水魚の交わり
初めて会ったバーブルームーンで乾杯をして私はいつもの会話の様に言った。
「もう、私達ラストオーダーにしましょう」ほんの少し躊躇うように口元があがり男の目に微かに滲む涙を見て私は振り切るようにカクテルを飲み干した。
心の芯で繋がりあっている、どうしようもないくらい焦がれている。伝え合わなくても感じあえていると思っていた。だが、冷たい水流を感じ始めていた。
月に一度だけ研究会という名目で逢瀬を重ねてもう2年になるだろう。内科医として開業してまもない男、勤務医の私も開業をひかえていた。
私はその数時間だけが自分を曝け出す時であった。部屋へ入るときはいつも最初から始まり鼓動を息苦しい位に感じすっぽりと嵌り潤んで堕ちていく。優しく手荒に扱われる時、ふしだらな言葉を言うよう命じられ赤い麻縄で縛られ目隠しされ奴隷のように、愛玩動物のように調教されていく。躰の底でずっと願っていた事を男は最初から見抜いていた。「こうされたかったのでしょう。わかっていましたよ、初めて会った時からね」
二年前の秋、夥しいホームページの中からどう見つけ出したのか今は覚えていない。男の書く扇情的な文に誘蛾灯に集まる蛾のように女達が群れていた。私はそんな浅ましい女達とは違う。冷ややかに眺めていても男の書く倒錯的な文章にどうしても反応してしまう。
眩暈と熱くなる躰を持て余すように堪えきれずそのホームページにいくようになった。同じ匂いを微かに嗅ぎとった男もホームページに訪れるようになった。そしてある文章から男が同業であることがわかった。それは、救命医として生後四ヶ月の子供の命を救えず涙した事だった。自分も子供を持ってみて初めて泣けたと。女を手玉にとり冷笑しているような男に見えていたが意外な部分を見て微かな驚きと温かいものに触れてしまったようだった。
最初に書き込みをしたのは、男だった。「BGMを初めて聴いてみました。いつもは職場でしたから聴けずにいましたが今夜初めて聴いてみました。とても穏やかな曲ですね。この曲を選ばれた貴女のセンス、素敵ですね」
そして木々が恋に燃えるような色に変わる頃一通のメールが届いた。「星砂のような数のホームページの中から貴女の所へ辿り着きました。9月29日は誕生日ですね。」そんなメッセージとユーチャリスの写真とメッセージが添えられていた。「貴女に相応しい気品という花言葉を」 男の手の中で弄ばれる人魚のように堕ちていく自分が見えた。
どんな男にも感じた事のない匂いと手触り……やがて男の当直の夜にメッセージをやりとりしているうちに「お話したいのですが、もし宜しければ電話をしてもかまいませんか」熱病にきっと侵されていたのであろう。「携帯の番号をお知らせしますから、今お電話頂いても構いませんから」以外な事に男の声は、若く伸びやかで爽やかな薫りがした。それからは男の当直の深夜に電話を待つようになった。「今また救急車がきました。処置が終わったら電話しても宜しいですか」
私は心と躰が浮き立つのを抑えられなかった。最初から何の衒いもなく淫らな命令をされても、戸惑いよりも喜びを感じてしまった。男の声は躰を疼かせた。「バイブを持っているのでしょう。それをお花に当てて御覧なさい、ほら……当てて」受話器越しに囁かれるとどうしようもなく潤み艶めいた声をあげてしまうのであった。
互いに顔も知らずただ職業と年齢だけがわかっている関わり。私はあえて会いたいとは伝えなかった。49歳という年齢、たるんだ肉体は私を怖気づけさせた。男の文に描かれている女は妖しく輝くルビーのようでそんな女を数多く扱っているのであろうと思ったから。
公孫樹が色づく頃「会いましょう、11月1日にホテルを予約しましたから、貴女も泊まるのですよ」私の警戒心を溶かしてしまったものは、何だったのだろうか。見も知らぬ男と泊ることを承諾してしまうとは、きっと何度も抱かれている夢想に耽っていたからであろう。
先のない緩やかな関わりは、心地よくてせつない。男は私と知り合う前に家族を棄ててまで一緒になろうとした女性がいた。生まれて初めて母親の意思に背こうとしたが、子供のことを思うと妻には任せておけなかったからだと、そう言っていた。
飛べない男なのだろうという軽い失望感と安堵そして、男が好んで飼育していた熱帯魚のパイロットフィシュに私はなりたくなかった。居心地がよいように水質を準備する為の魚にはなりたくなかったから、何よりも人を信じる事ができない私には重荷になってきたからだ。男の私への無条件に近い信頼が疎ましくなったのが本音だろう。
「ありがとう、でも貴方の水槽では生きられない……」