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七.

 解剖室の鈍重なドアが開いて、青い手術着と手袋をつけた長谷部が意気揚々と入ってきた。長谷部はこの時もやはり、魚屋がつけるような白い長前かけを腰につけ、左手には出刃包丁を持っていた。


 これは、明らかに僕がでっち上げた記憶である。実際の長谷部は白い長前かけなどつけておらず、無論、出刃包丁も持っていなかった。


 僕はDとの対話を繰り返すなかで、度々、過去の記憶を思い起こした。彼の言葉の何がそうさせるかは分からないが、大抵、医学生時代の解剖室の記憶だった。


 長谷部は僕が思った通りのことを、思った通りのタイミングで発言した。僕が考えたシナリオみたいに。


「さあさ、今朝、仕入れたばかりの、活きのいい新鮮な身体だよ。さあ、みんな集まれ。これから始まる解体ショーを、とくと楽しむがいい」


 僕たち医学生は、長谷部が運んできた移動式寝台の周りに、我こそはと鼻息荒く走った。みんなの目は、獲物を見つけた獣のように瞳孔が散大し、ギラギラ光っていた。僕たちは異様な興奮状態にあった。長谷部の右隣にいた、眼鏡をかけた背の低い色白の学生が鼻血を出した。


 たしかに実際、あの時に限らず、医学系実習のときは、みんな緊張と興奮状態にあったのだと思う。


 アドレナリンの上昇や、それに伴う血圧上昇、また、過集中状態や行動力の維持に役立つ脳内麻薬のエンドルフィンや、快感物質ドーパミンなどが上昇することは知られているから、僕のこの幻覚も、過去のそうした生理状態に惹起(じゃっき)されて、生み出されたものに違いない。悪夢に見るように、かなり誇張され、不気味に作られてはいるが。


 長谷部が持っていた出刃包丁が寝台の上の遺体(?)へと振り下ろされた。左隣にいた、詰襟の一番上のホックが締まらない小太りの学生の顔に、血しぶきがかかった。学生は、ぱあっと顔を耀かせたのち、後ろ向きに卒倒した。


 僕はまだ、寝台に寝かされている遺体を見ていなかった。長谷部が倒れた学生に、軽蔑の目をちらとむけたあと、鼻を鳴らした。その三秒後に、彼はまた発言する。


「駅で身投げしたっていう話じゃないか。こんなに若いのに、もったいないね。将来を悲観して投げちゃったのかね。K教授がさっき、刑事と話していてね、少し小耳に挟んだことなんだが、遺体のそばに、『SF小説指南書』っていう本が転がっていたらしいよ。なんだか、哀しいね。


 僕が想像するに、きっと、この青年は小説家を目指していたんじゃないかな。だが、じきに自分には才能の欠片(かけら)さえないということに思い至ったんだ。絶望した彼は、とうとう身を投げたってわけだな」


 長谷部は、学生たちを見回しながら続けた。


「このかわいそうな青年をその気にさせた奴が、一番の悪だあね。僕はそう思うよ。みんなは、どう思うかね」


 学生は互いの顔を見て、「いやいや、責任は本人にある」とか、「もしかすると、その本をやった奴の仕組んだ計画だったり」とか、「青年にとって、この本は、死の計画書になってしまったのかも」や、「そうすると、最大の悪は、これをやった奴だ」などと、話した。長谷部はうんうん、と大きく頷いた。


「良い討論だな。結構、結構」

「では、また、ひとつ」


 そう言って、長谷部は再び、出刃包丁を振り下ろした。僕の前に立っていた、のっぽで大柄の学生が、口から泡を吹いて、前につんのめった。その拍子に、寝台の金属の角に頭をぶつけた。急に目の前が開け、僕は遺体をまじまじと見た。


 長谷部は僕の顔をじっと見て、さらに言葉を続けた。


「こんな、趣味の悪い野暮な本、誰が買うんだ。こんなの、自分で買うはずはないのさ。こんなのをやる奴の気が知れないね、全く。僕はこの本を見て、直感したよ。この青年に本をやった男はきっと、こう言ったんだ。


『君はまだ若いし、将来もある。きっと、いい未来が待っているんだ。だから、この本で、たくさん勉強すれば、小説家になれるよ』とね。


 そんな無責任なことを言って、たぶらかしたんだろう。青年の方は見事に信じちまった。書けもしない小説かなんかに、一縷(いちる)の望みをかけて、自分の人生を預けちまった。これが、運のつきだね」


 異様な興奮に包まれた部屋で、天井からつり下がる瓦斯灯が、黒い頭の群れへとゆらゆら青白い光を投げかけていた。


 僕は身震いした。この部屋はやけに、寒いのだ。


「たしか、T大の小説クラブかなんかで一緒になった男からもらったんだとさ。青年の母親から聞いた話だよ。その男というのが、妙な奴でさ。なんだって、自分は精神科の先生で、開業までしているんだそうだ。けれど、教えてもらった住所に訪ねていったけれど、医院は存在しないし、第一、彼にはきちんとした仕事がないらしい。駅のホームに座って、一日を暮らしているんだそうだ。


 青年は彼に問いただした。しかし、彼は現実を認めようとしなかった。自分は精神科医だと言って聞かない。完全に妄想に取りつかれてしまっていた。


 そこで、青年はこのままじゃいけないと思ったのだろう。ちょうど知り合いの人で、精神を診ている先生を知っていたから、その医院へ彼を連れていった。……

 病人には医者が必要だとはよく言ったものだ」


 学生たちの黒い頭が頷いた。僕も一緒になって頷いた。長谷部はなおも、僕だけを見たままで、さらに続けた。


「さあ、最後の審判が下される時が来た。この青年を死に追いやった悪人(villain)は一体誰だ。……」


 長谷部の顔は、いつのまにかBの顔になっていて、左手に持っていた出刃包丁は「SF小説指南書」へと変わっていた。Bが、本を目の前の遺体へと振りかざした。


 その時、僕はDの美しい死に顔を見た。……


 

 Bに電話をかけたあの日、僕はたしかに事故現場に行った。Dの顔は、もはやその原型をとどめてはいなかった。ただ、一部は盛り上がり、一部はちぢれたような黒い肉片が、白銀の絨毯(じゅうたん)の上へ、ぼつぼつと置かれているような風景だった。これらが、本当にDなのかどうか、信じられなかった。僕の印象は、列車にひかれた身体というものは、こうも、やけに黒々と光っているんだなという淡々としたものだった。……


 僕はもう一度身震いした。歯がかちかち鳴った。手がかじかむ。ふと、視線を下へとずらすと、真っ白な雪がすでに、くるぶしあたりまで降り積もっていた。


「今日は、長靴を履いてきて正解だったな」と、Bは嬉しそうに言うと、本の硬い背表紙をまっすぐ、Dの健康そうな胸へと叩きつけた。


 Dは苦しそうに顔を歪めた。永遠を感じさせるように、鮮血がゆったりと彼の艶やかな皮膚を伝い、寝台の縁から床の真っ白な雪へと落ちていった。僕はそれを美しいと思った。


 恍惚として止まった時間を引き裂くかのように、突然、Bの鋭い声音が耳元でギンギン響いた。


「何を怖がっている! 直視するんだ! 現実を見ろ! 逃げるんじゃない。お前は本当は何を見た」


 目の中に血が入ったのか、視界が真っ赤になった。そして上下逆さまになった。長谷部や学生たちが、天井で震えている僕を見て、笑っていた。ぐらぐら揺れる視界のなかで、唯一雪だけが、上から下へと規則的に降り続いていた。……



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