コーヒー
あなたがそう言うのを何度聞いただろう。私はもう数えられなくなってしまった。
耳に響いて、もう一度頭で繰り返して、ああ、また言われたんだと認識すると、私はまばたきを忘れて自分の時を止める。
たった一秒だけだ。だけどとても長いと感じる。次の瞬間には鼻の奥が刺激されて目の周りが熱くなって、私の目は赤くなるから、私はきっと酷いショックを受けているんだろうと思う。
涙が頬を伝うとき、私はあなたがうんざりするのが手に取るように分かる。私はちゃんと知っている。私の涙が目の周りを黒く汚して、私はより一層『汚い女』に見えることを。
「汚い、汚い、汚い! キタナイ!」
あなたは狂いもだえるほどの嫌悪感に襲われて、ほこりを落とすかのように着ているシャツを手で何度も叩く。神経質なとがった目は瞳孔が広がっていて、そこに私の姿が映っている。
言わないで、と言う前に、あなたが「汚い」と思う所を直したい。例えば涙で溶けたマスカラ、鼻の横にできた小さなニキビ、つやの無い髪、ラメが取れてしまった長い爪、汗の臭い。どうしようもないことばかりだけれど。
「どうにかしろよ!」
あなたはイライラと私の部屋を見渡す。この部屋が不愉快なのは分かっている。だけど私には手の尽しようが無いのだ。
「掃除、したよ」
私は涙声を張り上げる。毎日、毎日、あなたがいつ来てもいいように掃除した。便器だって手を抜かずに雑巾で拭いた。
「汚いよ。臭うし、ほこりがあるし、雨戸なんて真っ黒じゃないか」
あなたはうちに来てからずっと緩めないネクタイを揺らして歩いた。真っ白な肌は興奮すると分かりやすい。どす黒い赤が首まで広がる。
雨戸なら、今週の日曜に拭いたばかりだけれど。
「どうにかならない? 気持悪いんだよ。どうしてそう不潔なんだよ」
不潔。それもあなたがよく言う言葉だ。私はあなたにとって不潔で、私のすることは全て不潔で、あなたは清潔。
「自分でもそう思わない? 化粧は濃いし、香水もきついし、掃除もしない。最低だと思わない?」
思っている。だから化粧はあまり派手にしなくなったし、香水も使わないし、掃除もしている。自分の出来る限界までやっているのにあなたはそれが分からない。
あなたが求める清潔さは、物理的な清潔さと違う。あなたが清潔だと思うものは、私には手が届かないものだ。
私のことを汚い、と言い出したのはこの数ヶ月以内のことだ。あなたはある日突然、私を嫌な目で見るようになった。
何があったのか。
何と無く想像がつく。あなたはとても単純だから。だけど私はそれを口に出来ずに泣くだけだ。
「会社の子はさ、もっときれいにしてるよ。お前みたいに不潔にしてないよ。ほんとお前最低だよ」
よく言う『会社の子』って、特定の女なんでしょう?
きれいな、ニキビひとつない、可愛い女の子なんでしょう?
彼女は化粧をしてもしなくてもきれいで、いい香りがして、気配りが上手なんだろう。
彼女に比べたら、私は薄汚い女なんだろう。
「会社の子はお前みたいに爪にゴチャゴチャつけないし、髪も黒いし、明るいし」
でも彼女の部屋が清潔かどうか、知らないのだろう。私はあなたが彼女と特に親しくないことまで想像がつく。あなたは私と付き合う時だって私任せだったから。
「あーあ。何で出来ないかな」
「……飲み物持ってくる」
私は涙をふきながら立ち上がって、きしんだ膝の間接をもんだ。目の前が暗く歪んでいた。
「俺、コーヒー」
あなたはやっとソファに座る。一番きれいな場所を選んで。
「分かった」
ゆっくりと、キッチンに向かう。泣きすぎて頭がクラクラする。
あなたは汚い汚いと言いながら、平気で私の作ったものを口にする。
それらの全てに、ゴキブリの死骸が入っているのを知っているのだろうか。
私は鼻をグスグスとすすりながら、冷蔵庫の中にあるジャムの瓶に入った砕いたゴキブリの黒い粉を取り出した。
《了》