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2062年3月9日
夕日が沈み、だんだんと人通りが少なくなっていく住宅街を、椋はゆっくりと歩みを進めていた。
まだ肌寒い風を感じる中、椋はそんなことを感じさせないかのような薄手の黒いパーカーのフードで頭を覆い、ある場所を目指していた。
とある古いビルディングである。
椋は自殺を決意した。
懐に簡素な遺書を携え、ゆっくりと着実に目的地へ向かっている。
(もし今自分が死んでしまったとして、それを悲しんでくれる人は存在するのだろうか?俺が死ねば、沙希もほかのやつらとの関係をきっと取り戻せるはずだ…)
そんなことを考えながら、とうとう目的地に到着してしまう。
「確か、この辺に…」
と周囲を見渡すと、フェンスの右端に大きな抜け穴を見つける。
このビルはそもそも進入禁止なわけだが、なぜか昔からこの穴はふさがれない。
現代の最新のセキュリティシステムをもってすれば、建物に侵入されようと、IDを持っていない者であれば即座に御用である。カメラにより、IDカードに登録されている人物と侵入者が同一人物か、掌形、指紋、網膜、虹彩、顔、そして耳形まで調べ上げられるので、普通は侵入なんて不可能である。
しかし、このビルが建てられたのはもう50年以上前、しかも12年ほど前にそこにあった会社もつぶれていて、現在ではほぼ廃墟。いつ取り壊されるかわからないくらいだ。
故に、このビルに最新のセキュリティは敷かれていない。
椋はそのことを認知していた。この場所が好きだったからだ。
昔は暇なとき一人でこのビルの屋上から街を眺めるのが大好きだった。
日が沈み、赤く染まるこの町も、暗くなりビルの灯りが煌めくこの町も、四季に合わせてて顔を変える街路樹も…。
ここからは街の全体が見渡せる。自分自身がとてもちっぽけな存在なんだと悟らせてくれる場所だ。
椋が人生の最後の場所をここに選んだのも、この眺めを脳裏に焼き付けてから、この世界を去りたいと思ったからである。
さっとフェンスの大穴をくぐり、敷地内へ侵入する。
しばらく直進し、右折したすぐそばに設置された外付けの螺旋階段をゆっくりと登る。
階段を踏みつける跫音だけが虚しく響く。
その足取りはいつ度となく重いものであった。
螺旋階段の最上部に着くと、すぐ隣にあるドアを開け中に侵入する。いつの間にか、完全に日が暮れていたようだ。屋内はほとんど光が差し込まず、その上静寂に包まれていた。もちろん人の気配なんてものはない。
もう少し時間が遅ければ、幽霊の1体や2体出てもおかしくないような、そんな雰囲気を醸し出している。
どれだけボーっとしていたのか…
などと自分で自分に突っ込みを入れる余裕が椋にはまだ残っていた。
この場で立ち尽くすわけにもいかないので、サッサと歩みを進める。
椋自身は何度かここにきているため、どこに何があるのかは、大体わかる。
左側の壁に沿って、屋上につながる階段を目指す。
数分歩いただろうか?
(確かこの辺のはずなんだけどな…)
と、自分の記憶を頼りにしながら進んでいると、スッ、っと寄り添っていた左側の壁が突然途切れたため、方向転換し、途切れているほうに進む。
少し歩いたところに、段差があるのを確認し手すりをつかんで、ゆっくりと階段を上っていく。
段差が途切れたため、一番上に着いたようなので、確か左に少し進んだところにある、屋上につながる扉を慎重に探し、そのドアノブに手をかける。
キィィとちょっと危なげな効果音を上げながら、ゆっくりと扉を開ける。
そこに広がるのは、幾度となく訪れ、これが最後になるであろう、
とても、
とてもきれいな、
暗がりに輝くやく、
いつもと変わらない夜景であった。
〇~〇~〇~〇
自殺。これが欠陥品の末路である。
屋上のパラペットに向かって一歩あるくたびに、自問自答を繰り返す
俺が死んで、誰かに迷惑はかからないか?
少なくとも、ここは廃ビルだからな…
本当に誰も俺を必要としないのか?
少なくとも、現時点ではそのはずだ。
俺がいなくなって悲しむ人はいないのか?
沙希ならきっと悲しんでくれるだろう。
沙希を一人にしていいのか?
沙希ならきっとわかってくれる。
本当に分かってくれるのか?
わかってくれるさ…
本当に?
ぐっと姿勢が前のめりになる。
「うぅあぁぁぁ!!」
気が付くと椋は、屋上のパラペットに足を引っかけてしまい、今にも落ちそうにぐらぐらと体を揺らす。
「まっ・・・て・・・」
時間がゆっくり流れているような気がする。まるで思考が加速しているようだ。
「ちょっ・・・!!」
体が少し前に傾くと、人間が転落死するのには十分なほど先に地表が見える。
がたんと勢いよく尻餅をつく椋。
何とか落下せずに済んだようだ。
全身に流れる冷や汗が止まらなかった。
3月の冷たい風が、椋の体をどんどん冷やしていった。
何せ死に直面するなど人生初の経験である。
怖くないわけがない。
(ムリっ!ムリムリムリムリムリ!!)
と心臓の鼓動を跳ね上げながら、心の中で全力の叫びを上げた。
椋はここにきて怖気づいてしまったのである。
中途半端な助かり方だった。怖気づくのも無理はない。
恥ずべきことではない。
人間の自己防衛本能なのだ。
そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと腰を上げると、もと来た扉目指してまた歩き出そうとした。
その一歩目であった。
「えっ?」
クルッっと視線が90度回転する。
眼前に広がるのは、満天の星空であった。
完全に不注意だった。
いや、暗くて足元が見えなかったし今の椋の精神状態では、気を配っている余裕はなかっただろう。
踏み出した先には、錆びついた鉄パイプが転がっていたのだ。
来るときは、きれいによけてしまったのだろうか?
今の今まで気がつかなかった。
腰がパラペットに直撃する。しかし上半身は床に接地することはなかった、ズルッと重力に引きずられるように、全身が空中に放り出される。
気持ちの悪い落下感が全身を包み込む。
素直に現状を飲み込むことができなかった。
きっとこれは夢なのだと思い込みたかった。
重力操作系の能力が使えたら、助かったはずだ。
しかし少年は無力だ。
またしても時間がゆっくりと感じられる。まるで空を飛んでるかのように、長く、長く。
転落死はほとんどが激突する前に恐怖で気絶してしまうと聞いたことがある。
しかしよほどの興奮状態にあったのか、椋の意識は冴えきっていた。
これまでの記憶がまるで旧世代の映画のフィルムが走馬灯のように駆け巡っていく。
どのページに行っても、その少年は暗い顔をしている。けれどその少年の横にはいつも同じ黒髪の少女がいて、少年を慰めてくれている。
(沙希…おまえはいつも一緒にいてくれたんだな…)
頭から落下していく少年の頬を涙が伝い、重力に逆らうかのように、自分よりも遥か上に行ってしまう。
少年は死を覚悟した。受け入れたわけではない。
せめて最後に彼女に一言別れを言っておきたかった。
(今日ここに来るまでは、自分のことを思ってくれる人なんていないと思っていたのが申し訳なくて…。
沙希はずっと俺の味方でいてくれたんだ…。きっと俺が死んだら…。)
後悔先に立たず。
その言葉を体現するかのように、地球の重力は少年の意思など無視し、無慈悲に地面との距離を縮めていく。
「これからなのになぁ………。もっとちゃんと沙希のこと見てたらよかった………。」
自然に言葉が口から洩れてくる。距離も縮まる一方である。
少年の声には歔欷が混ざっていた。
「ちゃんと面と向き合って、ありがとうって………。」
少年は願った。初めてかもしれない。自分のためじゃなくて、彼女のことを思って心の底から湧き出た願いだ。
「まだ………まだ死ねない……死にたくねぇぇ!!」
『愚者はオマエか?』
えっ?と思う暇もなく、その現象は起きた。
目視できるほどのエネルギーの流れが、少年を中心に集まってくる。
少年の全身が金色の光に包まれる。
3月なのになぜかとても暖かくて優しい、そんな光の集合体が少年の落下感を徐々に減らしていく。
落花感ではない、落下速度も確実に減少している。
ゆっくりと、人通りの少ない、氷のように固く冷たい地面に着地する。
しかしその時には少年はすでに気を失っていた。
意識が不明瞭な中でも
意識の奥であの言葉が反復している。
『愚者はオマエか?』
そんなウィスパーな声が衝突の直前に聞こえた気がした。
第1章 欠陥品の末路 終