幕間
美と醜は表裏一体であり、紙一重のものだ。特に人間の造形に関する美の価値観というのは時代に左右される。変遷もする。絵画や音楽などの芸術にも美はあるが、他国の価値観を取り入れ、時代とともに芸術そのものが「進化」している。加えて、芸術は人間が美や醜に触発されて生まれるものなのだ。故に芸術の美と人間の美は違う。人間はどこまで行っても人間なのだ。変わらないし変われない。変わるのは世間だ。
では、現代の醜い人間が別の時代に生まれていたならば、美人であるともて囃されただろうか。そういう人間もいるだろう。しかし、絶対的な醜というのがこの世界には存在する。全国、全世界共通の「醜」。それは身体の違いによって定義される。人間は自分たちと明らかに見た目の違う者を排してきた。黒人差別などはその代表例であるだろう。この国では奇形児が産まれると、不吉な者として殺していたそうだ。人間として人間から産まれた人間を化け物として見ていたのだ。
そしてそれは今でも変わらない。殺しこそしないものの、愛することなどあり得ない。産まれた化け物は幼少期から誰にも愛されない。友愛も恋愛も、親愛さえも受けることなく、侮蔑と忌避と暴力から発生する屈辱を餌に、醜態に磨きをかけるのだ。醜い人間はどこまで行っても醜い。体も醜ければ心も醜い。否、体が醜いからこそ心も醜いのだ。
そんな人間を受け入れ、幸せを願う他者など幻想のなかにすらいない。
すべては妄想だ。愛されることのない人間の妄想だ。汚い期待だ。醜い人間は何を思っても、何を憶っても、何を想っても、醜いのだ。
「きっと私はそんな人間だ」




