ユキちゃん
「ユキちゃんどこに行ったの」
由梨が父親に尋ねた。何となく存在感の薄い空の下、父の好みのアメリカ風の庭は青々と芝生に覆われている。
父はゴルフのパットを練習している。さっきから何度も球を打つが、庭の真ん中にあるホールにはわざとのように入らない。父はイライラと短く答えた。
「捨てた」
「どうして!」
由梨は絶望的な気分で父親にすがりついた。父は煩そうにそれをふりほどいた。
「どうしてって、もう必要ないだろ」
「あるよ。ユキちゃんはあたしが小さい頃から大事にしてたんだから」
父は黙ってまた球を叩いた。勢いよくホールを逸れて庭の端に転がる。父は舌うちをして、面倒臭そうに新しい球を箱から取り出した。
「絵本は六歳、ぬいぐるみは十歳を過ぎたらもう必要ない。お前、もう五年生だろ」
「そうだけど、ひどいよ」
由梨は泣きそうだった。
「何がひどいんだよ。お前のためだろ。ああいうのは早い目に止めて、勉強に専念するのがいいんだよ」
「まだ五年生……」
「早い子は今からやるんだよ。受験するんだろ」
由梨が黙りこんだ。大人たちはこの話ばかりするが、由梨にはそんな先のこと、としか思えなかった。何もかも大人ばかりが先走って由梨を戸惑わせた。
「それとユキちゃんがどう関係あるの」
由梨は小さく、低い声で尋ねた。父親はその無表情な顔をちらと見て、あからさまに首をすくめた。
「俺は無駄が嫌いなんだよ。もうぬいぐるみはいらない」
由梨は父親をぐっと睨んだ。
「ユキちゃん、返して」
父親は溜め息をついた。
「捨てたって言ったろう。もう燃えてるよ」
「お父さんが返してくれないなら、あたし、自分でユキちゃん取りに行く」
由梨はくるりと父親に背を向け、門に向かった。父は吐き出すように「馬鹿」と呟き、またゴルフの練習を始めた。
ユキちゃんは戻ってくる。戻ってくる。戻ってくる。
頭の中でそう唱えながら、由梨は黒い格子の扉を押して、道に出た。その時、空が暗くなった。由梨は空を見上げた。
「ユキちゃん!」
由梨が見たものは、空に浮かぶくたびれた犬のぬいぐるみだった。舌を出し、笑っている。
燃え盛りながら。
由梨は嬉しそうにぬいぐるみを追い掛けた。庭の上、それも父親の上に浮かんでいる。
「ユキちゃん!」
その途端ぬいぐるみは弾けた。燃える綿が雪のように庭に降り注いだ。
《了》