あやめの花
図書館で借りた時代遅れのミステリー小説を開くと、中には薄い象牙製のしおりが挟んであった。
細かい彫りのあやめの花が、つるりとした乳白色にさやかに映えていた。細い薄紫のリボンがぺちゃんこに潰れている。
私はすぐにそれが気に入った。
きっと高価なものだし、持ち主も大切にしていたに違いない。今頃探しているかもしれない。図書館に届けておくべきかと考えた。
だが、私はそれを自分のものにした。欲しくて欲しくてたまらなかった。誰が何と言おうとそれは私のものだった。
私はそれをベッドサイドテーブルの引き出しに入れた。盗んでまで手に入れたものを、使い回して傷付けたり、紛失するのは嫌だった。
私は、本はそっちのけでしおりのことばかり考えながら寝た。
夢を見た。
私はあやめの花が咲き誇る丘の上にいた。
黄色い空が広がり、紫色の太陽が照り輝いていた。
女がいた。丘の頂上に蹲っていた。身なりを構わないらしい女で、ボサボサの髪と、大きすぎる服の袖が風になびいていた。顔は見えない。
私は彼女に一歩近付いた。
「あやめが泣いていますね」
私の言葉に、女はゆっくりと頷いた。
「あやめは私を憎んでいますか」
女はまた頷いた。
「あやめは私を愛しています」
女は首を振る。
「あやめを私のものにします」
女は激しく首を振る。
「あやめは私の愛人です」
女は首を振らなかった。その代わり、ゆっくりと立ち上がった。うつむいた顔はやはり見えない。
「あやめは泣いています」
低く、陰気な声で女は呟く。
「あやめはあなたを憎んでいます」
私を指差す。
顔を上げる。
私が悲鳴をあげる前に、目のない女は黄色い歯を剥き出して叫ぶ。
「あやめは私のものだ!誰にも渡さない!」
汗ばんでいた。心臓の激しい鼓動と突然の目覚めで、私は絶望的なまでの混乱に陥った。
しおりのせいだろうか?
しおりを盗んだ罪悪感で、こんな夢を見たのか?
私は、自身のの体の震えにさえ怯えながら、カーテンの外を覗き見た。
真っ黒だった。
深夜の闇が、私の怯えを加速させた。
明るい電灯の下でやっと落ち着きを取り戻した私は、あやめの花のしおりを図書館に届け出ることにした。
別に罪悪感があったわけではない。霊的な何かについて恐れたわけでもない。
ただ、何か不気味だった。
私はしおりの持ち主について想像した。どうしてもあの目のない女が頭に浮かぶ。
私はしおりを通して持つ、以前の持ち主との繋がりを薄気味悪く感じた。けして夢の女と同じ人物だとは思わないが、早く断ち切りたかった。
朝日が覗き、僅かながら明るさの勝った時、ようやく外に出る勇気を得た私はすぐに自転車で図書館に行った。
固く入り口を閉ざし、人気のない図書館の郵便受けに封筒を入れた。中にはしおりと、それを説明した走り書きのメモが入っている。
ようやく安心した。私は呪縛から解放された気分ですがすがしく家に帰った。
その日一日は何の問題もなく過ぎた。
夜になると、私は昨日の夢のことをすっかり忘れたまま眠りについた。
「あやめは私のものです」
私はまた、あの丘の上、あのあやめの花の群の中、あの空と太陽の下にいた。
女は昨日より更に近いところに蹲っていた。何かをぶつぶつ呟いている。
女が目のない目で私を見る。私は無言で女を見つめ返す。
「あやめの花が泣いています」
女が泣き出す。涙が流れる代わりに顔が醜く歪む。
「あやめの花が泣いています」
紫色の花の群は、風にそよそよと吹かれて揺れていた。
《了》