井戸
――お願い、お願い、帰らないで。
――お願い、お願い、見捨てないで。
あの女が追い掛けてくる。僕は草がしげった広い敷地の中を逃げる。
彼女を愛していた。行き過ぎる程に愛していたと思う。しかしとうとうその反動が起きた。
――帰らないで。
かすれるような、泣きそうな、かぼそい声で泣く彼女の手には大きな鎌が握り締められている。キラキラ光る。朝日が彼女のやつれた青い顔を照らす。
あの鎌が握られたのは、初めての事ではない。
――逃げないで……。逃げないで……。
声は弱いのに、足は恐ろしく速い。僕は息切れしているのに、彼女は泣きながら走っている。
呼吸をしているのだろうか?
そう考えただけでゾッとする。振り向くと、彼女の白い寝間着が浮遊するようにはためいていて、ますます現実感がない。
僕は走った。背後の恐怖から逃げるために。かぼそい、粘りつくような声から離れるために。
――ねえ、ねえ、ねえ、ねえ。
庭の隅には古井戸がある。石で組まれた旧式の井戸が。蓋は半分開いて、誰かを待っている。
誰を?
目を奪われ、僕は失速した。
誰を待っている?
「逃げないで!」
獣のような声が背後から聞こえたその瞬間、僕は足の先に鋭い痛みを感じた。そして――。
僕は井戸に落ちた。澄んだ暗い水底に、赤い色を溶かし込ませながら沈んだ。
ああ、右足の指先が無い。そこから、赤い色が勢いよく流れ、漂っている。
赤い色の向こうに見えるのは彼女だ。井戸の丸い枠にその青ざめた顔をこちらに向けて、僕を見ていた。
――今度は水の中に逃げるのね。
鎌から僕の血がポツポツ落ちて、井戸の水に馴染む。
彼女の口がパクパク動いた。
――逃がさない。逃げないで。あたしを置いて行かないで。寂しい。寂しい。
――あたしも行くから。
彼女は鎌を首筋に当てた。僕は水の中で漂いながらそれを見ていた。
鎌が引かれて、血が弧を描くように飛び散った。井戸水の赤は濃くなった。ドボン。彼女が井戸に落ちた音がした。
――置いて行かないで。逃げないで。
視界の利かない水の中で、彼女はそう言った。
《了》