれる?」と君に訊ねた。もちろん、と君は言った。「またくるよ」

「ありがとう」と彼女は言った。そして微笑んだ。「あ、最後に訊き忘れていたことがあった」

「なんだい?」

「君の名前はなんていうの?」

「青井 静」と君は名乗った。彼女は「青井、静。青井、静」と何度も君の名前を反芻して、記憶にへと収めた。「素敵な名前ね」

「ありがとう」君は礼を言った。たとえそれが高峰 薫本人じゃないとしても、そう言われると君はもちろん頬を赤らめた。そして青井 静という名前のどこが素敵なのか考えてみた。

「それじゃ」

「それじゃ」

 やがて彼女の姿が足元から不鮮明になっていき、森の樹木や羊歯などの植物は姿を消していった。蒼白い光が隙間から差し、彼女のほうにへと広がっていった。彼女が君に手を振って、君は手を振り返した。また、と言おうとしたところで君の視界は自室の白い天井にへと戻っていた。窓の外に広がる空はまだいささか暗いが、朝を迎えたことはわかった。時計をみると五時を回ってすぐだった。

 そこにはぼくはとうにいない。自室にいるのは君一人だ。ベッドに横たわって天井に顔をむけている君ただ一人だ。ぼくは夜の繋ぎ人。君を匿う夜はとうに去った。消えた夜はぼくも伴って消えたんだ。しかし君は寂しさを感じない。また彼女が森で待っていることを思うと、自然と君は静かな高揚を覚えた。久々の目覚めのいい朝だった。

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