閑話・文学少女奇譚
ジリジリと鳴るけたたましい目覚まし時計の音で目が覚めた。
無視出来るほど耳に優しい音でもないので頭をぶっ叩いて黙らせ、布団から起き上がる。例年ならば兄が優しく起こしに来てくれるところなのだが、幸か不幸か彼は京都の大学へ進学してしまったのだ。私は穏やかな寝起きを永遠に失ってしまった。
とは言うものの幸か不幸かというからには、兄がいなくなってくれて幸いであったと思う面もあるワケだ。兄の不在によって私が得た幸福とは、家に友人を泊めることが出来るようになったというそれに尽きる。家に誰もいなければ自由に人を呼び込める。現に今日は友人が二人、泊まりに来ることになっているのだ。
今この家には私以外の家人は誰もいない。両親も昨日から蔵王温泉へ旅行に行っている。これにはガッツポーズを禁じ得ないほどの開放感を感じる。
だって好き勝手が出来るではないか。
私は自由だ。
自由か。まあ自由だからと言って無茶をする訳にもいかない。公序良俗に反することのない範囲で楽しもう。昔の偉い人も言っている。人間は本能から自由になっているとかなんとか。誰だっけ。カント? ソクラテス? まあいいか。とにかく舞い上がり過ぎないことが肝要である。
しかし、そうやって自分を窘めてはみたものの、舞い上がった私は三日間風呂に入っていなかった。某名探偵よろしく頭から雪が降ってくる。これは流石に少女として良俗に反していると言えよう。
「風呂に入るか」
眠い目を擦りながら私はシャワーを浴びた。
三日ぶりのシャワーは格別だった。確かに風呂というのは気持ちのいいものだが、物臭な私は毎日風呂に入るという習慣がなかなか付けられない。いや、学校が始まれば入るのだ。人と合わなければならない状況にあれば入る。しかし夏休みともなれば話は別だ。別に毎日遊ぶわけでもなし、ならば一週間やそこら風呂に入らないくらいでどうってことはないはずだ。
駄目だろうか? 駄目なんだろうな。女として。いや、人として。
まあとりあえずはさっぱりした。これで人前に出ても恥ずかしくない。
友人たちが尋ねてくるのは午後からだったはずだ。それまで何をしていようか。確かひるまは午前中に部活動があるとか言っていた。
なら学校にでも顔を出そうか。それもいい。こちらから迎えに行ってやるのも一興。きっと彼女のいい笑顔が見られる。
思い立った私は早速学校へ行く準備を始める。
学校へ行くのだから一応制服の方がいいだろう。
制服に着替え、財布をバッグに詰め込む。そして最後に携帯電話を手に取った。
サキちゃんも呼び出そうと思い、携帯電話を開くと、その本人からメールが届いていた。
急遽部活動が行われることになったという旨の連絡だった。午前中に抜け出すから予定に変更はなくてもいいとある。
珍しい。彼女の所属するオカルト研究部はわざわざ夏休みに活動するほど真面目な部活動ではないのだが。
いや、それは流石に失礼か。竜二だって見かけによらずちゃんとしたヤツなのだ。何か考えがあるから活動を決定したのだろう。
ふむ、まあいい。取り合えず出るか。
自宅から出て十五分。真夏の太陽を浴びながら何の感慨もなしに歩き続けて学校に到着。
暑い。折角風呂に入ったというのに、もう体は汗だくだ。
校庭を覗き込むと、向こう側にあるテニスコートではテニス部が練習に勤しんでいた。
眩しいな。
私は部活にもサークルにも所属していないから少し羨ましい。とはいえ、どこに入部したところで、私の怠惰な性格を考えれば幽霊部員になることは明白だ。きっと中にはそういうやる気のない部員を嫌う人間もいるだろうから、どこにも入部しないのが吉なのである。
「あっつい……中に入りましょ」
学食にある自動販売機で麦茶を買って適当な席にどかりと腰を押し付ける。
食堂には誰もいない。流石は夏休みだ。これだけ人気がないと、何時も通っている学校とは違って見える。まあそれも当然か。人が集まって然る場所に誰もいないというのだからそりゃあ何時もとは違う。つまり、今この場所は私が何時も当たり前のように通っている場所とは違う空間だということだ。
うん。自分でもよく判らない。とりあえず眠い。
「あ、浪江ちゃん! おーい!」
「あ?」
うたた寝しそうになったところを聞き覚えのある声が妨害した。
折角気持ちよくなってたのに。
顔を上げると、ひるまがスポーツドリンクを片手に、太陽のような笑顔でこちらに走ってくるのが見えた。
墓村ひるま。墓村家次女にして仙台の母と渾名されるレベルの占い好き。彼女は本気で占いを信じる。血液型占いから十三星座占い、十二星座占いまで、そりゃあ何でもかんでも信じる。最近は十二支占いにも興味を示し始めている。曰く「占いは人生予報」らしい。
正直、友人としては悪徳商法なんかに引っ掛からないよう祈るばかりである。いや、心配はないか。彼女は、一見無警戒に見えるが腹の中では結構計算しているのである。
「学校来たんだねぇ。待ち切れなかったのかな?」
「まあね。あんたは? 休憩?」
現在時刻はまだ十一時。あと一時間は練習のはずだが。
「ううん。向河原先生、彼女と約束があるんだってさ。だから一時間早く終わったみたい」
「あの先生って絶対何時かクビになるわよね」
ただでさえ問題のある教師として知れ渡っているのだから、発言には気をつけた方がいいと思うのだが。
というか、教師の業務って高々部活動を一時間早く切り上げたくらいで簡単に帰宅出来るようなものでもないと思う。
「うん、心配だね。でも今回は、やってられねーとか言わなかっただけ偉かったよー」
「そうかもしれないわね」
あの先生に限っては。
「ああ、そんなことよりも、サキちゃん見なかった? サキちゃんも部活があるらしいんだけど」
「うん、見た。さっきランニングしてる時に。オカ研の皆と外に出てったよー」
やはりか。オカルト研究部は学校内での活動を主としていない。
外に出てしまったというのなら待ち合わせの場所を決めておいた方が良さそうだ。
「どうしましょ。まだ時間あるけど、一時に八条小学校の校門前でいいかしら?」
あそこならば家にも近いし、いい目印になるだろう。
「いいんじゃないかな? あ、私着替えてくるね」
「判った。待ってるわ」
一旦ひるまを見送る。
ひるまを待っている間、なんでテニスのユニフォームってあんなに扇情的なんだろうなあとか考えてみたが、機能性なのだろうという無難な結論に落ち着いた。
何とも詰まらない。
「あ、サキちゃんに連絡入れないと」
携帯電話を取り出して、待ち合わせの場所と時刻を伝える旨のメールを制作する。時間はあまり気にしなくてもいいとの配慮も忘れない。
「送信、と」
送信しましたと表示されたところで、丁度ひるまが戻ってきた。
「おまたせー」
「どうする? 先に行って待ってましょうか?」
「うーん、でもまだ時間あるしなあ。そうだ! 小学校の近くのコンビニって飲食スペースあったよね? ちょっとお茶でもしようよ!」
コンビニの飲食スペースで茶を啜るというのは中学生の発想と言えなくもない。しかしまあ、住宅街一歩手前のあの辺に手頃な喫茶店などありはしないし、いい落としどころなのかも知れない。無理に駅前まで出るのも億劫だ。
了承をひるまに伝え、バッグを肩に立ち上がる。
「じゃあ、行きましょうか」
*
夏は暑い。当たり前のことなのだが、毎年毎年こう暑くては文句も言いたくなる。それでも、母親曰く、宮城県はまだ涼しい方なのだそうだ。
確かに天気予報を観ていればそれは判る。しかし、何にしたって暑いことに間違いはないのだ。例えば、プールに入って気持ちいいと感じることが出来たなら、それは体温が平均より上がっていることの証明なのであって、宮城県にも市民プールが存在していることを考えれば、他県に比べて幾ら涼しかろうと暑いことに変わりはないのである。
「暑い……死んじゃう」
「浪江ちゃん、さっきからそれしか言わないね」
「そりゃあそうでしょ。事実死ぬほど暑いんだし。ひるまは暑くないの?」
先ほどからひるまは、短めのボブカットに笑顔をぶら下げて大層ご機嫌な様子だ。
こいつに暑さを感じる器官は備わっているのだろうかと心配になる。見たところ汗一つかいていないようだ。熱中症になるぞ。
「私だって暑いよー。でもこういうのは気の持ちようだと思うな。ほら、心頭を滅却すればなんとやら」
十六歳という若さで無念無想の境地を知るか。侮れないヤツだ。
「でもそれを言った坊さんは焼死してるわよね」
「えぇー! そうなの? 説得力ない!」
言った途端にひるまの額から汗が滲みだした。
どんだけ単純なんだ。
「あぁー、暑いよう……死んじゃうよう……」
「別に坊さんは心頭滅却すれば無敵になれるとは言ってないわよ」
「あっ、そうか。そうだよねえ。いくら涼しくてもずっと火に当たってたら死んじゃうよねえ」
というかさっきは気の持ちようだとか言っていたではないか。諺の使い方を判っているのか判っていないのか判然としない。
まあしかし、汗が滲むのはいいことだ。適切な体温調節が行われている証拠である。
あれ? 快川上人の焼死を伝えるまで一滴の汗も見られなかったということは、本当に心頭滅却に成功していたと言うことなのだろうか。冗談ではなく侮れないヤツだ。
「あ、そうだ」
私の動揺にも構わずひるまは話題を変える。まだ訊きたいことがあるのだが。
「浪江ちゃんが貸してくれた本、読んだよ。ありがとー」
ひるまは鞄を漁って、川端康成の文庫本を取り出し、私に渡した。
「どうだった?」
「うーん……浪江ちゃん好みの詰まんない話だったかなー」
何だそりゃ。気を遣ってるつもりなのだろうか。そうなんだろうな。
ひるまの変に嘘を吐けない性格は間違いなくサキちゃんからの影響によるものだ。
ひるまは影響を受けやすい。サキちゃんの言うところによれば、中二病を患ったこともあるらしい。敢えてどんな風だったかというのは訊かなかった。だって本人とっては間違いなく恥部になっているだろうし、私もそれ聞いて堪えることが出来るほど強い精神力は持ち合わせていない。
まあそれだけ何かに影響を受けやすい彼女なのだから、幼馴染で付き合いの長いサキちゃんの影響を受けていたとしても何ら不思議はない。
それがいいことなのか悪いことなのかは判らないが。
何にしても川端康成はお気に召さなかったようである。そもそも文学は好きではないのかも知れない。
「て言うかねー、意味が判らなかったんだよー」
「うん? 何が」
「『片腕』ってお話がね、よく判らなかったんだー」
『片腕』か。確かにあれはよく判らない物語の筆頭だ。
「まあ判らなかったのなら幻想小説的に読み流したらいいんじゃないの? 娘の腕が可愛いだけの小説として読む人だっているんだから」
「どひゃーっ! それはマニアック過ぎるよ!」
サキちゃんはマニアックな人間であるらしい。
否定はしまい。
あれやこれやと話していると、何時の間にやら目的地はすぐそこまで迫っていた。
コンビニの前では小学生くらいの子供たちがわやわやとたむろしている。
「何かしら、あれ」
「どっかに電話してるみたいだねえ」
よくよく見れば彼らが群がっているのは公衆電話だった。
「最近の小学生って携帯持ってるのが当たり前だと思ってたけど、案外そうでもないのね」
「ううん。ほら、携帯いじってる子もいるよ」
ひるまの指差した先をよく見ると、集団の奥の方で退屈そうに携帯を弄っている男の子も確かにいた。
子供たちとの距離が縮まると、電話をかけていた子が、何もねーじゃんと悪態を吐くのが聞こえた。何かあると聞かされて電話していたのか。
子供たちは、この嘘吐きやろうだのなんだの言いながら公衆電話から去って行った。
そこに入れ替わりで私が近付く。
「ん? 何だこれ」
公衆電話のアクリルにメモ帳から切り取られたと思しき紙切れが貼付けてある。そこには電話番号が記載されていた。子供たちがかけていたのはこの電話番号だろうか。
気になるな。
思い立ったが吉日。受話器をとって十円を投入。
「えぇー、やめときなよ! よくないよ! 反社会的だよ! 変なおじさんとかに繋がって、パンツ何色ーとか聞かれちゃうに違いないよ!」
ひるまが必死で止めに入る。
「教えてやるわよそのくらい。減るもんでもないし」
「ヒェーっ!」
ひるまは降参のポーズで一歩下がる。
番号をプッシュすると、二三秒でコール音が鳴りだす。
何だ繋がるじゃないの。あの子供たち、さては番号を間違えたな。
四回目のコールの後、かちゃりと音をたててあちら側に繋がった。
「もしもし?」
「目の色は?」
「は?」
相手は男とも女ともつかない声色をしている。
いきなり目の色を聞いてくるとは、一体何のつもりだろう。こちらが誰かも確かめようとしないとは、何とも不気味である。
「目の色は?」
続けざまに同じ質問を重ねてくる。ちらりとアクリル板に自分を映して見る。瞳の色は――
「黒だけど」
ひるまがどひゃーと言って頭を抱えた。
「お前じゃない」
相手の方は一言言い捨てて通話を途切った。
「なんなのよ……」
コミュニケーションの甲斐がないヤツだな。
「浪江ちゃん、まさか黒とは……でも似合ってると思うよ。すごく浪江ちゃんらしいというか……」
「パンツの話じゃないわよ」
「ん? じゃあブラ?」
キョトンとしているひるまに事情を説明する。
「なるほどー。変なのー」
「因にパンツは水色だから」
「ぎゃあ! 余計な情報だよ」
「見る?」
「遠慮しておきやす」
やはり同性の下着は見ていて気持ちいいものではないのか。私だったら喜んで見たいと思うのだが。
「それにしても、目の色とはねえ。虹彩フェチなのかな?」
「マニアックね……」
しかし、世界は広い。一人や二人、そういった嗜好の持ち主がいたところで驚くほどのことでもない。女の身空で三日間風呂に入らない人間の方が稀だろう。
「私もかけてみよ」
今度はひるまが受話器を取った。十円を入れ、番号をプッシュして相手を待つ。
「ん? あれ?」
眉を寄せて頭にクエスチョンマークを浮かべるひるま。
「どうしたの?」
「繋がらない。番号間違えたかも」
一旦受話器を置いて、もう一度チャレンジする。
「んー? やっぱり繋がらない」
その後、何回か挑戦してみたものの、結局その番号に繋がることはなかった。これは一層に不気味だ。
「ホント、何なのかしらね」
「はっはっは。名探偵ひるまちゃんは気付いてしまったよ」
胡散臭。
「電話が繋がらなかったのはさっきの子供たちと私。繋がったのは浪江ちゃんだけ。私の場合は何回もやり直したから、番号が間違ってるってのはあり得ないよね。子供たちの中には退屈そうにしている子もいたから、きっと彼らも何回かかけ直したんだと思う」
「うん。そうかもね」
「で、浪江ちゃんは一発で繋がったじゃない?」
「繋がったわね」
だからどうした。
「だから、きっと番号を間違えたのは浪江ちゃんの方なんだよ。いや、浪江ちゃんのかけた番号はちゃんと繋がったんだから、書いてある番号が間違っているってことなんじゃないかな」
なるほど。それはありそうだ。電話番号とは繋がってなんぼである。そこに番号の記載があれば、当たり前にどこかへ繋がるものだと考える。しかし、その記載されている番号自体が誤りであれば繋がりっこない。電子声のお姉さんに繋がるか、間違い電話として別の場所に繋がるばかりである。
先ほど私がかけた時に繋がったのは、記載されている番号とは違う番号をプッシュしてしまったからというわけか。
「どうだっ! 名探偵だっ!」
ガッツポーズのひるま。輝いている。
「納得したわ。じゃあ、電話の内容は?」
「はい?」
笑顔のまま首を傾げている。
「『目の色は?』ってどういう意味の質問なのよ」
「それはさっき結論が出たでしょ! 虹彩フェチだよ! パンツ何色? と同じ感覚で質問しているんだよ」
あれは結論だったのか。
「釈然としないわね……」
「まあこれが結論だとすると、浪江ちゃんはまんまと変態さんの欲求を満たしてしまったことになるから、受け入れ難いとは思う。でも受け入れなければいけない現実は何時でも非情なんだよ」
「別にその事実はどうでもいいけど。誰も損してないし」
というか私の目の色は相手にとって、お気に召すものではなかったのだ。お前じゃないと言い捨てられてしまったのだから、相手の欲求が満たされたなんてことはないと思う。
それをひるまに言うと、ひるまは難しい顔をして違うんだよなあと返した。
「性のはけ口されそうになったという事実こそが辟易する理由になるんだよ!」
「ならないわよ」
「ならないかあ。そっかー。浪江ちゃんはしたたかだなあ」
そうなのだろうか。私は、求められたら求められたでちょっと誇らしい感じがする。まあ人それぞれなのかな。
「もういいわ。こんなところで立ち話してないで、さっさと入りましょ」
そう。私たちはお茶をしにきたのである。コンビニに。目的を忘れてはいけない。サキちゃんとの約束の時間まであと一時間半ほどある。
私はひるまを引っぱり、コンビニへと入店した。
何だか楽しい一日になりそうな予感がした正午だった。




