第6話 声なき声、そして花咲く未来
処刑の朝。空は、まるで世のすべての哀しみを塗り込めたかのように、重たい鉛色をしていた。
広場を埋め尽くした民衆のざわめきが、ぴたりと止む。処刑台へと引き出されてきたジン皇子の、あまりにも毅然とした姿に、誰もが息をのんだのだ。彼は少しも臆することなく、ただ静かに空を見上げていた。
処刑執行人が、冷たい刃を振り上げる。
その刃が、鈍い光を放ちながら振り下ろされようとした、まさにその瞬間だった。
「お待ちください!」
人垣をかき分けるようにして、李太監が転がり込んできた。彼は息を切らし、皇帝の御前にひざまずくと、大切そうに抱えていた一通の書状を差し出した。
「陛下! どうか、これをお読みください! ここに、真実が記されております!」
皇帝が、疑念の目を向けながらもその書状を受け取り、開いた。
次の瞬間、信じられないことが起こる。
そこに書かれたメイファの文字が、まばゆいばかりの黄金の光を放ち始めたのだ。それはまるで、小さな太陽が夜を払うかのようだった。
そして、声が響いた。
誰かの口から発せられたものではない。その場にいるすべての者の、心の奥底に直接語りかけるような、澄み切った声なき声。それは、メイファの魂の叫びだった。
《ジン皇子様は、無実です。あの方は、誰よりもこの国を、民を、そして陛下を思う、気高き魂の持ち主……》
言霊の力は、ジン皇子の無実を、彼が隠してきた七年前の真実を、そして彼へのひたむきな愛を、雄弁に語り始める。その純粋な想いは、人々の心を激しく揺さぶり、偽りの噂に曇らされていた瞳から、次々と涙をあふれさせた。
「おお……なんと……」
「皇子様は、英雄だったのだ……」
民衆のざわめきが、どよめきへと変わる。
その時だった。
「申し上げます! 張宰相が謀反を企てた証拠が、これに!」
ジン皇子の腹心の部下が、幾多の証拠書類を手に駆け込んできた。
追い詰められた張宰相は、獣のような叫び声を上げた。
「ええい、こうなれば!」
理性を失った彼は、隠し持っていた短剣を抜き、玉座の皇帝へと襲いかかった。
誰もが、凍りついた。
その刹那、今まで鎖に繋がれていたはずのジン皇子が、信じられない力でその拘束を引きちぎり、皇帝の前に立ちはだかる。
そして。
七年間、誰も聞いたことのなかった声で、彼は叫んだ。
「――陛下、危ない!」
その声は、少し掠れていたが、力強く、そして温かかった。
宮廷中の、いや、世界中の時が止まったかのような、奇跡の瞬間だった。
*
数ヶ月後。
宮廷には、嘘のように穏やかな日々が戻っていた。
張宰相の罪はすべて暴かれ、ジン皇子の名誉は回復された。声を取り戻した彼は、その聡明さと人徳で皇帝の最も信頼する右腕となり、国政に新たな風を吹き込んでいた。
そして、メイファは。
皇弟付きの主席書記官という新たな地位を得て、彼の側で、その仕事を支えていた。
うららかな春の日。満開の杏の花が咲き誇る庭を、二人は並んで歩いていた。
「この国の文字の成り立ちには、まだ解明されていない謎が多い。君の知識を借りたい」
ジン皇子が、少し照れたようにそう言う。彼の声を聞くたびに、メイファの胸は、まだ慣れない喜びでいっぱいになる。
メイファが微笑んで頷くと、ジン皇子はふと足を止め、彼女に向き直った。
そして、この上なく優しい声で、彼女の名を呼んだ。
「メイファ」
ただ、それだけ。
けれど、その一言は、今まで彼女が書いてきたどんな美しい文字よりも、どんなに心を込めた言霊よりも、温かく、そして力強く、二人の心を永遠に結びつけた。
メイファの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。それは、悲しみの涙ではない。
彼女は、満開の花のような笑顔で、深く頷いた。
龍の筆が紡いだ命懸けの恋文は、国を救い、一人の皇子の心を解放し、そして、二人の未来に、見事な花を咲かせたのだった