閑話・放蕩少年奇譚
俺は醜い。きっとそれは世界の真実を記した書物にだって記載されているくらいに正しい事実だと思う。
しかしまあ、自分で言うのもなんだが顔はいいのだ。だから問題があるとすれば性格の方だ。二股三股は当たり前、その場限りの肉体関係なら十を越える。高校生にしては堕落し過ぎていると言われれば、返す言葉もない。そして自虐的になれるにも関わらず、その放蕩ぶりを改めようともしないのだから救いようがない。
いや、救いはある。それは、そんな俺の屑っぷりを確かに見抜いてくれる女性も少なくないということだ。
例えば、先日一緒に夏祭りを楽しんだ篠村笑子。普段はヘラヘラと笑って他人に媚びを売りながら生きているように見える彼女は、その実かなりの切れ者で、少なくとも今まで俺と関係をもった女性の中では一等頭がよかった。
例えば、三組の世咲雪乃。物静かで口数の少ない彼女だが、どうやら嘘には敏感であるらしい。その敏感さは俺が声をかけるや否や張り手をかますほどである。確かに俺は存在自体が嘘っぱちだ。しかし、声をかけただけでそれを見破るとは何とも恐れ入る。慧眼なんて言葉では収まり切らないほどの眼力の持ち主だ。
篠村笑子。世咲雪乃。この二人は俺の中では印象深い。特に篠村さんの、あの世間を軽蔑したような笑みには一種恐怖さえ覚える。剥がれなくなって、化けの皮に変異してしまった猫の皮とでも言おうか。いや、本物の化物になってしまった猫の皮と言った方が適切か。
化けの皮は本質を隠すものだものな。
本質。つまりは何かに対する怨念。それが漏れた笑み。全く凶悪である。
まあさんざこき下ろしておいてこんなことを言うのもなんだが、俺も同じようなものかも知れない。
猫っ被りなのは俺も同じだ。何を隠しているのかは自分でも判らないが、猫を被らなければ生きていけないと思っている。猫を被って周りを人で固めなければ生きていけないと、そう本気で思っている。
一人で生きていける人間は立派だ。
例えばクラスメイトの荅川竜二。彼はぼうっとしているときがある。そんなとき、親しい友人が声をかけても、考え事の最中だからと言ってその友人たちを遠ざけてしまう。
なんて危なっかしい生き方だろうと、見ていて内心ヒヤヒヤするが、どうやら竜二くんの友人たちは、彼のそんな性質を受け入れているらしかった。
「竜二は何時もああだから」
「まあ今はそっとしておいてあげよう」
皆そんなことを言う。訳が判らなかった。友情という概念が全く掴めなくなった。人の好意をああもぞんざいに扱っているのに、何故皆、彼の友人であろうとするのだろうと思った。
しかし、理由は実際に彼と触れ合ってみて何となく掴めた。
彼は人目を気にしない。自分の中にどっしりと腰を掛けている。うろうろせず、裸一貫で玉座に鎮座している。それでいて、自分は服を着ていると言い張ることもないのだ。
そんな彼は一人でも生きていける人間なのだろうと、そう思った。そして、そんな彼だからこそ、一人にされないのだろうとも思った。
大違い。全く俺とは大違いである。
何もかも大間違いで、砂の玉座にビクビクと腰掛けている自分とは大違いだ。
竜二くんは演技なしで、あんなに上手く立ち回れるというのだから。
「あー、やだやだ」
何故俺がこんな辟易するような思考を巡らせているのかといえば、それは一つ人付き合いというものをこなしてきた帰りであるからだ。
今日は友人たちとカラオケに行った。別にカラオケは好きじゃない。人真似をしてはしゃぐ趣味は俺にはないし、人真似なら部活動で間に合っている。では何故参加したのかと言えば、やはり俺は人の誘いを突っぱねることができないからだ。一人では生きていけないからだ。
演技をしなければ生きていけない。誰かにならなければ生きていけない。別に演劇部に所属しているから演技に拘るという訳でもない。それとこれとは別問題である。ただ単に俺がそういう人間だから。
本当に嫌になる。
だったら改めろという話だが、俺にはもう何をどう改めたら楽になるのかとんと判らない。
溜息を一つ吐いて東条大学の構内を見回す。ここは通り抜けが自由だ。敷地はそれなりに広い。グラウンドもあるし、棟の数も多い。地元の人間の間では当たり前に通学路や通勤路として利用されている。
便利なものだ。当たり前に侵入しても文句を言わない。まるで竜二くんみたいだ。
ううん。これだけ一人の人間を想っていると、なんだか恋をしているようだ。俺にはそういう趣味はない。しかし、気持ち悪いと言われるのを承知で白状するならば、俺は、もし自分が女に産まれたとしたら間違いなく竜二くんのことが好きになっていただろうなと思うことがある。
まあ、白状とは言っても、こんなことは誰に白状するつもりもないが。見栄だらけの俺に白状する勇気など毛ほどもないが。
今日、一緒に遊んだ連中にだって気楽には話せまい。
「そりゃあそうだ」
独り言ちる。大きな声を出したからだろうか。少し声が掠れる。
何だか喉が渇いた。そこまではしゃいだ覚えはないが。部活に支障が出るほど騒ぐことはあまりないだけに、何だか不思議だ。
飲み物でも買おうと思い、構内にある自動販売機へ近付く。もはや開講当時からあるのではないかと思われるほどに歴史の長い自動販売機。俺が幼稚園児の頃からあるのだから、下手をしたら俺より年上かもしれない。
百円玉を投入して、アイスコーヒーのボタンを押す。この自動販売機は紙コップ式だ。
確か、紙コップ式の自動販売機の中はゴキブリの温床になっているとかいう都市伝説があったな。
都市伝説とはいえ、この話は真実であるような気がする。だって間違いなく、中は暗闇だろうし、それなりに暖かい機械なのだからゴキブリくらいは寄ってくるだろう。ただ、今俺が買ったのがゴキブリコーヒーであるというのは間違いだ。だってその位は設計前に検討される問題だろうし、タンクの中にまでゴキブリが侵入するような設計にはなっていないはずだ。
はずだ。はず――だよね?
自動販売機から、コーヒーが出来上がった旨を伝えられたので、中から取り出す。
厄介なことを思い出してしまった。
ジッと泥水にも似た液体を見つめながら固まっていると、不意に声をかけられた。
「ねえ」
「はい?」
振り向くと何とも不気味な様相を呈した女が佇んでいた。
手入れが行き届いていない髪の毛。夏だというのにトレンチコートを羽織っている。それに顔を覆う大きなマスク。何より特筆すべきなのは、俺の目を真っ直ぐに見つめる目の上にある瞼にはムカデが這っているような傷跡が残されていることだ。いや、瞼だけじゃない。よく見れば、露出している顔の肌には、傷跡のない箇所がほとんどない。
そんな彼女が、この後何を言うのか、俺は知っている。
彼女がマスクに手をかけた時に、何となく思い至った。俺が小学生の時分、ずっと待ち続けたヒーロー。いや、ヒロイン。
彼女はこう続けるはずだ。
「私、綺麗? ってか?」
「え?」
ちょっと戯けて先回り。少しだけ、竜二くんの真似をしてみた。
「まあ、俺よりはマシなんじゃない? 少なくともね」
彼女はお化けだ。口裂け女だ。
全く懐かしい限り。何だって今になって俺の前に現れるのか。彼女の登場を待ち望んでいたのは、はな垂れの俺だというのに。
しかし、彼女はただの模倣者だろうから、俺の待ち望んでいた口裂け女ではない。
竜二くんから話は聞いている。最近仙台駅付近で口裂け女を演じる女が出没すると。東条大学は駅からは少し離れているが、歩いてそう遠くない場所にある。きっと出没地域を変えたのだろう。或いは、もともとこの辺に住んでいる人なのかもしれない。
まあ、何にしても、人だと判っているのだから恐れることはない。
恐れる様子のない俺に面食らったのか、口裂け女の彼女は少し間を置いた。そしてまるでお約束を守るように、これでも、と言ってマスクを取った。
彼女の口は裂けてはいなかった。しかし、裂けた跡はあった。これも竜二くんに聞いた通り。彼女には口の端から耳にかけて大きな傷跡があった。その傷は夕闇の中でもはっきりと見て取れるほどに痛々しい。
不思議なものだった。構内は建物が多いから、必然影も多くなる。そんな中で、彼女の顔はありありと見えるのである。
っていやいや。違う違う。彼女の顔がはっきり見えるのは、俺の後ろに自動販売機があるからだ。自動販売機の灯りが、彼女の顔を照らしているのだ。
全く恐怖がないなんて嘘っぱちじゃないか。ただの見栄じゃないか。恐怖があるから勘違いをするのだ。
幾ら人間だからと言って、それが恐れない理由になるものか。
「あー、怖いね」
本音を言ったつもりだが、何だか空虚になってしまう。それは相手にも伝わってしまったらしい。
「全然怖がっているように見えない」
「ホントさ。でも何か逃げるのも怯えるのも違うかなって感じなんだよ」
「ふうん。そ」
心底興味がなさそうに彼女は答える。
「私を怖がらなかったのはあなたで二人目。嬉しいけど、ちょっと悔しい」
嬉しいとはまたどういうことだろう。彼女は人を脅かしにかかっているのだから、悔しいというのは正統としても、嬉しいというのは釈然としない。
「何だかよく判んないけど、君はアレだろう。最近駅前で暴れ回ってるって言う口裂け女」
「へえ。私噂になってるんだ。前はそんなこともなかったらしいけど」
「ううん。別に広く知られてるって訳じゃないんだけど、友達が言ってたのさ」
「ふうん。君、森ノ宮高校?」
口裂け女は口の端を上げた。きっとマネキンが無理矢理笑おうとすると、あんな表情になるのだろうな。尤も、彼女はマネキンほど整った顔立ちはしていないが。
「よく判ったね。こりゃあ不気味だあ」
「嘘くさい演技だね。まるで驚いてないのが透けて見えるよ」
どうやら俺に演者の才能はないらしい。バックにでも転向しようか。
「まあ、君くらいの歳の子にはあんまり絡んでないからね。ていうか一人だけ。冴木六朗くん。知ってる?」
そうだ。彼女と直接会話したのは冴木くんだった。これも竜二くんからの情報である。
「ああ。知り合い程度だけどね。俺は冴木くんの友達から君のことを聞いたんだよ。三井三菜子さんでいいのかな?」
彼女の名前はちゃんと頭の中にある。俺は女性の名前は忘れない。
「へえ、名前まで知ってるんだ。それは流石に気持ちのいいものじゃないね」
そりゃあそうだろう。行動からして、彼女はあくまで口裂け女として認識されたいのであって、三井三菜子個人として認識されたい訳ではないはずなのである。
「まあでも、冴木くんに対して、軽率に名乗ってしまった君も迂闊だったんじゃないの? 彼だって世間話くらいはするんだからね」
「そうかも。特に冴木くんって軽薄な感じするし、何か誠実さの欠片もないような人だから、何処かでぽろっと漏らしてしまう可能性もあったよね。釘を刺しておくくらいはしておくべきだったかも」
まあどうでもいいけど、と本当にどうでもよさそうに三井さんは言う。
「冴木くんってそんなに軽薄かな? あんまり話したことないから判らないけれど、そんな風には見えないよ?」
「あんまり話したことがないなら知った風なことは言えないでしょ? 私が言うのもなんだけど」
尤もである。
そこまでぶった切ってくれると、少々面食らうが、これ以上発展させると本格的に冴木くんの悪口になってしまいそうなので、両断してくれるのは好都合だ。
「それにしても、聞いてた通りの容姿だね。何て言うか……凄い」
「不細工って言ってくれていいよ。今までもそうやって言われてきたし」
「確かにその言葉は簡潔ではあるけどさ、不細工なだけの人なんてそこら中に溢れているよ。でも三井さんってただの不細工ではないよね? 俺、そういうの凄いと思うよ」
何と言うか、俺らしくない言葉の選び方だ。俺は相手の言葉の反復であっても不細工なんて言葉を使うような人間ではない。そんな言葉は人間関係を壊す。
三井さんとは言うなれば行き摩りだが、そんなことは理由にならない。口汚い言葉は意外なところでそれを言った代償が回ってくるものだ。口汚い言葉だけではない。例えば三井さんが冴木くんに名乗ってしまったことで、無関係の俺にまで名前が知られてしまったように、遣った言葉は偶然に乗って現在に介入してくる。その偶然というのは、不意打ちなだけに質が悪いのだ。
「あのさ、君って――」
「鐘田遊理だよ」
軽率に名を名乗った彼女を批判しておいて、その舌の根も乾かぬうちに自分も名乗ってしまう。
「鐘田くんってさ、何か白々しいよ。空々しいって言った方がいいのかな。どっちでもいいけど、とにかく嘘っぽい。軽薄さで言ったら冴木くん以上だね。何気ない、短い会話でここまで空々しさを出せるのはある意味才能だよ」
事実である。なるほど。言われてみれば自覚するものだ。世咲さんに殴られたのにも納得がいく。滲み出る嘘臭さ。
存在自体が嘘と言いながら、見破られたのを世咲さんの慧眼のせいにするとはつくづく最低である。どこまで被害者面なのだろう。
「はは、判るよ。でも凄いってのは本音さ」
「どうだか。はっきり言って、全然信用出来ない。ま、別にいいけど。鐘田くんがそう言うならそういうことにしといてあげるよ」
三井さんは一貫して投げ遣りである。傷だらけの顔はほとんど表情を作らず、ただ不自然な並びの顔のパーツだけがそこにある。
「凄いってのはやっぱり傷のことだ。圧倒されてしまうよね。本物の口裂け女よりもインパクトあるよ」
「ふうん。へえ。そう。だから?」
完全に話半分にしか聞いていない。いや、全然聞いてない。ここまで露骨に反応されたのは世咲さん以来かもしれない。
まあそりゃあそうか。彼女は容姿に対してコンプレックスがあるだろうから、それを突つかれていい気がしないというのは道理だ。
「ああ、ごめん。つい舞い上がっちゃって」
「無感動な舞い上がり方もあったものだね」
ううん。こちらもコンプレックスを突つかれているのは変わらないようだ。それを言われてしまうと返す言葉がない。
「困った顔してる。それは本当っぽいね」
口の両端を上げる三井さん。
歯並びは悪くないんだな。まあ彼女が抱えているのは歯並びくらいで隠せるような難ではないのだけれど。
「て言うかさ、鐘田くん。君は逃げるべきなんじゃないかな。本物の口裂け女よりもインパクトがあると言うのなら、それ相応に驚くべきでしょう? 驚いて、逃げるべきでしょう?」
「ああ、その辺にはそれ相応の理由があるよ。口裂け女は俺のヒロインなんだ。憧れなワケ。まあ、だから怖がるのも違うのさ」
三井さんは怪訝そうな顔をして、気色悪い趣味だねと応えた。
確かにそうかも知れないが事実は事実である。
「俺、小学生の頃苛められててさ、イジメっ子は皆口裂け女に殺されればいいのにって、半ば本気で思ってた時期があったんだよね」
「鐘田くんって苛められっ子だったの? だとしたら、君、相当に筋金入りで性格悪いんだね」
否定はしまい。他人の目に自分がどう映っているかなんて全く判ったもんじゃないけれど、俺にだって非はあるのだろう。自分では思い浮かばないだけで。
いや、ただ単に空気が読めなかっただけなのかも知れない。今の俺の性格を思えば、きっとそうなのだろうと思う。
「それにしても、何で口裂け女なの? 何かもっとあったでしょう。私はさとるくんにお願いしたりしたよ、小学生の頃は」
何をお願いしたかは訊くまでもない。俺と同じ、イジメっ子を殺して欲しいとお願いしたのだろう。
三井さんの苛められていた理由は、最早訊くだけ野暮。いっそ失礼だ。
「当時俺が一番怖がっていた妖怪だったからね」
印象が強かった。跳梁跋扈する魑魅魍魎の中でも異彩を放っていた。俺が現代百鬼夜行絵巻を描くとしたら、間違いなく彼女を一番前に置く。
「私が言うのもなんだけど、そこまで持ち上げられるような妖怪ではないよ。逃げる方法もあるし、弱点もある。入って来れない場所もある。弱点だらけの低級だよ」
「弱点があるのがいいんじゃないか。俺は、あわよくばべっこう飴を渡して友達になろうと思っていたくらいだよ」
何せ、俺のランドセルの中にはべっこう飴が常備されていたのだ。馬鹿な小学生と思うだろうが、小中学生の男は例外なく馬鹿なのだから仕様がない。
イジメっ子のあいつも、見て見ぬ振りをしたあいつも、同情して煽りを食ったあいつも、苛められていた俺も、例外なく馬鹿だった。だから許すとは言わずとも、忘れてやるくらいの努力はしよう。
おっと話が逸れた。とにかく俺は過剰に口裂け女を畏れ、彼女を懐柔しようと虎視眈々としていた訳である。
「へえ。鐘田くんってやっぱり性格悪かったんだね。そりゃあ苛められるよ。友達に人殺しを頼み込むような人間は、そりゃあ排斥されるよ。爪弾きにされて当然。鐘田くんを苛めてた子って人を見る目があったんだね」
なるほど。そういう見方も出来る訳か。
「けど、そういう風に考えたのは苛められたからだぜ? 人間誰しも、嫌いなヤツを殺したいと思うことくらいあるだろう」
「あるね。でもだったら自分で殺しなよ。君は何処まで人任せなの?」
三井さんは責める風でもなく言う。
「んー、確かにそう言われてしまうと反省せざるを得ないね。言い訳無用。返す言葉もない」
さとるくんにお願いをした三井さんだって人のことは言えないとは思うけれど、アレは契約型の妖怪なのだから相応にリスクを負っていると見るべきか。
流石に喉が限界だったので、アイスコーヒーに口をつける。
自分だけ飲むのも気まずいので、三井さんにも勧めてみる。
「何それ?」
「ゴキブリドリンク」
「いらない。あんな不味いもの、よく飲めるね」
なんだろう。本気にされてしまったような。三井さんは基本表情が動かないので、冗句に乗ってくれているのかそうでないのか判らない。
いや、冗句に決まっているか。だって——ねえ? 本気だとしたらことである。しかし、やはり彼女は常識の外で生きている人間だから、強く否定することが出来ない。
「今はそんなものが販売されて許される時代なんだね。私は世情には疎いから、全然知らなかったよ。それってどうやって作ってるの? 甘味料とかフレーバーとかは当然入ってるんだよね? 果汁一〇〇パーセントじゃあ変にしょっぱいだろうし」
聞きたくない。
聞きたくないのに三井さんは捲し立てるようにゴキブリドリンクを掘り下げていく。
いや、これは嫌がらせみたいなものなのかな。だってゴキブリの味を知っている人間が、一体世界中に何人いるというのだろうか。
「冗談だよね?」
恐る恐る聞いてみる。
「冗談に決まってるでしょ。外には出てるし、今は何処にいたって情報は入ってくる。世情に疎くなろうと思ってもそう簡単にはいかない世の中なんだよ」
違う違う。そこじゃない。
これもわざとなのだろうか。一体何が冗談で何が本気なのかもさっぱりだ。
それは彼女が無表情だから。何を言っても何処を信じればいいのだか判らない。
「何? 黙り込んで」
「なんかさ、三井さんも判り難いって思った。嘘っぽいって言うより、掴みどころがないって感じだけど」
三井さんは睨め付けるようにして俺を見る。不愉快だったのだろうかと思ったが、すぐに平時の、興味のなさそうな表情に戻った。
「ま、妖怪だからね。掴みどころがなかったところで、それは道理だよ」
そういう物言いが掴めないと言っているのだが。
「ゴキブリ、食べたことあるの?」
ついつい確認してしまう。はっきり言って聞きたくないという想いもある。恐らく聞くに堪えない話になるだろうから。しかし、訊いてしまった。何故訊いてしまったかと言えば、それは好奇心があったからだ。
ちょっとした興味。こんな素敵な容姿をしている彼女への、幼少の自分を助けてくれなかった口裂け女の過去への興味。
「ああ、そっちね。まあ――そうだね」
口元に手を当て、思い出すような仕草をする三井さん。
「あるよ。中学生の頃にね。鐘田くんにだって誰にだって想像つくと思うけれど、なんてったって私は苛められていたからね。まあ苛めとかって生温い言葉ははっきり言って業腹だけれど、そんなことで腹を立てても仕方ないか」
仕方ないはずがない。苛めなんて言葉は生温いと、彼女にはそれを声高に言うだけの資格がある。
いや、苛められることでしかその資格を得ることが出来ないなんてことはないか。
誰にだって、良識に基づいて言うことの出来る言葉だ。
「まあ、その時にね、ゴキブリと雑巾汁をミックスした飲み物を飲まされたんだよ。飲まなきゃ殴られるからね。今思えば、殴られた方がマシだったんだろうって思うけれど」
マシもクソもない。そんなのはどちらだって許されることではない。
「凄絶だね……返す言葉もないよ」
「そうだろうね。君って臆病そうだし。下手に言葉が返せないんだろうね」
よく判るなあ。そんなに俺は判りやすい性格をしているだろうか。
「だから言葉に説得力を持たせない。相手に自分の言葉を本気にさせない。責任を放棄する。小狡いね」
その通りかも知れない。もう俺には人間が信じられない。
「けどさ、俺、結構女の子を誑かすのが上手いっていうか、今三股状態なんだけど、それはどうやって説明をつけるのさ。俺の言葉を本気にしている人も、中にはいるよ」
一応反論しておく。まあ、何を言ったところで、三井さんは俺を説き伏せてしまうだろうが。
実際に三井さんは、お笑いだねと面白くもなさそうに、笑いもせずに言ってのけた。
「誑かされているのは鐘田くんの方でしょう。皆、君の一所懸命なポーズに付き合ってあげてるんだよ。自分の恋人が容姿端麗であれば、それはステータスになるからね。君は体のいいアクセサリーなんだよ。弄んでいたと思っていた相手に、その実弄ばれていた——ってどんな気持ち?」
とどめの一撃とはこのことだ。その発想はなかった。正直に白状すれば、俺は、俺と関係を持った女性を見下していた。
端的に言って、チョロいなと思っていた。だが、先の世咲さんの例からも窺い知れるように、俺は判りやすい。弄ばれていたのはこっちの方だったという訳だ。チョロいのは俺の方だったという訳だ。
彼女たちは本気になった振りをしていただけ。相手を本気にさせない俺の言葉を利用していただけということだ。
これはいよいよ救いようがない。
だから三井さんの質問に対する答えは一つしかない。
「恥ずかしいです……」
「だろうね」
相変わらず三井さんは無感動だ。だからこそ明け透けになれるというのはあるが、それは流石に失礼か。相手を人間扱いしていないのだから。まあ三井さんは人間扱いされることを善しとしなさそうではあるが。
「ま、不毛な関係だよね。鐘田くんの恋人たちが鐘田くんを弄んでいると思っているとしたって、鐘田くんも彼女たちを弄んでいるつもりなんだからお互いさま。毒にも薬にもならない関係だね。不毛こそ猛毒という考え方も出来なくはないけど」
どうだろうか。それでもやっぱり、見透かされているのは俺の方なのだから、弄ばれているのは俺なのだろう。いや、そういうところが被害者振っているというのだ。俺が加害者で、ただ単に手痛いしっぺ返しがきたというだけの話だ。
認め難いが認めなくてはならない。
ここは言葉にしておこう。口が裂けても言いたくはないが、口裂け女の前だしな。
「正直さ、人間が信用ならないんだよ。だから俺は周りを人で固める。明日には一人減るかも知れないし、明後日には十人減るかも知れない。だから常に人と繋がってなきゃならない。別にこれは女性関係に限った話じゃない。男友達だってそうさ」
「そしてその男友達さえも君を利用しているに過ぎない」
流石は口裂け女。忌憚のない突っ込みだ。
「そうだね。だって俺の男友達の恋人は、皆俺が紹介した女の子だもん。そこも認めるしかない。でもそういう不実や不毛をやめることはできない。今の生き方が性に合っているとは思わないけれど、今更どうすることも出来ないよ。だから俺はとことんまで加害者になるしかない」
本当のことを言ってみる。この言葉を口にするのは苦しくて、自分が一体どんな顔をしているのやらとんと判らない。まあとは言え、腹を割って、いや、口を裂いて話してはみたものの、三井さんからすればどうということもないのだろう。
興味のなさそうなリアクションが返ってくるに違いない。
それはそれで気まずいな。
しかし、そんな俺の読みとは裏腹に、三井さんは目元を下げて笑った。
「ふふ、醜悪」
今までの口だけの笑顔ではなかった。心底楽しそうだった。
悪寒が背筋を通り抜ける。
やはり彼女は化物だ。妖怪だ。あんな笑い方をする存在を、俺は他に一人しか知らない。
「なかなかいい話が聴けたよ。本当に醜いね、鐘田くんは。じゃ、また君が一層醜悪になるときまで、さようなら」
言って三井さんは俺に背を向ける。どうやらこれでお仕舞ということらしい。
ならば俺も応えよう。
「うん。じゃあね。あ、次に会ったら俺、三井さんにプロポーズするかもしれないから」
精一杯の意趣返し。負け惜しみとも言う。
三井さんは、好きにすればと吐き捨てて、暗闇へと消えていった。
一人残された俺はしばらく自動販売機の前で佇んでいた。
そして数分の後、一つ溜め息を吐くとアイスコーヒーを一口含み、なるほどゴキブリの味とはこういう味かと何となく、道化のように思ってみるのだった。




