14、白狼
それから数日後。私は隠れ家の裏に続く森に立ち入り、低木からグーズベリーを採取していた。
グーズベリーは赤くて小さな果実を実らせ、その酸味が料理に重宝する。
フィルランドの森は古くから生える古代林が生い茂っている一方で、果実を実らせた低木も多く存在する。
隠れ家の周囲には果実を実らせる樹木が多く、森に深く立ち入らずとも、明日の食事に使える果実が入手できるのはありがたかった。
普段は家からそれほど離れず、裏の森で果実を少しだけ採取して終わりだ。
だが今日は風の向きが違う。それは私の胸にいつもと違う感情を呼び覚ます。
果実の採取のためにかがんでいた私は立ち上がって、雲がいつもより早く流れる空を見上げた。
(なんだか、呼ばれている気がする)
そう感じた私は、普段であれば立ち入らない森の奥に慎重に歩を進める。
巨木が空を覆うエリアに入ると、それまで明るかった周囲は一気に暗くなった。
木々の匂いが濃くなり、雰囲気が変わる。
私が生まれるよりもずっと昔からここに存在した樹木たちがその葉を擦り合わせれば、緑のさざめきが私の耳を支配した。
(ダナンランドの樹木とは違った木々たちね。でも、会話は聞こえてこない)
おそらくまだ警戒されているのだろう。木に宿る精霊たちは用心深く、よそ者に対してはそう簡単に心を開いてくれない。
精霊は個を持ちながらも、全体で繋がり合うため、ダナン全島の情報を分かち合う。
味方にできれば心強く情報も網羅できるだろうが、無理強いは禁物だった。
あまり森の奥へ行くのは危険だと思う半面、誰かに呼ばれたような感覚もあり、どうしても気になってしまってもう一歩、もう一歩……と足を進めてしまう。
普段から人が入ることもないのか、道が通っているわけでもなく足場も悪い。
これ以上行くと戻れなくなる危険があると感じ、そろそろ踵を返そうと思っていた矢先、私は見つめる先に青白い何かを見つけた。
(あれは……狼!?)
古代林の根元に座っているのは、紛れもなく一匹の狼だった。こちらを向くことなく体を丸めている。
あまりに驚いて声も出なかった。
この森が危険だと忠告されていたのは、狼が生息するからだ。
まさにその元凶に出会ってしまったわけだが、急いで逃げ出そうと思ったところで、私は再び目をこらす。
(でも、群れで暮らす狼がたった一匹でいるだなんて変よね。それになんだか様子がおかしい)
その毛並みはふんわりとして青白く輝いていた。しっぽもふさふさで、通常の狼の2倍ほどの長さがある。
一般的に生息している狼よりも毛艶が良く、明らかに見た目が違った。
それに先ほどから感じる違和感の正体……そう、強いて言えば「神々しさ」だ。
「お母さんの持っていた本で見たことがある。あれは精霊の一種……バーンマク(白狼)だわ」
思わず独りごちると、その声に気付いたのか白い狼がわずかに顔を上げた。
『誰だ……人間だって?』
バーンマクは鋭く青い瞳をこちらに向ける。その声は思ったよりも高く、若々しかった。
姿からでは分からなかったが、もしかしたら私が想像するよりも幼いのかもしれない。
『この森は狼が出る森として敬遠されている土地なのに。こんなところで人間に出会うとは思わなかった』
ぼそぼそと話す声には張りがない。しかも、人間と出会っても逃げたりもせず、逆に襲い掛かったりもする気配もない。
相変わらず古代林のふもとに座ったままで、なんだか元気がないようにも感じた。
私は先方に敵意がないことを感じ取ると、わずかに躊躇いながらも距離を取ったまま声をかけた。
「あなた、バーンマクね?」
『しかも僕たちと話ができる人間か……。ドルイドって言ったっけ?こんな場所に何の用?』
「正確にはドルイド見習いだけど……って待って、あなた……」
よく見ると、そのバーンマクは怪我をしていた。ふんわりした毛に隠れてはっきりとは分からなかったが、左の前脚から出血している。
その前脚を庇うように、木の根元にうずくまっているのだ。
「怪我をしているじゃない!誰にやられたの?」
『人間ごときには関係のないことだよ。早く立ち去れ』
最近、港町の人々が森で飼育している家畜に狼の獣害が出ていると聞いたことがある。おおかた、そのくくり罠に引っかかったのだろう。
バーンマクはふいとそっぽを向いてしまったが、怪我をしている精霊を見つけてそのままにしておくわけにもいかない。
自宅には先日港町の行商から購入した傷薬が置いてある。
来た道を戻ろうかとも思ったが、人間用の薬が精霊に効くかどうかは分からなかったし、一度別れてしまえばこのバーンマクが姿を消してしまう気もした。