1話
君、つまり青井 静には好意を寄せている娘がいた。その娘と君が出会ったのは、君が幼い頃にまでさかのぼる。君が彼女――高峰 薫――を求めるようになって、何年という月日が経った。時間は滞ることをしらずに、まるで何かを追うかのように進み続ける。それなのに君と高峰 薫との距離に一切の進展はない。それは対照的な光のように交わることはなかったのだ。ただ君は彼女の様子を遠くから見つめることしかできない。そして気がつけば彼女には恋人ができていた。それを知ってからの君の日常は常に毅然とした嫉妬の感情が隣にたたずむようになっていた。この誇張した嫉妬心に君が苛まれることなど彼女は気にもせずボーイフレンドとの日々の歩幅を歩んでいた。その様子を見てると、やりきれなさが激しく君の思考を揺さぶった。蒼い火を手招きする夜の空気のように震えるのだ。君にとってこの日々は地獄と変わらなかった。
そんな君に落ち着きを賦与してくれるのはこの夜の季節だった。一日の終わりを見送るために出現する深い夜は君の心情に落ち着きを配ってくれる。この夜のおかげで君は今までなんとか日々の拷問に耐えることができていた。夜の訪れを直感的に感受した君は今日も義務的に外に出る。夜が青井 静の名を呼んだような気がした。そしていつものように君は空をゆっくりと吞んでいく夜の姿をひとしきり見つめるのだった。
静かに立ち昇る夜の煙は街の喧騒すらも吞みこんでいく。やがてカエルが鳴きだして、夜が完成したことを君に知らせる。田んぼの水面にぽっかりと青い月が坐る。君の家の壁に夜が染みこんだ雲の影が動く。風が流れて君の髪がなびいた。月が光を君の瞳に押し込んで、君の瞳は青い火を灯す。どこからも鳴りだすカエルの声。合唱曲でも唄っているようだ。風が夜の中を通り過ぎていく。雲がゆっくりと流れる。君が探していた夜の音。それが君を取り囲むなかで静かになりだした。今日も損害してしまった心の傷を、その夜が癒す作業へと移る。この夜に幾度と君は助けられてきただろう。傷む君の心がすこしずつ元の形態にへと踵をかえしていく。今日が終わり、明日へと過ぎていく。君はゆっくりと息をして、夜の明りが点る居場所へと戻っていく。家の中に入るととうに夕飯がテーブルに並べられていた。夜の明り。夜の鳴き声。夜の匂い。
君は夕食を食べ終え、風呂を済ませる。それから何杯か水を呑む。そして自室にへと向かった。梅雨がようやく終わり、季節は暫定的な夜を伴って運びながら夏にへと移り変わろうとしていた。君は自室にはいると窓をあけて再び夜の空を眺める行為に耽った。窓の外にほどこされた夜は鳴り響くカエルの声を宙に遊ばせている。月はまるで壁に掛けられたカレンダーのような役割でも果たすように夜の壁に張りついていた。白い月はまるで首筋をなぞる汗のように煌びやかな輝きを放っている。瞳に映る月は君の肌を照らす。夜の一部を白く染める。黒い雲の輪郭をたたえる。夜の雲はまるで水を含んだ埃のようだ。そんな夜の中で孤独な君はなにかを探している。この夜の先にある何かを。夜の奥底に眠るまだ自分がしらない世界を。その夜の海のなかにあると信じて探す。君が信頼できるものは、この夜だけなのだ。夜が明ければ君はまた孤独となる。
だから君はあの何もない夜のなかで何かあることを祈り続ける。だけれど、そこにはなにもない。君もそのことは知っているはずさ。だけれど君は夜から訪れるなにかを待ち焦がれている。そんな君をみてぼくは思わず溜息を洩らしてしまう。窓から忍んだ風が吹く。月の光が揺れる。ぼくは君の耳元でそっと囁いた。
君には聴こえるだろう? ぼくの声が。
君はいささ驚きを見せて、あわてふためく。ぼくはそんな君をみて笑みをこぼす。君の中で夜が静かに震えた気がした。「だ、だれ?」君は少々困惑した声でつぶやく。君はどこからかするぼくの声に耳を澄まして、ぼくの姿を部屋の中に探す。だけれどその部屋にぼくはいない。あるのはシングルベッド。木製の机。文庫本が並べられた本棚。掛け時計。小さいTV。それだけだ。なぜならぼくは実態をもたない者なのだ。ぼくはこの夜そのものさ。実態がない。煙のようなものさ。触れられることは絶対に無いし、ぼくから触れることもできない。君に聴こえているこの声は、この夜の声さ。このなにも無い夜の声さ。
君はまだぼくの姿を探している。それでもぼくがしていた予想よりかは驚きをみせない。心内の七割は冷静さを保っているようだ。そのことにぼくが驚いた。「君はだれ?」と君がぼくに訊ねる。今のぼくの説明では納得してもらえなかったらしい。
「夜の繋ぎ人」
ぼくはそうとだけ名乗る。夜の繋ぎ人。それがぼくの正体さ。「夜の、繋ぎ人」君はその名を繰り返して声を零す。「僕にしかこの声は聴こえていない」そう、とぼくは肯く。「君には実体がない。君はこの夜そのもの」うんうん、とぼくは肯く。理解がはやいじゃないか。「なにも理解なんてしてないよ。さっぱりだ。……でもこれは僕の妄想ではない気がする。僕が無意識にいないはずの人物を作り上げて、一人で会話している、とかそんなことではない気がするんだ。君は確実に実在してる、ような気がするんだ。そんな気がしてくるんだ。僕もとうとうおかしくなったんだね」
そうだね、君は元々からおかしいよ。と言ってぼくは笑った。でも君がおかしくてぼくは話をしやすい。まあ、ぼくは幽霊のようなものだと思えばいいよ。「そういう風に考えているさ」と君は言った。「それで僕になんか用?」
まったく。ぼくは感心した。君は本当に話しやすいタイプだな。ここまで頭がおかしい人間は初めてだ。「ありがとう」君は礼を言う。そして自嘲気味に苦笑した。それで、だ。ぼくは君にある話をきりだす。君は肯く。
「高峰 薫という女の子を知っているよね?」まあ君が知らないわけがない。だからこそ君にこの話をするのだから。
君はその名前を耳にして一瞬だけ目を見開く。だがすぐに元に戻る。それがなに? と言うような顔をした。ぼくは話を続けた。「そして君は高峰 薫という女の子に好意を抱いている」君の頬がすこし赤くなるのがわかった。ぼくは気にせず話を続けた。
「君は高峰 薫が好きだ。自分のものになるのならこれ以上の幸せなどないだろう。人生の半分の時間を消してでも君は彼女を自分のものにしたいと思っている。そうだろう? いつも君は彼女のことしか考えていないし、学校でも彼女ばかりを見つめている。変質者とかわらない程度にね」君が頬を赤らめてだからなんだ! と言った。吼えるようだった。「僕をからかうだけならもういい」話はここからじゃないか、とぼくは言った。君はあっそう、と黙った。
「そんな君に彼女に関するある情報を教えてあげようと思う。いいかい? ぼくからの願いだ。聴いてくれるかい?」
なんだよ、と君が言った。
「彼女を救ってほしい」とぼくは言った。
は? と君は声を洩らした。「なにそれ」まあまあ聞いてくれよ。君には彼女を助ける義務があるんだ。ぼくはそう思うんだ。もちろんぼくも彼女のことをよくは知らない。それでも君なら彼女を救うことができるだろう、と思うんだ。
「高峰 薫という少女はいま心に巨大な「闇」を抱えている。彼女は毎日のように心に「闇」を溜め込んでいて、疲弊を感じている。彼女は「闇」に苦しめられているんだ。その「闇」の原因がなにかは知らないけれどね。だから、わかるかい? 青井 静くん。君には彼女――高峰 薫――の中にはいって、彼女を虐げる「闇」から守ってほしいんだ」
「ちょっとまって」そこで君はぼくの話をとめた。「彼女の中に、ってどういうこと?」その質問を聞いてぼくはああそうだった、と説明することを忘れていたことに気づいた。「肝心なことを言っていなかったね」
「ぼく。つまり「夜の繋ぎ人」は人間の心理を具体化した世界に人間を繋げることができるんだ。これの意味はわかるかい? たとえばだ。青井 静くん。君はいま実らない恋をしている。嫉妬ばかりの日々。君はわだかまりを抱えているはずさ。そのわだかまりは何らかの形で君の中に具体化している。つまり自分の心情を比喩した世界を人はそれぞれに持っているのさ。自分だけの世界。メタファーの世界」
「だからその高峰さんの精神を何らかの形で比喩した世界に僕が行く、てこと?」
そのとおり。彼の勘の鋭さにぼくは思わず感心する。「ぼく、つまり「夜の繋ぎ人」というのはその世界に人を繋げることができる概念なんだ」
意味がわからない。彼が言った言葉はそれだった。まあそうだろうね、とぼくも言った。「ひとつ訊いてもいい?」と君が訊ねる。どうぞ、とぼくは言った。
「仮にぼくがその彼女の状態を比喩した世界? に言ったとして、僕がどうやって彼女を救うの?」
「そうだね。ぼくはもう高峰 薫の心情を比喩した世界がどんなところか知っているんだ。そこは深い森だ。様々な植物が生え茂っていて、無数の樹木が気まぐれな並びで生えている。その森の中核あたりにだ。一人の少女がいる。その少女が高峰 薫の心だ。君はそこでその少女と出逢ってほしい。」
「出逢ってどうするの?」
「その少女を蝕む「闇」から守ってほしい。森の中の彼女はいま孤独なんだ。君は彼女と会話や普通に接するだけで構わない。そうするだけでも効果はあるんじゃないかな。ほら、愚痴とかを人に吐くとすっきりするときとかあるだろ? それと変わらないよ」
意味がわからない。彼が言った言葉はやはりそれだった。「彼女と会話したところで、彼女の……その「闇」というのは弱くなる、というか薄まるの?」それはわからない。とぼくは言った。でも彼女はいま孤独だ。森の中をずっと彷徨っている。誰かを求めているんだ。それは誰でも構わない。彼女はいま誰か自分を守ってくれる人の声を欲している。それに君は高峰 薫を求めているじゃないか。
「僕が彼女を救う」君はそのことを繰り返すように呟く。自身に言い聞かせる。それをぼくは見つめる。ぼくはとうに気づいている。君はいま、強い高揚を覚えている。彼女を救うのは僕しかいないんだ。そう君は脳裏で呟いている。君が彼女を思う気持ちは醜いくらいに巨大なのだ。君はどこか「狂っている」。ぼくがはじめて君を見たときからその印象は変わらない。君は高峰 薫を求めすぎている。君はどこかおかしい。
「行くよ。僕が彼女を救うんだ」そう君がいう。ああ、とぼくは肯いた。
「ほら、そろそろ夜が君を迎えに来る」
やがて夜の波が君の世界を覆っていく。星を食べ、月を吞みこむ。暗くおびただしい闇を溜めた深淵が君の腕を掴んでどこかへと引っ張っていく。君は目を閉じる。静黙な夜は君を眠りの森にへと招いていく。カエルの鳴き声が君の中から消える。袖にまとわっていた風が離れる。うごめく雲の影が失せる。君の夜がぱりぱりと欠けていって、別の新しい夜にへと運んでいく。夜を泳ぐ。夜に流されていく君は向かう。深い夜更けの森にへと。




