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2話

 雲が隙間から広がって晴れていき、そこから月が見えるみたいに。君の意識は糸をたぐり寄せていく。徐々に明晰とした輪郭を取り戻していく。まず視界を侵略したのは地を覆う無数の葉だった。夜をすこしばかり含んだ葉っぱだった。君はその葉を一枚手にとり、ひとしきり観察する。どこからどう見ても普通の葉っぱだ。自分はいま森にいる。そのことを君はすぐに理解できた。君は彼女の森にへと到着したのだ。君はその場に立ち、夜が更けこんだ暗闇の森を見渡した。足を一歩踏み出してみると、水が触れた瞬間に身にひびを走らせた氷のような音がした。それはか細いなにかの枝だった。その枝と葉同士が擦れる乾いた音がしたのだ。そんな音ですら十分に君の耳に届く。森は完結した世界の一部のようにしんと静寂を籠めていた。空気がこわばっている。空に沁みこみ過ぎた夜に怯えるように。その夜のせいで森の内部を十分に確認できないでいる。抽象的に君の視界を占めるおびただしい数の樹木。空間を奪い合う様々な植物。お互いに争うように上下に揺れている羊歯。それらはすべて夜が染みていて、容姿の詳細がわからない。君はその夜更けの森のなかで少女の姿を探索する。

 森の中核に少女はいる。はたしてこの森の中核がどこなのかはわからない。わかるはずがない。君はどこが正しい方角なのかわからないまま歩みをはじめた。羊歯の葉が君の行く先を妨げるように茂っている。君はそれを手で払ってさらに森の闇の奥へと足を進める。

 この森の中には夜の明りがない。月が浮かんでいないのだ。狡猾な雲が夜に隠してしまったのかもしれないし、どこか遠くの方にあるのかもしれない。君は確認できない足元に神経を尖らせる。とくに樹木の隣を通り過ぎるときに注意する。樹の根が盛り上がっているからだ。つまずかないように注意を払っていないといけない。君はたどたどしい足取りで夜更けの森のなかを彷徨った。不安定な足場が君の行く先をさまたげて、おぼつかない。

 おびただしい樹木たちはどれも不規則な並びで生えている。それぞれの間隔もばらばらで成長の仕方も生える箇所も奔放で異なっている。立派な貫禄を備えたものもあれば、まだ未熟さが残るものもある。気まぐれに伸びた先には葉たちの塊が帽子のように頭上を包んでいる。そしてそこから欠けた葉がこうして君の足元に散っていくのだ。樹木の肌はざらざらとしたものの部分もあれば、いささか湿りを佩びた苔に覆われている箇所もあった。その湿りが君の指先を濡らす。さらに先へ歩くと川の音が耳のすぐ隣で流れた。

 せらせらと流れる水面がみえる。夜を水の中に含んでいて暗い。そこに近寄っていくと同時に足元は落ち葉や枝の山から、苔を覆った滑りやすい岩にへと変わった。注意をしながら君は進み、岩のうえでしゃがむ。そして流れる水面にへと手を差して、ゆっくりと夜の水を掬った。冷たい。指の隙間から川にへと帰っていく水の色はこの空と同じ色をしている。君はこの時間帯の海や山を想像する。どこかの海もどこかの山も、この森も、夜を迎えればどれも同じ色となる。夜に従うこととなるのだ。僕らはこの夜をたたえるのさ。そう君は脳裏で呟いて、水に濡れた自身の手をシャツの腹部分で拭いた。そして歩みを再開した。拭ったあとのシャツは湿って、拭きとったあとの手は冷えだけが残った。

 どれだけ歩みを進めても景色は変わらなかった。いや、変化はしているのかもしれない。しかし君にはわからないんだ。どれだけ歩いて自身を囲む森の表情を確認しようとしても、夜がその場に降りてその世界を闇で充たす。夜の垂れ幕に君の視界は遮られているのだ。だからわからない。確認のしようがない。足音も変わらなく、枝や葉を踏みつける乾いた音だけがしている。気がつけば川のせせらぎも消えている。君はひたすらこの沈黙に埋まった森の中を彷徨っている。景色は同じ色のままデジャヴを繰り返す。この森について、どれだけの時間が経過しただろう? ぼくはずっと君の後ろをついているけれど、時間の感覚すらも鈍ってしまうくらい歩いたと思う。

「ちゃんと僕は帰れるだろうな?」君がつぶやく。どうやらぼくの存在に気づいたようだ。

 帰れるさ。この森は夜明けとともに消えるんだ。夜更け後の森だ。朝の光を悟った瞬間に世界は元にへと戻る。

 「それはそれであまり嬉しくないな」と君は託つ。それじゃあなんだい? 君はこの真暗な森のなかに延々といたいと思うのかい? 君はしばらく黙り込む。森の静寂に吞まれたみたいに。そして口を開く。「案外、悪くない」君はそう言った。ぼくは思わず君に感心してしまった。

 歩みを続けていると、ふと今まで感じれなかった匂いがぼくの鼻をさすった。次に遠くから響いた余韻のような小さく柔らかい音がした。匂いには君は気づかなかったけれど、この音は君でも聴こえたらしい。「なんだ?」わからない。ぼくは正直なことを言った。

 君はその謎のほうへと足を向ける。そちらの方へと歩みが変わった。自然と足取りが軽快になっていく。なにかこの先にいる。水面に広がる波紋のように柔らかな音がした方向へと。君は足を運ぶ。ぼくも後を追う。夜の音は次第に明瞭さを強めていった。君はいささか笑みを洩らしている。険しく生え茂る葉や羊歯を手でどける。おびただしい数の樹木の間を通り過ぎていく。ずっとこの先に光がある。樹木や植物の葉の隙間から僅かに蒼い火の光が差し込んだ。その蒼い光は君の瞳にも辛うじて届く。その灯りのほうへ。その夜の音が鳴るほうへ。君は徐々に心を躍らせていく。辺りを包んでいた沈黙は君の耳から離隔される。君はすでに夢中だ。歩みを続けることだけに集中している。無邪気な鳥のように軽い足取りで地を踏んでいく。さっさっさっという地の足音も聞こえない。君は次第に歩きから走りにへと変わっていく。隙間から差す光が広がっていく。闇がその蒼い火にへと侵食されていく。君の先が青くなる。灯りは夜が染みた君の肌を青く染め、君の瞳の色彩を変貌させる。やがて人の影が、一人。――いや、二人。三人。四人と――。草をはらってようやく茂りから君は抜け出す。どうやら広場のような空間にきたようだ。そう解釈すると同時に君は視界の先で起こっている光景に思わず感嘆の息を洩らした。

 白い肌をした狐の男は緑や紫などの色彩を含んだ淡い色合いの着物に身を包んで、蒼い火の前で踊っている。跳ねている。蒼白いまるで月のような肌をした女は着慣れた桃色の着物を召していて、三味線のようなものを弾いている。さらに様々な男や女たちがいる。誰もが奇妙な衣装を着て、青い火を囲んで舞踏を繰り広げている。夜更けすぎの森の中心でまるでこの夜をたたえるように。跳ねて愉快に踊っている。太鼓の音が響いて、喧騒が広がっていた。

 その妖怪たちの宴をみていると君は自然と心が弾んでいく。自分が笑みを浮かべているのがわかる。葉の上に落ちる水粒のように身を弾ませる白い狐の男や大勢の妖怪たち。獣の尻尾のようなものが生えた男は一定のリズムを繰り返して太鼓を打ち込んでいる。獣の耳のようなものを生やした女は片目を眼帯で隠し、白い着物を着飾って白い狐の男とは反対に穏やかな踊りをみせている。まるで本物の踊り子のようだ。君の腹底を震わすような太鼓の音。その音につられて白い狐の男たちは飛び跳ねる。海辺の乾いた砂のように白い肌に歌舞伎のメイクのようなラインが描かれている。夜を焼くように盛んに立ち揺れる青い炎にその白い肌を照らして何度も彼らは跳ねて舞踏をする。三味線から流れてくる音や太鼓を叩く音。彼らはこの喧騒な音響がなり続けるかぎり、豪快な踊りを夜に披露しつづけるのだと君は思う。白い狐の男は淡い緑や紫が混ざった着物の袖を揺らしてジャンプする。無邪気に飛び跳ねる男の爪は鋭くて長い。君はその夜に踊る集団をただただ見つめている。その光景にたいして詮索しようという気も湧かない。ただその妖怪たち(正確には彼らが妖怪かはわからないが)が魅せている賑やかなダンスと、盛んに揺らめく青い炎に見蕩れていたのだ。徐々に君の奥底の心も彼らのように強く弾んでいく。君の心は躍っている。風が忍ぶ窓のカーテンのように。白い狐の男はそんな君の存在に気づいている。男は飛び跳ねながら、君の目をまっすぐ見据えている。君はどきっとするが、その宴から目を離せない。

 やがて白い狐の男の瞳が紅色に変貌した。君はその眼を見てしまった。その眼光の先が君の姿を映す。その瞬間に青い炎は強い閃光を放った。君は目が眩んでしまい光を遮る。次に君が目を開いたとき、妖怪たちの姿はなかった。燃え上がっていた青い炎も消えている。そこは夜の森を演出する樹木が不規則にならんで羊歯が生え茂る険しい森の一部にすぎない。彼らは痕跡も余白も残さず、忽然として消えていた。まるで幻のようだ。君は知らぬ間に夢を見ていたのかもしれない。

 しかしあの妖怪たちの集団が消えたあとでも、君の心は躍り続けていた。静かにはしゃぐ君の心は彼らが唯一残した奇妙な余韻に浸透していた。あの太鼓や三味線の音が、沈黙を取り戻して鎮静した森のなかでむなしく君の脳裏に響き続けていた。空を見上げると、先ほどまで姿を晦ましていた月の舟が、夜のなかをゆっくりと流れていることに気がついた。あの男の瞳とは対照的な色だな、と思う。その時、草陰が動いた。


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