10
椋の前髪を話した小林は、ゆっくりと腰を上げ、踵を返し沙希のほうに向かう。
その一歩一歩が小林から狂気じみたオーラを発するかのように、椋に悪寒を与えてくる。
「沙希に何する気だ!やめろてくれ!それだけは…」
必死に叫んでも、小林の歩みは止まらない。
「だめぇだめぇ!!これからがいいとこじゃねぇか!!」
こちらに背を向けたまま、椋を煽るように言う。
これはやばい。本能がそう訴えかけてくる。
ほとんど動かせない首より下を動かそうとしても、相手が能力の上書きをしてくるため、立ち上がることができない。この手の能力の対処方はある程度確率されているはずなのだが、それこそ人工結晶を使用しなければならない。しかしそれもできない。
無力だ。これまでは能力なんてなくても、別にどうでもいいと思っていた。
使えないものはしょうがないのだから。そう考えてきた。
けれど現実はシビアだ。力あるものは力なきものの上に立とうとする。
そんな世界なのだ。
沙希と小林の距離が、どんどん縮まっていく。
自分が無力なせいで、沙希にまで危害が加わるなんて考えたこともなかった。
自分を責め倒したいところだが、その前に現状の打開策を練らなければならない。
けれど自分の体はもうピクリとも動かない。
沙希にも誰かが近づいてくる足音が聞こえてくるのだろうか。必死に体をよじっている。
見るに堪えない光景だ。しかし目をそらすわけにはいかない。どうにかしなくちゃいけない。
(この状況を一発で打開できるような……。そんな力が俺にあれば…。)
ふと、脳内でウィスパーな声が聞こえた気がした。
どこかで聞いたことのある。
しかし思い出すのを阻止するかのように、ついに時が来てしまった。
沙希と小林との距離が0になる。
身動きを封じられて横たわっている沙希の頭部付近でゆっくりと腰を下ろす。
小林は乱暴に口のガムテープとアイマスクをはずす。
「りょう!!」
解放された口から出てきた第一声だ。
「沙希!」
目に涙をためている幼馴染の叫びに必死に答える。
しかし、彼女の叫びは、助けを求めているというものではない。少年の身を案じているかのような叫びだった。
「七瀬さんねぇ、辻井君がどうなってもいいのかな~って言ったら簡単についてきてくれんの!おかげで計画がすいすい進んじゃったぁ!」
まるであざ笑うかのように、ニタニタと笑みを浮かべる。
「計画ってなんなんだ!沙希を離せよ…彼女は関係ないだろ!」
すると、一瞬小林の肩がふるえる。
「物わかりの悪い奴は嫌いなんだよねぇ!さっきも言っただろ?君の歪んだ顔が見たいってさぁ!」
(ただ…ただそれだけのために……そんなくだらないことのために、沙希の身を危険にさらしてしまったのか!)
そんな思考を遮るように、小林が続ける。
「それにさぁ、俺結構七瀬さんタイプなのよねぇ!だからさぁ……気安く沙希なんて呼び捨てしてんじゃねぇ!」
こいつはだめだ。完全に適応規制がきいてない。
「そんなことアンタに決められる筋合いないわ!!」
ずっと黙っていた沙希がフルフルと震えながらついに口を開いた。
「沙希!まっ…」
続く先の言葉によって、椋の言葉がかき消される。
「そもそも何!?頭おかしいんじゃないの?男の人で私を下の名前で呼んでいいのはお父さんと椋だけ!勝手に決めつけんじゃないわよ!人拉致しといていきなり告白?マジありえないから!正直言って気持ち悪いよ?人生やり直したほうがいいんじゃない?」
どんどん続く言葉の槍が小林を貫く。
この状態になった沙希は本当に言いたいことを次々と飛ばしていく。
言葉が尽きるまで。相手の心が折れても続ける。椋自身見たのは実に6年ぶりであった。
しかしこれは今この状況でやってはいけないことだった。
これでは小林の狂気をあおるだけだ。
「黙ってきいてりゃ…このクソアマァ!」




