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起き上がる前に連撃を加えようとするが、それは直ぐに黒犬によって阻止される。
噛みつき、と言ってしまえばえらく簡単にきこえるかもしれない。滴る唾液と、それによって艶かしく光る鋭利な牙がその一撃の驚異をひしひしと伝えてくる。そんな一撃が瞬間的に二度、椋に向かい襲いかかる。一撃目はどうにか反応し避けることに成功するものの、二撃目は簡単に椋の反応速度を超え、犬神は右腕の上腕下部を噛みちぎった。
「ッ!!!!!!!!」
思わず叫びそうになるほどの痛みが全身に襲いかかるが、椋はそれを堪える。ここで叫んでしまえばそれは負けたことに等しい。頭の中で何故か自然とそんなイメージが浮かんでいたからだ。
ちぎれた指程度なら簡単に再生するとかどうとか。乙姫にかけてもらった能力が唯一の命綱なわけだが、それが同時に契の嫉妬心を高めることとなった。
赤い、紅い炎が傷口を覆うと、何故か痛みが引いていく。
『それも《愚者》の力か!!』
叫ぶ曇った声には嫉妬どころか怒りの感情までもが含まれているようにも感じられる。否定したところでそれを信じる精神を今の契は持ち合わせていないだろう。
続く犬神の攻撃を避けながら、椋は必死に最善策を探す。
『お前は……お前も!!この力が欲しいんだろ?』
契は体をのそっと起こしながら呟く。
仮面の下からのぞかせる真紅の眼光が犬神を睨むと同時に、犬神はスイッチでも切れたかのように動かなくなる。
いつもはピシッとした姿勢の契。今はその面影も感じられないほどにだらしなく背を曲げ立ち、その場でヒヒィッ不気味な笑い声を上げ始めた。
『そうだよなぁ…………欲しいんだよなぁ……もっと力がさぁ!!』
見ているのも辛くなりそうなほどの契の変化に思わず目を背けてしまう。
そんな様子を見てか見ないでか、契はその場に落ちていた七罪結晶、《強欲》を拾い上げると、それを不気味なフォームでこちらに投げ飛ばしてくる。
キンと澄んだ金属音に近い音を立てながら転がる立方体。
それが椋のつま先に衝突するまで、さほど時間を必要としなかった。
『拾えよ…………分けてやるよ……俺の力をさぁあ!!!!!』
ヒヒヒッともう一度不気味な笑った仮面の少年は、まるで元の人格をどこか深くに封じ込めたかのようだった。
「お前はそこにいるのか……?」
椋はポツリとつぶやく。
自分の頬に熱い何かが伝わってくるのを感じる。
「もうお前はそこにいないのかよ……なぁ……!」
そんな叫びが口から漏れ出す。
ようやく椋は熱源の正体が自分の涙だということに気がついた。涙を止めようとしても溢れ出したソレはそんな気持ちと反比例し、どんどんとその量を増していく。
今の自分がどれだけ情けない顔で泣いてるかなど頭に一切入ってこない。
ただ悲しみの感情で頭は埋め尽くされ、思考を止めそうになってしまう。
救いようがない現状にもう諦めをつけようとしていた。
どうでもいいじゃない。
どうしようもないのだ。
ゆっくりと現状から目を背けるために完全に瞳を閉じる。
(御前はそこで諦めるのか?)
頭に響いたのは聞きなれた優しくも厳しい声だった。




