37、君は嫌かな
青髪のメロウが『ねえねえ聞いて!』とはしゃぐように飛び跳ねた。
『私知っているのよ!人間の恋人たちは愛を交わしあった後でキスをするのよ』
『キスなら私も知っているわ』
『かつてはメロウと人間もキスをしていたって言うわよね』
おませさんたちにちょっと待て、と言いたかった。
恋愛はもっと順序立ててお互いの仲を進展させていくべきだ。
いや、恋愛経験皆無の私ではあるけれども、そんな簡単にキスなんて言い出すべきじゃないわよ、と心の中では叫び立てていた。
説教をする立場でもタイミングでもないけれど。
『本当に好き同士じゃないと、できないわよね』
『でも恋人ならいつもしているんじゃないの?』
三人は海上できゃあきゃあ言った後に、こちらを見た。
メロウは精霊だ。目力がとんでもない。三人から発せられる無言の圧力が肌をチリリとさせた。
言っていることは冗談のように聞こえるが、彼女らの要求は本気だ。
『恋人同士がキスしているところ、見たいなあ』
無理だ。さすがに、キスは無理。
私は思わず後ずさった。未だ恋愛のひとつもしていない私にとって、キスなんて未知のもの。
それにゲオルグに悪い。悪いなんてものじゃない。彼はダナンの王様だ。
王様にキスしたらそれこそ不敬罪で殺されてしまうんじゃないだろうか。
せっかく彼を王宮に帰したとしても、その後に自分を待ち受ける運命が極刑だなんて絶対に受け入れたくはない。
彼はあるべき場所に戻った後、妃を娶るのだ。それは私のような平民ではなく、諸侯のお姫様のような偉い人のはずで。
キスはそういう正当な女性とこそすべきであって、私のような粗末な人間としたら彼の何かが減って(?)しまうのでは―――。
(それに、ゲオルグはきっと嫌がる)
最後にポツンと思い浮かんだそれが、一番胸を痛めたことは、きっと思い過ごしだろう。
「グルグルしているな」
頭上からゲオルグの声が聞こえてきた。彼の声を聞くと、ホッとする。
「さっきから君の顔が真っ赤になったり真っ青になったりしている。メロウの要求には答えられそうか?」
「ゲ、ゲオルグ……実はその」
ゲオルグの言葉通り、頭の中がグルグルしていた私は、藁にも縋る思いでこれまでのメロウとのやりとりをゲオルグに話した。もう自分ではどうしていいか分からなかったのだ。
ただし最後の理性の砦が決壊していなかった証として、キスをせがまれていることだけはあいまいにした。
たとえ演技とはいえ、そこまで破廉恥になることはどうしてもできなかった。何度考えても、ゲオルグに申し訳がない。
ゲオルグは「ふむ」と言ってアゴヒゲを撫でた。ちょっとだけニヤついているようにも見えたが、気のせいかもしれない。
「俺はだいぶ買い被られたんだな」
「モテモテよ。よかったじゃない」
「そして俺と君が恋人か。面白いじゃないか」
「お、おもしろい……!?どこがよ、私はさっきから真剣に困っているっていうのに」
「やはり今日はついてきてよかったな」
どうやったらこの状況を「面白い」だなんて言えるのだろうか。
ゲオルグにも迷惑をかけてしまって申し訳がないし、これ以上破廉恥なことをしなければいけないのなら頭が爆発してしまいそうだった。
「この機会を逃す手はない。俺とフリッカがそういう勘違いをされているのなら、最後まで乗ってやるべきだろう」
「待って頂戴。冗談でしょう?それにの、乗るってどうするのよ」
「恋人らしいことをすればいいのだろう?君はどうされたい?」
ゲオルグは妙に優しい表情になって見下ろしてくる。
鷹の目は、いつもよりも柔らかく細められている。そこに普段とは違う感情を見たような気がして、私の胸は高鳴った。
私の頬を、ゲオルグの手がそっと撫でた。
メロウ三人が海上から「きゃーっ」と歓声を上げてバシャバシャと跳ねる。
突然乗り気になったゲオルグに「何をしているの」と言いたかったが、喉にへばりついて声が出ない。
「抱きしめるでも、キスでも、望みどおりに」
今いる場所がフィルランドの港であることも、メロウの目の前であることも全てが吹き飛んだ。
ここにいるのは私とゲオルグの二人だけ。
全身が心臓にでもなってしまったかのように、頭の中でも耳の中でもバクバクという動悸しか聞こえない。
ゲオルグがかがめば、二人の顔が接近する。
彼のトレードマークである丸眼鏡の汚れまでが、近くに見える。
彼は何をするつもりなのか。
頬から下りてきた彼の親指がそっと私の唇をおさえる。
頭が真っ白になってしまって、何も考えられなかった。
「嫌かな」
ゲオルグが問う。
何のことを問うているのか分からないのに、何のことを聞いているのか分かる。
答えられない。言葉が何も出てこなかった。
「嫌だったら止めるから、ちゃんと言ってくれ」
嫌なのはあなたじゃないの、と問い返したかった。
だってあなたはダナンの王様で、これから妃を娶る人で、それでそれで――……。
私は、どうなのだろう。嫌なのだろうか。
――そうよね、恋は楽しいわよね。分かるわ。その人が近くにいるだけで、幸せになれるもの。
――好きな人が笑ってくれたら嬉しいし、好きな人が泣いてしまったら私も悲しいわ。自分の心の中に、好きな人が入ってくる感じかしら。
先ほど、私がメロウに言ったことだ。
恋愛経験はないけれど、言葉はすらすらと出てきた。
(ああ、)
彼の顔が間近に迫る中で、気付いたこと。
(私はゲオルグのことを思い浮かべて、言ったんだ――……)
そうしてメロウ三人が見守る中、私の唇に温かいものが触れそうになった直前、私は恥ずかしさから頭が爆発して意識を失うことになったのだった。
倒れるときに聞こえた私の名を呼ぶゲオルグの声が、今でも耳の奥に残っている。