10話
気のせいだ。きっと気のせいに違いない。君は強引にそう解釈しようとた。彼女の「闇」が僕なわけがない。君はそう思い込んでじっとその「闇」を見つめた。彼は僕じゃない。僕じゃない。あいつは、水嶋だ。
「水嶋」の姿をした「闇」は彼女の背中から離れることはなく、そっと彼女の体を包んでいた。抱き寄せるようだった。やめろ。「やめろ!」と君は怒号をとばして、握りしめるナイフの矢先を向ける。「そこから離れろ。その子はお前のもじゃない。僕のだ」尽きることなく口元から洩れてくる呟きは君の耳元にしのび、そのまま通り過ぎていく。その狂気からもたらされる呟きは振り返ることもなく、森の影隅にへと流れていく。排水溝にへと呑まれていく水みたいに。
彼女の背中に張りついたままの「闇」は訝しげに君を見据えていた。君はゆっくりとした歩みで彼にへと近づいていく。彼女は気を失い、萎縮した足をほつれた糸みたいにだらしなく伸ばしている。その伸びた足も「闇」が肌を這って潜んでいる。なぜ彼女がこんなことにならなければならない。この状況から君にもたらされるものは一つしかなかった。狂気だった。いきり立つ狂気だけが沸騰していった。君は思いとどまることなく溢れてくる狂気に委ねていた。「そこから離れろ。そこから離れろ。そこから離れろ……」感情の海が押し寄せてくる。けれどそれを抑えるドアはない。ナイフが光を含む。蒼白くきらめく刃は彼女の血の気が引いてしまった顔を映しだしている。水嶋の姿をした「闇」はきちきちと小刻みに震えだし、君の狂気に満ちた瞳を睨む。その水嶋の顔は、あの時と同じだった。お前があいつを苦しめてんだよ。幾度もその言葉が繰り返される。僕は彼女を苦しめてなんかいない。苦しめているのはお前だ。そこから離れろ。離れろ。「……殺してやる」君の食い縛っていた歯も、きちきちと小刻みに震えだす。
その瞬間、「闇」が動きをみせた。彼女の肌から離脱し、君の元にへと飛びかかった。「闇」は風をきり、腕を広げて君の前に一瞬にして現れる。突然あらわれた影に呑まれた君はすぐさまナイフを横に振るう。刃は宙を走り、風を二つに割る。先端部分が「闇」の胸元を擦った。それだけだった。「闇」は体勢を崩すが、すぐに踵を返す。君は勢いよく振ったナイフの向きをそのまま真っ直ぐにへと変更する。ナイフの矢先が「闇」の腹部を捉える。そのまま軌道に逆らって前へと突き出した。踏みしめた足が土の地にへと練りこむ。「闇」の動きは鈍く、そのナイフから逃れることはできなかった。
力任せに押しだしたナイフは空気を滑りこみ、揺らめきのない毅然とした軌跡をえがいて走る。鋭利な先端が形のあるものに突き刺さっていく感覚が指に伝わる。そのまま押し込む。歯を食い縛って、ナイフを握る拳に力をくわえる。さらに加える。異物が柔らかな肉の中にへと挿入されるのがわかる。額から大量の汗が吹きでるのと共に、気味の悪い感覚が指にながれて痺れる。それなのに、「闇」が覚えた直接的な「痛み」を感受することはない。君はナイフに刺されたという痛みを味わうことはない。生々しい感覚だけが指先から波紋を描くだけなのだ。あとはなにも伴わない。それを知る。それを知った瞬間に、君にまだ残っていた僅かなためらいすらも失せたのだった。ナイフを突き刺すなんて、簡単なことに思えた。
それからはなにも躊躇はなかった。ただただ感情の通りに体がうごいた。軽いそぶりをすればナイフはその軌道を追って空気中を駆けた。一度だけじゃ満たされず、彼の腹部を何度も突いた。昂ぶってくる憎しみや怒りから何度もナイフを持つ腕に力が入った。そのたびに内臓に異物が侵入する生々しい感覚が走って、君に快楽に似たカタルシスを与えていった。何度か笑みが洩れそうになった。まだだ。まだ笑うのははやいぞ僕、と自身に言い聞かせてその笑いをこらえた。柔らかな生身をこの鋭利な刃で抉るという行為が享楽でたまらなかった。いくらか「闇」は抵抗をみせるのだが、そんなもの君に通用することはなかった。君はとっくに理性を失っていて、もはやその体は虚飾にすぎなかった。悪魔が人間を装っているだけだと、ぼくには思えた。ただただ湧き出てくる感情にまかせてナイフを振りおろした。ナイフは「闇」の――水嶋の――肩を刺す。皮膚がぷちっと音をたてたと思えば、ぶちぶちっと肉が千切れていく音がした。ナイフは骨にまで達し、すぐに引き抜く。当然のように緋色の血があふれでた。もうダメだ、と制御できなくなって君は狂い果てた笑い声をあげた。視界はぐらぐらと揺れていた。自分がいま何をしているのかもわからなかった。ただただ肌に走る味わったことのない感覚をゆっくりと咀嚼していた。その享楽を貪っていた。
がむしゃらにナイフを振りかぶる。刃は真っ赤な血を被っているのに鋭さは衰えない。「闇」の腹を深く裂いて、足にもぐって肉をねじる。すぐに引き抜かれて空気に晒された刃はまた居場所を探すように宙を走り、すとんと振り落とされる。「闇」の肩に触れ、一度ナイフの持ち手に重みがかかる。君は舌打ちを飛ばす。息を吐いて、すっとそのまま力任せにナイフを押し切った。刃は彼の肩から薬指あたりに駆けて、そこまでの肉を削ぎ落とした。ぱっくりと開いた傷口は徐々に深くなっていき、最後は体から剥がれた。鮮明な緑をたたえる森の地面にそれは垂れ落ちる。散った葉や枝を赤く滲ませていって、殺戮の痕跡をその場ににきざんだ。そこで君は「闇」の足搔きがおさまっていることに気がつく。ナイフを振る手が止まり、あたりに沈黙が帰ってきた。荒い自身の呼吸だけが聞こえた。
彼はのたうち回ることもなく死んでいた。俯瞰してその姿に目をやると、とても悲惨な輪郭となっていた。肉の塊にすぎなかった。原型をとどめていない箇所が所々あり、君がまず思った印象は「下品だ」だった。昂ぶりが徐々に退いていき、息をぷかぷかと吐く。ぐっしょりと濡れた汗を左手で拭った。君はいくらか返り血を浴びていて、その自分の姿にまた興奮を覚えた。これが、僕だ。
ぼくは君のそばにへと近寄った。そして訊ねた。これでよかったのかい?
「うん」と君は原型のない屍をみつめながら肯いた。冷え切った瞳だった。「これでよかったんだ。これで彼女を守れたんだ」
確かに高峰 薫の「闇」を消すことはできたかもしれない。けれど、ぼくにはこれが正しい行為だと肯くことはできないよ。
「うるさい」と君は言った。「黙れよ。お前じゃなくて、僕が正しいと思ってやったんだ」
ぼくには君がわからない。とぼくは言った。なぜぼくは君にこの義務を任せてしまったんだろう、という後悔も覚えた。全くわからないよ。
「わからなくていい。これが僕なんだよ。君には理解できない人間。それが僕なんだよ」
君は立ち上がって、横たわる彼女のほうにへと向かう。彼女はまだ目を醒まさない。けれど、先ほどと比べて顔色を取り戻したような気がした。君はたずさえていたナイフを手から離して地に落とした。風が血まみれのシャツをはためかせ、生臭い匂いを樹木の隙間にへと流していく。これでよかったんだ。僕は彼女を守ることができたんだ。なあ水嶋。これでわかっただろう? お前じゃないんだよ。僕なんだよ。僕が彼女を救ったんだよ。これでいい。これで彼女は僕のものだ。彼女を救ったところで、僕が。僕がどうなるかはわからないままだけれど――。
視界にまず映ったのは、地に落としたはずのナイフだった。いや、ナイフは地に抛られてそのままの状態になっていた。虚しく放置されていた。それは構わなかった。君が疑問をおぼえていることは、なぜ僕はそのナイフを見ているのか? ということだった。それから自分が地に倒れていることに気づいた。なぜ僕は倒れている? 体を起こそうとしても、無理だった。体を支えようと手を曲げると、すぐに萎縮してまた頬が地に這った。なんだ? なにがどうなっているんだ? 彼女のほうへと視線をむける。なぜだよ。なんでだよ。ふと、君の脳裏に過ぎるものがあった。
「なぜ彼女はあそこで一人でいるんだ」
それはわからない。彼女の心を再現するのにあたってそうなったのかもしれないし、「彼女がそう求めているのかもしれない」
そう求めているかもしれない? 君はぼくが言ったその言葉を何度か反芻した。なにを求めているのだ。誰もいないこの静かな空間を彼女は求めているというのか? この森の沈黙を、欲していた? 水嶋でもなく。僕でもなく。彼女は自分が一人になることを望んでいたのか? そういえば彼女が一人でいるところなど一度も目にしたことがない。いつも水嶋がいて、授業中でもただ水嶋と離れているだけで、彼女が一人になったというわけではなかった。それに水嶋だけじゃない。――僕だって。僕もずっと彼女を見ていたのだ。延々と彼女の姿を目で追っていた。そんな僕の視線すらも、彼女の「闇」になっていたというのか? 嫌だ。そんなの、認めたくない。
彼女の身から何かが離れていくのがわかった。それは「闇」であり、「君」だった。君の姿をした「闇」が浮かび上がっていたのだ。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。君は何度もそう脳裏で訴えた。嘘だ。嘘だ。嘘だ! そう叫んだ。声にはならなかった。独りになることを求めている人もいる。誰も求めていない人間かって存在する。そんなの嘘だ。そんな、ありえない。ありえないだろう? 彼女はたしかに僕を求めていたはずなんだ。それすらも、嘘だったというのか? 彼女から取り除かれた「闇」は煙草の煙みたいに空に上昇していって、やがて廃れて消えた。君は信じられないままでいる。違う。信じたくないのだ。
なんだか騒がしく重なった音の群れがぼんやりと聴こえてきた。耳を澄ましてみると、その音は太鼓や三味線からもたらされる音響だった。あの夜を祝う喧騒が、君の耳元に侵入してきたのだ。嫌だ。嫌だ。声にならない嘆きを洩らした。あの音に呑まれると、もう帰ってこれないような気がしたのだ。君は意地でもその音から逃げようとする。けれど腕や足に力は入らなかった。中身の肉や骨すべてが奪われたみたいに軽かった。瞼をぎゅっと瞑り、視界をまだ来ない夜に染めた。嫌だ、嫌だ、という自分の声がその夜に放り投げられていった。
次に君が目を開けるとき。視界にはあの白い狐の男たちの集団が舞踏を繰りひろげている。何もない夜の下で踊り狂い、君を深い森にへと歓迎している。 END
はい。夜更けの森でした。この作品はいままでの作品の中で一番難しいものだったと思います。次回作はわかりやすい話を書こうと思います。あと、明るい雰囲気の話も考えています。




