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紅い果実  作者: 酒田青
再び紅い果実に類する幻想ホラー集
53/58

井戸

 ――お願い、お願い、帰らないで。

 ――お願い、お願い、見捨てないで。

 あの女が追い掛けてくる。僕は草がしげった広い敷地の中を逃げる。

 彼女を愛していた。行き過ぎる程に愛していたと思う。しかしとうとうその反動が起きた。

 ――帰らないで。

 かすれるような、泣きそうな、かぼそい声で泣く彼女の手には大きな鎌が握り締められている。キラキラ光る。朝日が彼女のやつれた青い顔を照らす。

 あの鎌が握られたのは、初めての事ではない。

 ――逃げないで……。逃げないで……。

 声は弱いのに、足は恐ろしく速い。僕は息切れしているのに、彼女は泣きながら走っている。

 呼吸をしているのだろうか?

 そう考えただけでゾッとする。振り向くと、彼女の白い寝間着が浮遊するようにはためいていて、ますます現実感がない。

 僕は走った。背後の恐怖から逃げるために。かぼそい、粘りつくような声から離れるために。

 ――ねえ、ねえ、ねえ、ねえ。

 庭の隅には古井戸がある。石で組まれた旧式の井戸が。蓋は半分開いて、誰かを待っている。

 誰を?

 目を奪われ、僕は失速した。

 誰を待っている?

「逃げないで!」

 獣のような声が背後から聞こえたその瞬間、僕は足の先に鋭い痛みを感じた。そして――。

 僕は井戸に落ちた。澄んだ暗い水底に、赤い色を溶かし込ませながら沈んだ。

 ああ、右足の指先が無い。そこから、赤い色が勢いよく流れ、漂っている。

 赤い色の向こうに見えるのは彼女だ。井戸の丸い枠にその青ざめた顔をこちらに向けて、僕を見ていた。

 ――今度は水の中に逃げるのね。

 鎌から僕の血がポツポツ落ちて、井戸の水に馴染む。

 彼女の口がパクパク動いた。

 ――逃がさない。逃げないで。あたしを置いて行かないで。寂しい。寂しい。

 ――あたしも行くから。

 彼女は鎌を首筋に当てた。僕は水の中で漂いながらそれを見ていた。

 鎌が引かれて、血が弧を描くように飛び散った。井戸水の赤は濃くなった。ドボン。彼女が井戸に落ちた音がした。

 ――置いて行かないで。逃げないで。

 視界の利かない水の中で、彼女はそう言った。


 《了》

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