32、私の危機を救ったのは
その瞬間、ぬるりと目の前の海の中から茶色い腕が伸びてきた。
水しぶきとともに私の目の前に広がったのは、話していたのとは別の、褐色のメロウの顔だった。ニタリと口に大きな笑みを浮かべて、ほの暗い瞳をこちらに向けている。
何が起きたのかよく分からなかった。突如現れたもう一人のメロウに腕を掴まれて、私は固まってしまった。
一瞬の後、ようやく状況を理解した私は腕を引いてメロウから逃げようとしたが、ものすごい力で逆に海に引きずり込まれそうになる。
『何をしているの!』
先ほどまで話していた金髪のメロウが、突如現れた褐色のメロウへと叫ぶ。
褐色のメロウは赤い髪を振り上げながら、金髪のメロウを振り返った。その間も私の腕を離すことはない。
『捧げものをくれると言っていたじゃないか。ちょうどいいから海に引きずり込んでやろう』
『まだ対価の話をしていないわ!それは反則よ』
『さっきから横で話を聞いていれば自分たちの事情ばかり。自分勝手な人間どもにはお似合いだろう。最近はフィルランドの男たちの相手にも飽きていたところだ。
会話もできるようだし、せっかくだから私たちの国に招いて遊んでやればいいだろう』
メロウの国は海の底にあると言われる。
そこに連れていかれれば人間は元の世界に戻ることはできない。これでは「捧げもの」の条件を話すどころではなくなってしまう。
私は交渉が失敗したことを悟り、再度腕を引こうとする。
褐色のメロウの力は強かった。私は埠頭の前でしゃがんでいた手前、うまく体勢を取ることができず、その力に逆らうことができなかった。
みるみる海面に吸い寄せられていき、暗い夜の海と体との距離が近くなる。
クーシーが何か後ろで叫んでいるが、それもよく分からない。
まずい。
引きずり込まれる。
ふらり。
手元が石造りの埠頭から水の中へと吸い込まれそうになったそのとき。
「フリッカ!」
ぐい、と。
名前を呼ばれ、今度は逆側から大きく引っ張り上げられた。
海の中に沈むと思っていた視界は、あっという間に真上にある星の輝く空へと向けられていて。何が起きたか分からず、目を瞬かせる。
気付けば私は埠頭の先から少し離れた石造りの地面の上に倒れ込んでいた。
数秒前まで海の中に引きずりこまれると思っていたのに、急転直下の出来事だった。
それに、倒れ込んだにしては背中に地面の固さを感じない。むしろ、温かく柔らかい感触がする。
「……大丈夫か、フリッカ」
耳元で低いバリトンボイスが私の鼓膜を震わせた。
そこで初めて誰かが自分を抱えて下敷きになっているのだと理解した。
ハッとして後ろを確認してその存在に気付く。
聞きなれた声の主は、ゲオルグだ。
私はゲオルグに後ろから抱きかかえられたまま埠頭に横たわっていたのだった。
「ゲオルグ!?」
慌てて起き上がる。
「間一髪だったな。間に合ってよかった」
ゲオルグはそう言って深く息を吐くと、あぐらをかいてその場に座り直す。
徐々に状況を理解してきた。メロウによって海の中に引きずりこまれそうになった私を、ゲオルグが後ろから引っ張って救出してくれたのだ。
私は安堵のせいか腰を抜かすようにしてその場に座り込んだ。
お互いに向き合って地面にペタリと座る二人。
ゲオルグは安全を確認するかのように私の全身に視線を向けた後、黄色い瞳を細めた。
「君にはいろいろと追及したい点もあるが、とにかく無事なんだな。怪我はないか」
「え、ええ……でもあなた、どうしてここに」
「あれから君との会話を反芻して、やはり危険が伴うのではと判断して追ってきた。それに……いつもとは違う君の様子も気になっていたしな」
「……」
「とにかく、よかった」
ハッと気付いて暗い海面のほうに目を向け直すと、先ほどまで漂っていたメロウは二人とも消えていた。
すると、未だすがるように海を見つめる私の両頬に、ゲオルグの両手が添えられる。ゲオルグが私の顔を無理やり向き直らせたのだ。彼の手の熱を感じてビクリとした。
もう一度絡み合うことになった視線の先で、私の瞳は鷹の目に吸い込まれそうになる。
「一度隠れ家に帰るぞ」
「ゲオルグ……」
「いいな」
普段の穏やかな様子とは一転、きつい口調で言い渡されて返す言葉もない。
声もなく立ち上がり、助けを求めるようにクーシーを見たが、彼は「それ見たことか」と言わんばかりに青い瞳を細めて自慢の尾を一振りしただけだった。




