音
今日もまた聞こえてきた、あの音。
オルゴール式の掛け時計が、夜の十時になると必ず他と違う音で鳴る。
今日も聞こえる、短い音節の繰り返し。
カツ、カツ。
靴音。
居間に座った私は、脅えながら隣の母を見る。
私をじいっと見つめる、般若のような顔。
私は先ほどまで談笑していた母を思って、目を閉じたくなる。
母はその顔を妙な姿勢で突きだし、私に触れそうになるほどに近寄る。目を閉じた私はその激しい獣のような吐息を聞く。
私は自分以外の何者かの意思に操られ、立ち上がる。
じっと睨む般若の母を残して廊下を出る。
そして、二階に向かう。
途中で妹に会う。
顔が、粘土細工のように不気味に歪められている。
片方のまぶたが縦に開き、喉まで広がる唇がパクパクと動いている。首に、歯が生えている。
少し前に軽口を叩き合った、仲の良い妹。
「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん」
妹はこの言葉しか喋れなくなる。
何も見えないつもりでいるしかないのだ。その横を通りすぎる。妹の突き出した手が虚空を掴む。
階段を見上げる。上の階には兄がいる。
青ざめた顔で、私に何か言おうとしたまま固まっている。目だけがキョロキョロと動く。
最後だ。
最後に兄の横の壁から、女が出てくる。ボサボサ髪の、汚い服を着た見知らぬ女。
気が狂ったように口をだらしなく開いて、ゆっくりと階段を降りる。
ガタン、ガタン。一段降りるごとに、女の固定されていない上半身が動く。
私はやっと逃げ出そうとする。
水飴のようになった空気の中を、力一杯歩く。女は怒ったように唸る。
やっとの思いで、私は階段横の父の書斎に入る。
だが、椅子に座った父は放心した顔をしている。そして立ち上がり、そのままの顔で私に突進する。
私は父に捕まる。
後ろでドアが開く音がする。私は震えながら首を振り向ける。
女の目が私を隙間から覗いている。ドアはゆっくりと開いた。
私は叫びたくても叫べない。
女が私の腕を掴み、首を掴む。私の顔を、その狂った目でためつすがめつ眺める。
女はニタニタ笑う。
その後、私の体に噛みつく。何度も何度も。
私は初めて叫ぶ。
だけど誰も助けてはくれない。
この出来事は夜の十時になると毎日起こる。
家族の誰もそのことを忘れている。
私は逃れられない。
二階にはあの女がいる。
誰も気付いていない。
《了》