ひと切れの絹布
そっと、ミルク色のストールを巻き付けた。彼女の細く白い首に。
彼女は小さく膨らんだ下唇を軽く噛み、それから嬉しそうに微笑んだ。
毎日彼女は同じ服屋のガラス戸の横にしゃがみこんでいる。短いスカートの中が見えてしまうのも構わずに。長くうねった髪が、冬空に舞い上がるのも気にせずに。
彼女は僕がショールを巻き付けるのを待っている。僕が手にしたストールを、救いであるかのようにうるんだ目で見る。
僕は違う日に同じストールを持って行きはしない。毎日新しく柔らかい絹のストールを買い、店員や道行く若い女の子にひそひそと陰口を叩かれて下を向く彼女の元に行く。彼女は僕を待っているのだ。
彼女は何故あそこにいるのだろう。僕は知らない。何故なら彼女は一言も喋らないのだ。
初めて会ったときも、彼女はあそこにいた。寂しげに地面を見つめ、男たちから声をかけられても黙りこみ、まるでひとりぼっちだった。企業面接の帰りがけだった僕は、沈みこんだ彼女を見付けて、『寂しい首だ』と思ったのだった。襟ぐりの広いセーターを着た彼女の首は裸で、牡丹の花を支える茎のように心もとなかった。
初めて首に巻き付けたのは、僕の藍色のマフラーだった。首が寒くなったのを感じながら、僕は彼女におずおずと笑いかけた。警戒されるかと思いきや、彼女はポカンと僕を見ているだけだった。
呆けた顔は空っぽの心を表していた。突然後悔した僕は慌ててマフラーを外そうとした。
「ごめん」
そう小さく呟いて。マフラーは長い髪に絡み付いていて、僕は慌てた。すると彼女はゆっくりと笑ったのだ。小さく、こちらが暖かく感じるほど優しく。
「このストールは今までで一番似合うね」
今日も僕は首に巻き付いた布の端を握ったまま彼女を見つめる。道行く人は妙な目で見る。だけど気にならない。彼女が目を細めて笑ってくれるから。
「明日も来るよ。明後日も来る」
僕はそっと呟く。彼女は風で消えてしまいそうな程微かな笑顔を僕に向ける。このほほえみを自分だけのものにしよう。僕はその度に決意する。
「さよなら」
しばらく見つめあったあと、僕は彼女を背にする。後ろ髪を引かれたりはしない。僕は帰り、彼女もやがて帰る。僕は彼女が深夜にはいなくなることを知っているのだ。
だけど今日は違った。
「テツ!」
背後から乾いた声が聞こえた。振り返らずとも分かった。彼女の声だ。僕が初めて聞く、彼女の声だ。
背の高い男が彼女の体を覆っていた。黒いジャケットを着ていて、影のようだった。
「テツ。テツ。テツ」
悲鳴のように彼女はわめいた。何度も、何度も、男の名を呼んだ。男はますます強く、彼女を抱いた。彼女が男の背に回した腕と、ストールのほどけかけたきれいな首が見えた。
回りの人々は呆然と立ち止まり、彼女を知る服屋の店員は、納得したように互いに目をあわせ、笑った。
辺りはとても暖かかった。ただ、僕の首筋ばかりが寒かった。
次の日、僕は彼女に会った。彼女は緑色のマフラーを巻いていた。いつもの場所に、何の曇りもない笑顔で、僕を待っていた。
「あ」
僕は黙って歩いていった。彼女の口はパクパクと動いた。
「こんにちは。私、お礼が言いたくて。いつも声かけてくれてありがとう。それからストールも。私、彼に置いて行かれてからずっと今まで落ち込んでて。病院行っても治まらなくて。あなたの励まし、嬉しかった。あのストール、大切にします。それから」
いらない。こんな声の彼女はいらない。こんな笑顔の彼女はいらない。
僕は勢いよく歩きながら左手に下げた紙袋をガサガサと探った。裸の掌に、湖に滞った水のように柔らかいものが触れた。
不思議そうな顔をしている彼女に、僕は取り出した真っ赤なストールを両手で伸ばしながら近付いていった。
《了》