“悪魔”
電灯を消した暗い自室の中、机の上に置かれたモニターの光が不気味な輝きを放っていた。
「裁き…裁きだ…俺………俺は……」
鏡一はひとりぶつぶつと呟きながら目の前でぶんぶん鳴っているパソコンの起動を待っていた。
世界シェア第3位のマイナーなOSのロゴマークが表示され、『Please Enter your Password.』、要するにパスワードの入力を要求するダイアログボックスが現れる。
「裁き…裁き…」
鏡一は口をぼそぼそ動かしたまま、パスワードを入力していく。
パスワードは全部で22桁あり、意味のないアルファベットと数字を混ぜて羅列するというものだったが、鏡一はその全てを記憶していた。
22桁入力完了。鏡一はエンターキーを叩いた。
『Error.』
「ん……?」
鏡一が入力したパスワードははねられてしまった。
どうやら、22桁のどこかで間違えたらしい。
おかしい。いつもは一発でログインできるのに。
「くそっ…まだ夕方のあれが…」
忘れようとしていた5年前の事件に、今日久しぶりに触れられた。
その時から、手の痙攣が止まらない。
考えまいとすればするほど、無惨なノイズが耳に、むせ返る血の匂いが鼻腔の奥に蘇ってしまう。
そしてまた胃がきゅうっとすぼまり、喉のあたり、舌の奥が酸っぱくなって…
「くそっ!!」
鏡一は拳を振り上げた。
が、それが振り下ろされる事はなく、鏡一はゆっくりと手を下げた。
「ダメだ…それをやったら俺は…」
同類になってしまうではないか。
そう、あのゴミども。
裁かれるべき、ウジ虫どもと…!
「裁くのは、俺だ…」
鏡一は深呼吸をした。
手の痙攣がおさまった。
鏡一は再度、パスワードを入力した。
『OK.』
無事、ログインする事ができた。
「とりあえず、事件の内容にもう一度目を通すか…」
ゴミ箱、ブラウザ、メーラーなどと共にデスクトップに表示された文書ファイルのアイコン達。
その一つにマウスカーソルを合わせると、鏡一は2回クリックした。
※この文書は藤乃木警察署保管の機密文書です。絶対に外部に流出のないよう、お願いします。
事件ナンバー:3156-A
容疑者:“ラッパー” 麻薬密売人 本名・年齢・国籍不詳
被害者:時田隆三 31歳 警察官 日本(死亡)
山口 健 29歳 警察官 日本(全治3週間)
三田佳祐 27歳 警察官 日本(死亡)
国島英二 25歳 警察官 日本(意識不明)
事件概要:2000年10月19日午前2時38分。
市内で“ラッパー”という呼び名で知られていたやり手の麻薬密売人を、
藤乃木警察所属の警察官4人が包囲。
逮捕しようとした所、“ラッパー”が抵抗。
山口巡査部長にサバイバルナイフで斬りつけ負傷させ、
その際奪った拳銃で時田警部補、三田巡査、国島巡査に次々と発砲。
時田、三田両名を死亡させた上、国島巡査を意識不明の重体に陥れた。
その後“ラッパー”は逃亡、奪った拳銃は所持したままで、
撃たれた弾数から推定すると銃弾は2発残っているものと思われる。
備考:この事件は、容疑者失踪により2007年10月20日午前0時0分をもって捜査打ち切りとなりました。
画面上に表示される惨たらしい事件の詳細を、鏡一は眉ひとつ動かさずに眺めていた。
このファイルは、藤乃木警察のサーバー内に保存されていた、未解決事件の捜査情報だ。
鏡一のパソコンのハードディスク内に、同様のファイルが何百項目と入っている。
全て、鏡一が警察のサイバーセキュリティをかいくぐって取得したファイルだった。
鏡一はメーラーを立ち上げる。
端末特定ができないようにIPアドレスを改ざんし、中継サーバーをいくつも挟んでメールサーバーにアクセス。
新着メールが届いていた。
目当ての人物からである。
「…くっくっくっ…やはり自分に裁きが降りかかるのは怖いか…」
From:mayumayu-happy-kirakira@dacomo.ne.jp
Sb:お願いします。
“悪魔”さんの要求をのみます。
あたしにくすりを売っていた人を捕まえるのですね?
全部協力しますから、どうかあたしのことは暴露しないで下さい。
あたしの携帯番号です。
090-34x7-18x0
鏡一はメールの内容に満足した。
携帯番号を頭の中に刻みこむながら、ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。
購入する際個人情報を必要としない、プリペイド携帯だ。
………
数回の呼び出しの後、電話が繋がった。
受話器からがやがやとやかましい音が聞こえる。
まだ懲りずに繁華街をうろついているのだろうか。
「もしもし、高野ですけど…」
見知らぬ番号からの電話をいぶかるような声。
もしかしたら、電話の相手を予感した上で平静を装っているのかも知れないが。
とりあえず、聞くべき物は聞いた。
鏡一は何も言わずに通話を切る。
To:mayumayu-happy-kirakira@dacomo.ne.jp
Sb:嘘はついていないようだな
今、確認させてもらった。
今度連絡する時は、貴様の手伝いを要求する時だ。
その時は、他のどんな用事をキャンセルしても、私に従え。
命令を違えれば、わかっているな?
…高野真由美。一応釘を刺しておくが、馬鹿な事は考えない事だ。
悪魔
メールを送信した鏡一は、昼間助けてやったおばさん、内山陽子の言葉を思い出した。
『まるで、“探偵悪魔”みたい!』
「くっくっくっ…くっくっくっくっくっ…」
“悪魔”みたい………みたい、か。
最高に、滑稽だった。
「けけけけけ…ひゃっ…ひゃっひゃっひゃっひゃっ………」
既に深夜である事も考えず、鏡一は笑い続けた。
底冷えするような残忍な笑い声が、暗い室内に響く。
唇が醜く歪み、引きつれた。
まるで、悪魔のそれのように………。