お隣さん
「すいません」
紀子は壁を叩いた。冷たい汗が背中を伝う。
「木之内さん、お願いです。入れてください」
「寺田さんちのお姉ちゃんだね」
壁の向こうで女の子の声が聞こえた。すると新しい声がして、中でザワザワと人の気配がし始めた。紀子は救われた気がした。
「入れてほしいって言ってるけど……」
「ダメダメ、うちはもう余裕が無いよ」
「そうだけど気の毒よ。ほら寺田さんとこ……」
「そうだなあ」
木之内家の人々の声を聞いて、紀子は急に勢いを増した。
「ほんの一時でいいんです。私の家が落ちてしまう前に入れてください。時間がないんです!」
しばらく中はしんと静まりかえった。
「そうね、うちもそろそろ落ちるし……」
「もうすぐおんなじ境遇になるわけだしな」
「入れてあげましょうか」
「そうだな。ちょっとくらい……」
「やだっ!」
穏やかな話し声にほっとして聞きいっていた紀子は、突然耳をつんざく声を聞いてのけぞった。思わず足を後ろにやって、ギョッとした。床にヒビが入っている。
「美里ちゃん、何で!」
紀子はパニックに襲われて叫んだ。落ちる。今入れてもらえなければ、落ちて死ぬ。
「あたし家と一緒に落ちちゃうのよ。死んじゃうのよ。どうして嫌なの?入れてよ」
「あたし、紀子ちゃんきらーい」
美里は冷めた声で言った。紀子は頭から冷水を浴びせかけられた気分だった。
「どうして嫌なの。一緒に遊んであげたでしょ。宿題も手伝ってあげたでしょ。あとお人形作るときも……」
紀子が必死に美里に施した全てのことを思い出そうとしているとき、それを遮るように、
「ほら、恩着せがましい紀子ババア。あたし昔から大嫌い」
壁の向こうで美里がヒヒヒ、と笑った。紀子の目の前が真っ赤になった。
「クソガキ、クソガキ! 何様のつもりだよ。自分のこと、何だと思ってんだよ」
紀子は壁を蹴った。何度も何度も蹴った。家がぐらぐら揺れる。
「出てこい、美里。美里!」
最後の一蹴りだった。家が土台を離れて、紀子は静かに落ちていった。視界が渦巻く。それでも耳に声は届く。
「あ、死んじゃったね。紀子」
それはヒヒヒ、と笑った。
《了》