樫本興信所
ああ、それにしても暑い。
もう空が暗くなり始めている中、砂影鏡一は大通りのガードレールの脇を大股で歩いていた。
「ちっ…まずったな…」
もう1時間以上は遅刻している。
鏡一は自分の職場、樫本興信所への道を急いでいた。
今日は今処理中の浮気調査について、資料を整理する予定だったのに。
時間がない。
明後日には、依頼主を呼び出して結果報告をしなければならないのだから。
鏡一の脳裏に“サービス残業”という単語がちらつき始める。
こんな時に、偶然通りがかった事件に首を突っ込んでしまうなんて。
鏡一は自分のお節介さ加減に苛立ちを隠せなかった。
車道では、家路につく乗用車の群れが暑苦しくせめぎ合い、灰色の煙を吐き出していた。
ブーブーうるせえ!
石でも投げてやりたい気分だった。
「おーい、こりゃまた随分遅刻したなぁ」
大通りに面した薄汚れた雑居ビルの2階。
“Welcome to 樫本興信所”と書かれた札の下がったドアを押すと、チリンチリンと鈴が鳴る。
疲れた顔で興信所に現れた鏡一を見て、部屋の一番奥まった机で頬杖をついていた男性が声を上げた。
「すみません。ちょっと事情が…」
「ダメダメ。お前死亡。チコク行きだ!…なんつって。ぷっ…ぷくくくく…」
自分のダジャレに自分で笑いをこらえているこの中年男は樫本哲郎といい、樫本興信所の所長だ。
こう見えてその過去は凄腕の探偵で、引退した今となっても現役時代に築いた警察とのコネクションは健在だ。
実は鏡一がさっき、藤乃木警察の柳田警部の名前を使って事件を調査できたのも、この樫本という男の存在があったからなのだ。
「『ぷくくくく』じゃないですよ所長。…まったく。最近の学校は“時間厳守”という言葉も教えないんですかねぇ」
手前に長方形のように並んだ4つの机の一つで何やら書類に目を通していた所長より少し若い男が、嫌味を言った。
「まあまあ。どうせ、またどこかで“ただ働き”でもしてきたんだろう?」
「そんな所です」
樫本は、好奇心旺盛な目を鏡一に向けた。
「それで、どんな事件だ?」
鏡一は、先ほど自分で解き明かした“当たり屋事件”の詳細を話した。
最後まで聞いた所長はまた笑い出した。
「いやいや、当たり屋なんて面倒な事件、よく解決できたねぇ!」
「? どういう事です?」
「ものぐさな探偵ならすぐ放り出しちゃうよ。『あ、たりぃや』って。ぶはははは!」
「………」
コメントし辛い発言に部屋の空気が重くなっていく中、所長の笑いだけが響き渡る。
そんな嫌な流れを、給湯室からの弾んだ声が断ち切った。
「鏡一く〜ん」
そして声の主が、手に何か持って給湯室から出てくる。
興信所の紅一点。
エプロンを着た若い女性が持っているのは、真っ白に輝くアイスクリームの入ったグラス容器だった。
それを見て、さっき嫌味を言っていた男が歓声を上げる。
「待ってましたッ!僕が頼んでた酒井さんのアイスクリ」
「鏡一くん、暑かったでしょ〜。ちょうど今アイスクリームが出来たんだけど、食べる?」
「えっ?ちょっとちょっと、それ僕のア」
「ありがとうございます。丁度甘い物が欲しかったんです」
鏡一が礼を言ってアイスクリームを受け取ると、男は
「うわああぁぁぁぁん…。ざがいざあぁぁぁん…」
机に突っ伏して泣き出した。
このなんとも言えない残念さを醸す男は、鷺沼裕太郎と言う。
樫本興信所に勤める調査員の一人で、鏡一の先輩にあたる。
そして、たった今アイスクリームでもって鷺沼に手ひどい精神攻撃を食らわせたこの女性も、調査員の一人だ。
名前は酒井香織。
年齢は20代中ほど(多分)、美人な興信所の看板娘だ。
鷺沼は香織に想いを寄せているらしく、しょっちゅうアプローチしては、体よくかわされている。
「冗談ですよ。はい、どうぞ」
鏡一は泣いている鷺沼の肩に手を置いて、アイスクリームを差し出した。
「…ぐす…いいもん…もうアイスなんかいらないもん…」
「そうですか。じゃあ頂きます」
「わーっ!待った!待った!やっぱりもらいますっ!」
鷺沼は鏡一からアイスクリームを奪い取ると、ものすごい勢いでガツガツ食べだした。
香織がすこし心配そうにその様子を見る。
「鷺沼さ〜ん。そんなに急いで食べたら…」
「…はぐはぐはぐ…ムグッ……あうぅ…頭痛いぃぃ……」
身体を硬直させる鷺沼。
そして、また机に突っ伏したかと思うと、今度は頭を抱えて悶え始めた。
大の男らしからぬ、情けない様だった。
これでは、香織への片思いが成就する日もまだまだ遠いだろう。
「あ、そうだ」
こんな事をしている場合ではなかった。
あさっての結果報告に備え、今まで進めてきた浮気調査の資料をまとめよう。
自分の机に向かって歩き出した鏡一に、香織が言った。
「あ、鏡一くんの資料なら、もうまとめてコピーも刷っておいたよ」
「え」
鏡一が自分の机の上を見ると、確かにそこには浮気現場を押さえた写真その他の調査資料が必要な箇所のみファイリングされ、また別に白黒コピーが何部かホチキス留めされて置いてあった。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ。お姉さん暇だったから」
そう言ってぱちっとウィンクする香織。
この人は、調査能力もさることながら事務仕事の速さが半端ではない。
その上さっきのアイスクリームのように料理を振舞ったり、持ち前の明るい性格でムードメイカー的な役割も果たしている。
樫本興信所に、なくてはならない人材だった。
アイスクリームを完食した鷺沼が口を挟む。
「酒井さん、甘やかさない方がいいですよコイツは。まだ学生のくせに周りにチヤホヤされて、大人をナメてるんです」
「あらあら鷺沼さん。おクチにアイスが」
「え…」
鷺沼は慌ててポケットからハンカチを取り出すと、ぐしぐし口元を拭ったきり何も言わなくなった。
「おうおう。いいねぇ若いって」
そんな三人の様子を眺めながら、樫本が一人呑気に言った。
「それにしても、通りすがりの探偵が事件を解決か〜。鏡一くん、女の子にキャーキャー言われたんじゃないの?」
そう言いながら香織は鏡一の身体を肘でグリグリ押した。
「いてて…いや、別にそんな事は…ただ」
「ただ?」
「“悪魔”みたい…って、言われました」
「ええっ?“悪魔”ってあの、天才ネット探偵?すごいじゃない」
香織が感嘆のため息をこぼした。
鷺沼は鼻をならした。
「ふん。ほら、そうやってみんなチヤホヤする。大体当たり屋なんか僕だって…」
「あら鷺沼さん。もしかしてヤキモチ焼いてらっしゃいます?」
「だ、誰がそんな」
その時、樫本が口を開いた。
「しかし………本当に、お前が“悪魔”じゃないんだろうね。鏡一」
「えっ…」
部屋が静まり返った。
鏡一は樫本のはらんだ雰囲気が突如変化したのを感じた。
「いや…俺は…」
「これは柳田から聞いたんだが、現在警察は“悪魔”の動向をマークし、捕まえようと躍起になっている」
「え?どうしてですか?」
香織が首をかしげた。
「確かに、“悪魔”の活動は事件の真犯人…犯罪者の情報を暴露しているに過ぎない。しかしそこに至るまでのプロセスは、知られている範囲だけでも非常に違法性が高いものだと言わざるを得ない。例えば、ネットを介して警察の保有する捜査情報を盗み出している。これは立派な不正アクセス禁止法違反だ」
「………知っています」
「それに、マスコミではまるで正義の味方のように言われているが、“悪魔”の行動には極めて倫理的な問題も存在する。既に時効になった事件の犯人まで公開し、結果何の罪もない子供が勤め先を解雇された上、一家離散となった事例もある」
樫本の言っている事は基本的に正しい。
しかし、鏡一は言い返さずにはいられなかった。
「でも、逆に真実が明らかにされないせいで苦しむ人もいるでしょう」
樫本はため息をついた。
「………お前ならそう言うと思った。だから心配なんだよ。それに5年前の事もあるからな」
5年前。
その言葉が、封じ込めていた記憶を呼び起こした。
鳴り響いたブレーキ音。
頭蓋が潰れるグシャッという音。
地面に広がる赤い水たまり。
出血が止まらない。
赤く染まった顔は、揺さぶっても何も表情を浮かべない。
数分前まで元気に笑いかけてくれていたのに。
助けて…助けて…死んじゃう…死んじゃうよ…
えりかが、死んじゃうよ………
「………ぐうっ!ぐあぁぁっ!」
気がつけば、鏡一は机に手をついてこの世のものとは思えないような恐ろしい叫びを上げていた。
口を閉じようとしても、歯の隙間から漏れ出る呻き声。
噛み締めた奥歯が、ギリッと音を立てた。
腕が、手足がビクビクと痙攣し、胃酸が喉まで上がってくる。
「はぁっ…はぁっ…その話は…しないでくださいッ…!」
「鏡一くん、大丈夫?」
香織が心配そうに声をかけ、樫本に非難のこもった視線を向けた。
鷺沼は、鼻を鳴らすだけで何も言わなかった。
「…すまなかったな。いや、お前が“悪魔”でないならいいんだ」
樫本は、バツの悪そうな顔で頭をかいた。