三.
「先生ですか。Dの件……いや、とんだことになりましたね。まさか、彼が自殺するなんて、ねぇ……」と、Bはため息混じりにそう言った。
僕は、SF小説倶楽部で西洋画家のBを知った。倶楽部は、T大の卒業生たちが開いた同好会で、本大生でなくても、SF小説が好きであれば誰でも自由に参加できるとあって、広く雑多な人たちと交流できた。二十人ほどが構内の物置部屋同然のゼミ室にひしめき合い、自作の小説を読ませ合い、討論を行う。よく話題に上るのは、最近読んだ小説の感想とか主義主張がどうのとか。某小説家の奥さんが美人だとか、息子が近々結婚するとかいう、どうでも良さそうなことまで多岐にわたる。
僕が倶楽部に入った時には、すでに、Bは会員になっていた。僕が倶楽部の存在を知ったのは、医院を開業して二年半経ったくらいで、たしか患者の誰かが、倶楽部のことを話したからだと思う。
僕は、もともとSFが好きだ。恥ずかしながら、小説もどきなんかを書いたりしている。大学病院に勤務していた頃は、忙殺されて、趣味の読書さえままならなかったから、今こうして、ある程度の自由度でもって仕事できるのが嬉しい。
倶楽部は、今も細々とやっているらしいが、僕が参加し始めた頃とは、もうずいぶん変わってしまっただろうな。
その頃、僕より二十も下の若者のBは、すでにパリやミラノ、上海、ストックホルムなど、世界を旅する画家先生になっていた。
ちょうどその頃、Bの個展がジュネーブの小さな空き家を借りて行われるそうで、僕も誘われたが、診療を休むわけにもいかないからと断った。言い訳としては十分だけれど、僕が断った本当のわけは、年下で、かつ才能のあるBに嫉妬していたからかもしれない。誰が個展なんぞ見に行くもんかと、強がっていたからだと思う。そもそも、僕は彼の絵を嫌っていた。ずっと昔、彼のアトリエで、作品を見せてもらったことがあった。よくは覚えていないが、たしかどこか片田舎の風景を切り取ったものに違いなく、僕はその絵からひどく陰鬱で重苦しい印象を受けた。以降、彼のアトリエへは行かなかった。
Dを診察室以外で知り合うきっかけを作ってくれたのは、このBだ。Dは、Bと同じ大学の一つ先輩、後輩にあたり、同じくSF小説倶楽部の会員であった。僕もBもDも、T大とはなんの関わりもないのに、SF好きが高じて出会ったというのは、考えてみれば、やはり腐れ縁だったのだと思う。
Dが精神に変調をきたしたのは、Bの個展が終わって帰国したすぐ後だった。Bは僕が精神科の医院をやっていることを知っていた。それで、Dを僕の医院で診てくれないかと頼んできた。僕はもちろん、受け入れた。
***
「これから現場を見てこようと思う」
「事故現場にですか。……いやあ、それは止めておいた方が良さそうですよ。今頃、記者連中が辺りを嗅ぎ回っていますからね、先生なんか弱そうだから、すぐに囲まれて、質問責めにされてしまいますよ。なにせ、相手はプロ中のプロですからね、もう、とっくに、先生の正体やDとの関係を突き止めてしまっていますよ」
「正体って、君……」
「違いますよ、先生は、何も悪くないんです。Dが死んだのは、先生とは、まるっきり関係がないんです。記者達だって、初めこそ、疑うかもしれませんが、先生が清廉潔白の剛健実直なお医者様なのは、誰が見たって明らかなんですから、かえって堂々としているくらいでいいのかもしれませんね」
「それで、君は見たのかい」
「死体ですか。ええ、見ました。あまりに酷い有り様で、電話口で言葉にするのは遠慮したいですね。そうか、先生は医者ですから、そういうものは、見慣れていましたね。解剖なんかで、散々、死体を見たのでしょう?」
Bの言葉一つ一つに、悪意がにじみ出ていて、しかも、それを包み隠そうとはしない。僕は終始、身体の毛が逆立っていた。僕の診察室にやって来た患者の中に、こんなのがいたような気もしていた。
「先生、聞いてますか? 正気を保って下さい。先生がしっかりしてなきゃ、先生を頼ってくる病人たちはどうなるって言うんです。さあ、早く現場を見に行ってくださいよ。僕は確かに、あべこべな事を言っています。でもね、先生、やっぱりね、先生は無実なんだから、ぜひDの顔を見に行ってやってください。そうしないと、あいつもうかばれませんよ」
「……」
「まだ発見されて間もないみたいですから、死体はまだ、そのまま放って置かれてありますよ、きっと」
声から類推するに、電話口のBは笑っていただろう。正気の沙汰とは思えない。しかし、一つ譲歩して考え直す。親友が突然亡くなったことによる、急性期のショックにより、Bは情緒不安定になっているのかもしれない。何らおかしいことではない、と。
僕は何度、早鐘の鳴る鼓動にそう言い聞かせたか。しかし、いざこの目で、Dの死に顔を見る段になると、Bの言葉がやけに真実味を帯びていて、僕が、Dを死に追いやった張本人であるかのように錯覚させられてしまう。
錯覚――。
もしかして、僕のまだ「そうではない」部分が、「普通」の部分との攻防戦の果てに、現実世界へと顔をもたげ、僕の手を動かし、彼の背を、冬のホームから突き飛ばしたのであろうか――。




