閑話・空気少年奇譚
今年の夏休みは忙しい。
中学生の頃はまるで空気のような存在だった僕であるが、高校への進学を機に部活動に参加するようになった。それも人目を浴びる軽音楽サークルにだ。
軽音楽サークルに僕を引き入れたのは桃香先輩だった。引き入れたというよりは引っ張り入れたと言った方が正確かもしれない。桃香先輩は文字通り、下校しようとする僕の首根っこを引っ張って、部室へと攫ったのだから。一体何が起こったのか判らなかったが、流れるままに僕は軽音楽サークルへと入部することになった。
流されたとはいえ、しかし後悔はない。空いた時間にやることがあるというのは健康にいいものだ。何故なら体を動かすドラムという楽器を担当しているにも関わらず、中学生の頃からの悩みの種であった肩こりが消えたからだ。
胡散臭い? まあそうだろう。しかし事実だ。間違いなく、僕の肩こりは消えた。これは精神的なものも大きいと思う。ゲームくらいしか趣味のなかった僕だから、性格の方はそりゃあもう鬱々としているし、うじうじとしている。まあ、それは今でもあまり変わっていないのだけれど、多少は改善したのだ。改善したと言っていいと思う。だって友達が出来たのだから。サークル内だけでなく、クラスでも友達が出来た。もう空気扱いされることはなくなったのである。それだけの大改革が起これば、そりゃあ肩こりも治るだろう。当然である。
一層胡散臭くなった? 否定は出来ない。
と、まあそんなこんなで、例年ならばただ無為に時間を消費するだけの夏休みなのだけれど、人間関係を構築することに成功した今年の夏休みはこうしてお出かけすることもしばしばだ。
今日は桃香先輩と楽器屋巡りである。何でも墓村さんの誕生日プレゼントを買いに行くのだとか。墓村さんの誕生日は八月三十日であるから少し早い気もするが、遅いよりはいいだろう。
桃香先輩はエフェクターかギターをプレゼントするつもりらしい。
正直大丈夫なのだろうかと思う。エフェクターやギターともなればそれなりに値が張る。うちの学校は今時珍しくアルバイト禁止だから、そう簡単にメイン機材に手は出せないと思うのだが。
心配だ。何度も確認したことではあるが、改めて確かめてみるか。
「あ、あの、桃香先輩」
「あ? なんだよ」
「お金、大丈夫なんですか?」
「お前もしつけーなー。大丈夫だって。いざとなりゃ割り勘だ」
割り勘とか言われても、僕の財布は決して厚くはないのだが。
「お前は何買うの?」
「僕はピックで」
「消耗品じゃねーか。友達甲斐のないヤツだなー」
一応高めのピックをプレゼントしようと思うのだが、駄目だろうか。でも確かに消耗品はよくないかもしれない。
「んー、じゃあ弦とかどうでしょう?」
「強烈なギャクだな。あたしにどうしろってんだよ」
ギャグ? あ、そうか。弦も消耗品じゃないか。何を言っているんだ僕は。
「んー、じゃあカポとか」
「お、いいんじゃねえか?」
うん。カポならずっと使える。しかし墓村さんのギターのネックはどんな形状のものだったか。思い出せない。
「墓村さんのギターのネックってどんな形でしたっけ?」
「あー、確かオーバルシェイプだったかな。まあでも、大体フォーク用の物で問題ないぜ。判んなかったらあたしが選んでやる」
頼もしい。桃香先輩は基本的には面倒見がいいのだ。そろそろ引退の時期だが、ここで引退されるのが惜しまれるほどには面倒見がいい。というか桃香先輩が引退したら軽音楽サークルが廃部になる。きっと先輩もそれが判っているから付き合ってくれるのだろうと思う。ありがたい限りではあるが、受験勉強に差し支えては申し訳ないので、僕らも新しい部員を捜さなくてはならない。
大丈夫かなあ。墓村さんはサボリ癖があるし、桃香先輩がいなくなるということは墓村さんに対して強く言える人間がいなくなるということだ。というか僕しか部員がいなくなるわけで、それはかなり存続の危機である。
やはり桃香先輩に頼るしかないのか。情けない。
溜息が出る。桃香先輩は、昼間っから陰気クセえなあと僕を窘めた。
そんな調子でしばらく歩を進めると、目的地が見えた。
命衵中学校と道路を隔てて店を構える『ミスト』という個人店だ。ここは楽器店でありながら駄菓子を販売している変わった店だ。僕らにとっては楽器屋兼駄菓子屋という認識だが、近所の子供達にとっては駄菓子屋兼楽器屋といった認識で親しまれている。
喫茶店にも似た風情を持つ木製の扉を開けて入店する。
決して狭くはない長方形の店内には、楽器と駄菓子がひしめき合っている。手前側が楽器で、レジに近い奥の方が駄菓子のスペースである。あまり広さは感じないものの、奥行きがあるので、決して狭くはないのだ。
「いらっしゃい」
店の入り口付近でギターの試奏をしていた四十代くらいの厳つい店主が唸るような低い声で言う。
僕はこの人が苦手だ。話してみれば結構気さくなのだけれど、常時仏頂面な上にガタイがいいので威圧感を感じるのだ。バンドマンというよりはプロレスラーのような風体である。
「おーす。ワタパチって何処にあったっけ?」
「奥の右側の棚」
ぶっきら棒に言って奥を指差す店主。やはり怖い。
というかいきなり本筋を見失っている。僕たちは墓村さんの誕生日プレゼントを買いに来たのではなかったか。
「ん? おお、太郎ちゃんも来たのか。久しぶりだ。なかなか来てくれないからドラム用品を充実させようかと考えていたところだったんだ」
店主が僕に気付いた。一応僕も桃香先輩と墓村さんに連れ立ってこの店に来たことは何回かあったのだが、やはり店主のいかめしさに圧されて未だに一人で来ることが出来ないでいた。
いやしかし、僕が来ないからといって簡単にドラム関連の商品を仕入れようというのは些か経営者として軽率なのではないかと思わなくもない。
「おっさんがこえーからだろ。もうちょっと愛想良くしろよ」
桃香先輩が奥から話しかけた。しかも実に的を射た意見だ。
「む、しかし自分で言うのもなんだが、僕は子供たちには結構人気なんだぞ」
この店主、見かけに反して「僕」などという一人称を使う。多分子供にはそのちぐはぐな感じがウケているのだろう。
「あ、そうだ。おっさん、ギター見せてくれ。メキシコのジャズマスターと何か適当にアコースティックギターを頼む」
ワタパチのぶどう味を持った桃香先輩が奥から戻ってくる。ようやく本来の目的に立ち返った感じである。
それにしてもフェンダーメキシコのジャズマスターとはまた高校生の財布に優しくないギターだ。
「なんだ、今日はベースじゃねえのか」
「は、墓村さんの誕生日プレゼントを買いに来たんです」
「ははん。なるほどな。じゃあいいもんがある。ちょっと待ってろ」
調整中のギターをスタンドに置き、店主は店の奥へと入って行く。まさか駄菓子を持ってくるわけではあるまい。
「なんだろうな?」
「さ、さあ?」
「ジャズマスは持って来てくれるのだろうか」
「さあ……」
何と言うか、確かに桃香先輩の注文を聞いたというよりは、墓村さんの誕生日プレゼントという言葉に反応していた感があるから、ジャズマスターが出てきそうな雰囲気ではない。
と僕たちが不安を抱えていると、店主がボロボロのアコースティックギターを持って戻ってきた。
「これにしたら?」
いけしゃあしゃあと店主は告げる。
「ふざけんな。ガラクタじゃねえかよ」
「いや、そうなんだが、実は昨日墓村ちゃんが来てな。このギターに興味を示していたんだよ」
昨日。珍しい。一昨日まで墓村さんは桃香先輩から地獄を見せられていたからしばらくギターはお休みするものだと思っていた。
桃香先輩も同じことを思ったのか、怪訝な表情をしている。
「は、墓村さんは新しいギターを買おうと思ってるんでしょうか?」
「それはねえだろ。あいつ、随分今のギター気に入ってるみてえだし」
「じゃあ、プレゼントはエフェクターでいいのでは?」
「まあそれでもいいっちゃいいんだが、音が変わればあいつも飽きずに練習出来るようになるかもしれねえだろ?」
まあ道理なのかな。僕はギターの音の違いが判るほど耳が肥えてはいないからよく理解出来ないのだけれど。
「ま、何にしても墓村ちゃんがこれに興味を示していたことは確かだぜ? 試奏もしていったからな」
「ふうん。まあ、それなら弾くだけ弾いてみるか」
桃香先輩は店主からギターを受け取ると、ぱらぱらと弾いてみせる。
何だろう。聴き分けが出来ない僕でも判るほどに弦のビビりが酷い。
「何か変なギターだな」
「へ、変って言うか音もボロボロですよ……」
「いやあ、確かに音はボロボロなんだけど、何か弾きやすいっていうか……あたしってこんなにギター上手かったっけ? みたいな」
桃香先輩には珍しく要領を得ない。何かを訝しんでいるような表情をしている。
「お前も弾いてみろ」
「い、いやいや、僕はギターなんて弾いたことありませんよ」
弾ける気がしない。弦楽器ほどややこしい楽器もないと思っている僕なのだから。
盛大に遠慮する僕に、桃香先輩はギターを押し付ける。
とりあえずギターの基本はFコードからという桃香先輩の教えに従って弦を押さえる。
「Fコードさえ弾けるようになれば、それはもうギターをマスターしたも同然よ」
そんなわけがあるか。そうであれば墓村さんはあんな地獄を見ていない。
「指が……」
「気合いだ!」
桃香先輩は無茶を言う。いや、しかし案外無茶でもないのかな。段々と弦を押さえている指から力が抜けて、自然と押さえられるようになってきている気がする。
「鳴らしてみろ」
言われるままにストロークすると、綺麗に(弦のビビりはやはりあるものの)音が鳴る。
「おお! 太郎ちゃんやるなあ。僕がギターを弾き始めたときは一日中押さえ続けてやっとまともに鳴らせるようになったぐらいだったのに」
一日中とはまた誇張された表現だ。
「それが普通だろ。あたしだってそうだよ。大体、弾き始めなんて指の形がギター用になってねえんだからFのバレーコードは一番辛いはずなんだ」
なるほど。確かに道理だ。幾ら才があったところで、体の形はどうしようもない。鍛錬の中で楽器に順応していくしかないのだ。
「貸してみ」
再び桃香先輩の手にギターが戻る。
何やらカントリーっぽいソロがスラスラと展開されていく。やっぱり上手いなあ。
「それ、何の曲だ?」
「何となく頭に浮かんだフレーズを適当に弾いただけだ」
「ふうん。随分腕を上げたな」
「いや、上げてねえよ。だから不思議だと思ってんじゃねえか」
なるほど。自分の実力以上に力が出せることに、桃香先輩は納得が行っていないらしい。
「これ、なんてギターだ?」
桃香先輩はギターのヘッドを目に寄せる。
「ギブソンのロバート・ジョンソンモデルだ」
同時に店主が答えた。
「うひゃあ、こんなボロボロにしとくのはもったいねえぞ」
「そうなんですか?」
「大体定価で二十万くらいするギターだ」
それはまた……。目眩がする値段である。
「まあ、多少リペアはしてあるんだがな。あんまりボロいからそれが限界だ」
「これ幾らで買い取ったんだよ」
「覚えてねえ」
「買い取り証明書くらいあんだろ」
「なくした」
「商売人失格だぞ、おっさん……」
買い取り証明書は大事だ。ギターなど楽器類は特に。もしギターに使われている素材が輸入を禁止されているものであったなら、それを持ち込むことは密輸であるということになる。密輸されたギターが中古店に売られたとなれば当然調べが入る。その時に買い取り証明書がなければ容疑の対象になりかねない。
「まとめといたはずなんだがなあ。それにどんなヤツが売ったのかとんと覚えてねえんだなこれが。何時売られたのかも」
「ず、ずぼら過ぎませんか……」
あまりにあんまりな管理だ。普段突っ込んだことを言わない僕でもこれには突っ込まざるを得ない。
「見くびってもらっては困る。僕はこれでもちゃんとした人間なんだよ」
「説得力がねえな……しかしまあそれはあたしも判ってることだし、一応フォローくらいはしといてやるよ。おっさんは結構マメなヤツだ」
「そうなんですか?」
「ああ。おっさんのパソコンのフォルダにはな――」
「ちょっと待って。それは太郎ちゃんには言わないで」
桃香先輩の肩をぎゅっと掴んで冷や汗を流す店主。微妙にキャラが変わっているのだが。
なんだ。何が保存されているんだ。
「なんだよ。別にいいじゃねえか。男同士なんだから」
「僕は結構見栄っ張りなんだよ」
「そうかよ。まああれだ、おっさんの名誉が守られる範囲で言うとだな――アレな感じな画像が几帳面に管理されてるってことだ」
「守られてないじゃん。全部言ったも同然だよ、それ」
なるほど。確かにそれなら信用は出来るのかも知れない。僕なんかは結構雑多に保存している。プライベートでそこまでちゃんとした人が仕事で手を抜くとは考え難い。と思っておこう。これは僕なりの優しさだ。
「そ、それなら納得出来ますね。ならなんでこのギターの買い取り証明書だけなくなってしまったんでしょう」
「納得できるのか……まあ、僕の管理が甘かったというそれに尽きるよ。慙悔の思いだ」
「しかし、このギターがロバート・ジョンソンモデルってのは意味ありげだよな」
桃香先輩が言う。
ロバート・ジョンソン。誰だろう。ギタリストには詳しくないだけに話に着いて行けない。
「ああ、悪魔に魂を売ったギタリストだもんな」
悪魔に魂を。それはなんというか、墓村さんが好みそうな話である。
「どういう人なんですか?」
「ミシシッピ州デルタ地帯、ブルースの聖地とされている場所だな。そこから各地を旅したブルースマンだ」
なんだか浪漫のある話だ。
「ロバート・ジョンソンは短期間でめちゃくちゃギターが上手くなってな、それで周りが『あいつは十字路で悪魔に魂を売ってギタースキルを手に入れたに違いない』と言ったことから、クロスロード伝説というのが噂されたわけだ」
クロスロード伝説か。やはり、墓村さんが好みそうな話だ。
とそこで店主が入り込む。
「いや、クロスロード伝説ってのは別にロバート・ジョンソンのオリジナルってわけじゃあないんだ」
「ん? そうなのか? クロスロードと言えばロバート・ジョンソンじゃねえの?」
「まあそうだな。クロスロード伝説といえばロバート・ジョンソンだ。けどそれは代表例なのであって、他にもクロスロードで悪魔と契約をし、魂を売って技術向上したと言われているギタリストはいる。トミー・ジョンソンとか」
と言うことはもともと地域に根差していたクロスロード伝説という都市伝説や道聴塗説の類いが、どういうことかロバート・ジョンソンに結びつけられて現代まで語り継がれたということだろうか。
「そうそう。察しがいいね、太郎ちゃん。もともとクロスロード伝説ってのは四辻で悪魔を召還して契約を交わし、各人色々の才能を開花するって、それだけの話だったんだよ。ロバート・ジョンソンとは何の関係もなかった。じゃあ何で彼と結びついたかっていうと、これは黒人差別に繋がってくるんだそうな。当時ブルースを悪魔の音楽と言う人間もいた。ブルースといえば黒人の音楽だからな。加えて、二十七歳という若さで謎めいた死を遂げたわけだから、ゴシップ紙は大々的にそれを取り上げた。そんなわけだから、先に言った差別的な風潮も相まって、民衆はロバート・ジョンソンというブルースマンとクロスロード伝説をセットで認識するようになったんだ」
なるほど。ブルースと差別に関する都市伝説か。
悪魔に魂を売ったと噂されているギタリスト、ロバート・ジョンソン。彼の使用していたギターの復刻版がここにある。
しかもそれはなんだか異様なギターで、自分の実力外の技術を容易に弾き熟せるようになる。そして店主は何時誰から買い取ったのかを覚えていないどころか買い取り証明書まで紛失してしまっている。
ううん。これはなんだかホラーだ。墓村さん好みだ。
「こ、これでいいんじゃないでしょうか?」
「へ? 何が?」
桃香先輩が目を点にする。
「墓村さんの誕生日プレゼントです。な、なんかこういう如何わしい話とか大好きじゃないですか、彼女」
僕がそう言うと、桃香先輩は眉をひそめて自分の手にあるギターを見る。
「いや、駄目だ。こんな薄気味わりーもんが誕生日プレゼントとかあり得ねえだろ。普通にイジメじゃねえかよ。墓村夕子が泣く……」
悲しそうな表情をしている。泣きそうなのは桃香先輩の方である。どうも彼女は涙に弱いらしい。何処までも男らしい女性だ。
「ま、そう言うことならやめとくか。ちょっと待ってろ、ジャズマス持ってくる」
店主はそう言うと、フェンダーのギターの置いてある、入り口から向かって右側の方へと消えて行った。
「こ、このギターどうするんでしょうね?」
「さあ。来年のどんと焼きにでも出せばいいんじゃねえの?」
「焼かせてくれないでしょう……」
注連飾りじゃないんだから。
「じゃあお炊き上げとか?」
「同じですよ、それ」
「ん? でも心霊写真とかって燃やしてどうこうするんじゃねえの?」
「まあ、よく聞きますけど——どうなんでしょうね? 実際にテレビ番組以外では見たこともないですし。でもお炊き上げもとんど焼きも同じように、正月飾りを焼く祭事だったような覚えがあります」
神事に関わるような知識は、僕は持ち合わせてはいないから確実なところは判らないけれど。
「ふうん。ま、悪魔なんかいるわきゃねえし、別にこのまま店に出したまんまでもいいんじゃねえの?」
それもそうだ。流石に僕も悪魔がギターに憑いているなんて本気で信じているわけではない。確かにホラー映像だとか心霊写真なんかは怖いけれど、それと幽霊妖怪の類いを信じることとは別問題だ。信じているから怖いのではなく、判らないから怖いのだ。手品と一緒である。タネが判らないからこそ驚くのであって、タネさえ判ってしまえばその驚きは半減だ。確かに凄いとは思うものの、その驚きは初めて見たときの驚きとは違うのである。
きっとこのギターにもタネがある。例えば、僕が容易にFコードを鳴らせることが出来たのは、ネックが外側に反っているからとか。外側に反っていれば、フレットと弦の距離が縮まっているから、押さえるのに力は不要である。
「おい、持って来たぞ」
店主がジャズマスターを持って現れる。
僕らはしばらく試奏した後、ジャズマスターとカポタスト、そしてワタパチを購入して楽器屋兼駄菓子屋『ミスト』を後にした。
「ま、まさか一括で買うとは思いませんでした……」
「高校生がローンなんて出来るわけねえだろ」
「まあそうですけど、バイトもやらずによく払えましたね」
「いやあ、バイトはしてるよ」
やはりか。校則にクソを喰らわせる鬼の申し子常代野桃香。バイト禁止の決まり事など簡単に踏み越えて行くだろうとはなんとなく思っていた。
「桃香先輩って、よく放校になりませんね」
「放校になんかならねえよ。大体、染髪やバイトくらいで放校になったヤツなんて、あたしは知らねえ」
「まあ、た、確かに警告はありますけど、表立った処分を受けた人の話はあんまり聞きませんね」
「あってないような校則なんてクソ以下だぜ? 禁止してるなら問答無用で放りだしゃいいんだよ。あたしみてーなクソガキに舐められたくなきゃあな」
ぎろりと睨みつけるように笑う桃香先輩。皮肉なのだろう。
しかし、不発弾を自ら踏みに行く姿勢というのは褒められたものではないというか、見ているこちらは気が気でない。
「桃香先輩ってなんだか危なっかしいですね……」
「あん? お前はあたしの天敵と同じことを言うんだな」
桃香先輩の天敵。桃香先輩は敵だらけの人生を送っていそうだから、一体誰のことを言っているのだか断定出来ないけれど、それよりも彼女に天敵がいたという事実には驚いた。
「い、いや、桃香先輩の天敵とやらは知りませんけど。それこそロバート・ジョンソンじゃないですけど、二十余年にして人生の幕を閉じそうな感じが……」
「悪魔に魂でも売りそうってか? まあ、それもいいんじゃねえの? それはそれで決定さ」
意外だ。桃香先輩がそういう裏道的なものを肯定するとは思わなかった。どちらかと言えば、愚直に生きているような印象が彼女にはある。それは正しく印象でしかなかったということか。
「実際危ないとは思うけどよ、だからって決定から逃げるとそれこそ怖いぜ。長く苦しむことになりかねないんだから。そうならないように、決定したらそこには執着をもって臨まなくっちゃな。二十数歳で死ぬなら尚更だ」
「桃香先輩にとって、危なっかしく生きることは決定していることなんですか?」
「いや、決定した結果危なっかしくなっているだけ。あたしだって考えなしじゃない。平和で済むならそっちを取るさ」
じゃあ何故彼女は平和を取らないのだろう。アルバイトはともかく、染髪禁止まで侵す理由が判らない。
それを訊くと、桃香先輩は言い辛そうに目線を外した。
「うーん……えっとな、あってないようなルールや道徳ってのは腹立たしいだろ? 無駄に行動を制限される。それで嫌な思いをするのはなんだか損じゃねえか。だから破りまくってやるんだ。あたしは確固として存在するルールにしか従わない」
やはり危なっかしい。あってないようなルールや道徳を見極めることが出来なければ、それは破りようもないのだから。決定的な犯罪は犯さないのだろうが、グレーなところには突っ込んで行くという意思表明のようにも聞こえて、どうにも剣呑である。
「それがあたしの決定だ。半分くらいは意地だけどな」
「せ、刹那的ですね」
「そうでもないぜ? さっきも言ったけど、あたしは考えなしじゃない。例えば、新入部員のこととか、ちゃんと考えてるもん」
そうなのか。ううん。どうもこの人のことがよく判らなくなって来た。刹那的に見えて堅実。しかし、有名無実には従わない。有名無実とはいえ有るのは現実なのだからそれを破るということはリスクが大きい。それは結局刹那的であるような……。でも実際、僕たちのことだってちゃんと考えてくれているしなあ。
桃香先輩は僕と墓村さんの上達にかなり協力的だ。ドラムを始めてまだ半年も経っていないけれど、それでも僕は自分が上手くなっていることを実感している。それは墓村さんだって同じはずだ。ライブハウスを借りる手続きだって顧問の桑嶋先生の手をほとんど煩わせずに行っているし、練習の計画を練っているのも先輩だ。ふむ、そう考えれば確かに彼女は計画的であると言える。鬼と形容される彼女ではあるけれど、決して来年のことを言う人間を笑ったりはしないのである。
「よ、よく判らなくなりました」
「ま、そんなもんだろ。あたしもちょっとはぐらかしてるし。羞恥心くらいはあるからな」
桃香先輩が恥ずかしいと思うことがあるのか。もう駄目だ。全然判らなくなってしまった。
「そうなんですか……あ、そうだ」
頭がヒートしそうなので話題を変える。
「僕らも部員の勧誘を桃香先輩に任せっきりにはしませんからね。当たり前ですけど。軽音楽サークルがなくなるのは嫌ですし」
「ほう、頼もしいことを言ってくれるじゃねえか。はっきり言ってお前らにはそこまで期待はしてなかったけどよ、まあそういうことならあたしも安心だ」
歯を見せて笑う桃香先輩。嘘偽りなく安心したのだと思う。
軽音楽サークルを存続させるということは桃香先輩への恩返しみたいなものも含んでいる。確かに彼女はこのサークルを守って来たのだ。だから僕らもそれに応えなくてはならない。これは約束させてもらおう。
鬼の手を借りて技術を向上させている僕と墓村さんではあるけれど、そこには契約なんて面倒なものはなく、ただ鬼の熱意と僕らの気勢があるだけだ。命を取られることもなければ、不幸もないのである。後輩の生誕記念を祝うことの出来る鬼なのだ。それは当然。
この常代野桃香という先輩のことは何一つ判らないけれど、判らないほどには人間らしいということは判った。
それだけでも、今日桃香先輩に付き合った甲斐があったと言える。
「よし、飯食いに行くか」
鬼は快活に笑う。僕は了承してその背中を追った。




