四.
「先生、先生」
意識の片隅というものが本当に存在しているとするならば、確かに僕は、意識の辺境で、看護婦の甲高い声音を聞いた。
看護婦が、次の患者を診察室に呼び入れている風景を見たとき、僕の口の中では、苦い味が残っていて、視線は一瞬間前に、一人の患者のカルテの上に止まっていた。
三十七の男が、僕の視線を避けるようにしながら診察室へ入ってくる。回転椅子の上にぎこちなく納まると、両肘を抱え、脚を交差させたまま、僕のすぐ後ろの窓へと視線を移した。今日は朝から雪が降り積もる。
「先生、僕はやっぱり分かりません。自分が一体、何を夢見て、何をしたかったのか。そして、これから何をして、生きてったらいいのか。先生は、ゆっくり考えてみても遅くはないと言いましたがね、僕はじき四十ですよ。それなのに、一向に浮かんで来ません。これは、少し危険過ぎやしませんか」
Bの声に似た、それでいて、Dの格好をした男に向かって僕は呟く。
「……あなたは、一体誰なんですか。僕は、診察室で、何を見せられているんでしょう」
自分が何を喋っているのか、分からなかった。今僕は診察室で、患者を診ている最中に、医者らしからぬ発言をしたと理解できぬほど、正気を失っていたのだろう。
「先生、また混乱してますね。しっかりして下さい。先生は、何をそんなに恐がっているんですか」
診察室の気温が急に下がってきたためか、僕の唇は、凍えるように、ぶるぶる震えていた。僕はDの瞳に、額縁に収まる油絵のような降雪を見た。
「恐がってる……? 誰が」
「分かってるくせに。先生に決まってるでしょう。先生は、僕が、これから列車に飛び込んで、バラバラ死体になってしまうとでも思っているんですか? まさか、僕が、先生にホームから突き落とされるって言うんですか?」
おどろおどろしいBの声は、僕の脳天をじわじわと切り進んでいくような感覚を催し、危うく発狂しそうになった。それは、僕が、医学生だったとき、ある死体が運ばれてきたときの記憶を呼び覚ました。
***
「今朝入ったばかりの新鮮な身体だよ」と、まるで、鮮魚店の店主が客に話す口振りで、講師の長谷部が叫んだ。僕たち医学生は、死体を囲んで、長谷部の回りに集まった。長年の染みのついた灰色の解剖室に、瓦斯灯の青白い光が投げかけられ、にょろにょろとした不気味な影を映していた。
「駅で身投げしたっていう話じゃないか。こんなに若いのに、もったいないね。将来を悲観して投げちゃったのかね。K教授がさっき、刑事と話していてね、近くに、『SF小説指南書』っていう本が転がっていたらしいよ。なんだか、哀しいね」
と、長谷部は復数人いる医学生の中でなぜか、僕の顔を見て話した。その時、僕が何と返したかは覚えていない。しかし、長谷部がメスを取り、囲んだ学生が各々のバインダーを手にするまで、僕は前に立つ学生の肩越しから、異様に黒光りした死体を恍惚と見ているだけだった。




