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第5話 明かされる真実と、命懸けの恋文

 龍の筆――そのあまりに壮大な伝説に、メイファはまだ現実感を掴めずにいた。けれど、李太監の静かな瞳に見つめられると、不思議と心が定まっていく。

 李太監は、そんな彼女の覚悟を確かめるように、さらに言葉を続けた。


「お主が真にジン皇子様を信じるというのなら、知っておくが良い。あの方がなぜ『呪われた皇子』と呼ばれるようになったのか、その本当の理由を」


 李太監が語り始めたのは、七年前にこの国を揺るがした、あの忌まわしい戦の日のことだった。

 当時、皇太子であったジン皇子の兄は、自ら軍を率いて最前線にいた。しかし、敵の罠にはまり、軍は壊滅寸前に陥る。その絶体絶命の状況の中、たった一軍を率いて兄の元に駆けつけたのが、若き日のジン皇子だった。


「敵の矢が、皇太子様を狙った。その時、ジン皇子様は、迷わずご自身の体を盾になされたのじゃ。……矢は、皇子様の喉を深く貫いた」


 兄君はその時の傷が元で、数日後に息を引き取った。ジン皇子は一命を取り留めたものの、声を、そしてかけがえのない兄を同時に失った。

 国を守った英雄。そう呼ばれるべき彼は、しかし、政敵たちの悪意に満ちた噂によって、その立場を一夜にして変えられてしまった。

『弟が、兄を見殺しにした』

『兄の死を悲しまず、声も出さぬとは、心が無い証拠だ』

『あれは、国を蝕む呪われた皇子だ』

 真実を知る者は口をつぐみ、偽りの物語だけが、宮中に深く根を張ってしまったのだ。


「……っ」


 メイファは、両手で口を覆った。胸が張り裂けそうだった。

 彼が一人で抱えてきたものの、あまりの重さ。その深い孤独と、誰にも言えない苦しみ。それを思うと、自分の悩みなど、なんてちっぽけだったのだろう。

 彼への想いが、ただの淡い恋心から、もっと深く、もっと切実なものへと変わっていく。この人を、私が守らなくては。何があっても。


 離れていても、心は繋がっている。メイファは、そう固く信じた。


 だが、運命は、そんな二人のささやかな繋がりさえも、無慈悲に引き裂こうとする。

 数日後の朝議の間。居並ぶ重臣たちの前で、張宰相が甲高い声を上げた。


「申し上げます! ジン皇子に謀反の疑いあり! ここに、動かぬ証拠が!」


 彼が高々と掲げたのは、一通の密書。それは、メイファの父親が震える手で書かされた、偽りの証拠だった。

 皇帝は苦悩に顔を歪ませる。弟への情と、国を揺るがしかねない宰相からの圧力。その間で、彼の心は引き裂かれていた。


「……ジンを、捕らえよ」


 玉座から絞り出された声は、ひどくかすれていた。

 兵士たちに取り押さえられても、ジン皇子は一切の弁明をしなかった。ただ、静かに、そして毅然と、玉座に座る兄を見つめているだけ。その瞳には、哀しみも、怒りもなかった。


 ジン皇子投獄、そして三日後の処刑決定――。

 その報せがメイファの元に届いた時、彼女の世界から、すべての音が消えた。血の気が引き、膝から崩れ落ちる。どうして。なぜ。私があの時、もっと早く動いていれば。


「……嬢子、泣いている暇はない」


 絶望の淵に沈むメイファの肩を、李太監の手が強く掴んだ。

「今こそ、お主の魂を、その文字を、力に変える時じゃ。龍の筆が、お主を待っておる」


 李太監に導かれ、メイファは月の光だけが差し込む、宮廷の最も古い祭壇へと向かった。そこは、歴代の皇帝が国の安寧を祈ってきた、神聖な場所。

 祭壇の中央に、古びた桐の箱が安置されていた。


 李太監が厳かに箱の蓋を開ける。

 中には、一本の筆が静かに横たわっていた。それは、黒檀のように艶やかな軸を持ち、穂先はまるで銀糸のように輝いている。一見するとただの美しい筆。だが、その存在感は、そこにあるだけで空気を震わせるようだった。


 これが、龍の筆……。


 メイファが、吸い寄せられるように手を伸ばす。指先が触れた、その瞬間。

 筆が、まるで長い眠りから目覚めたかのように、淡く、温かい光を放った。そして、まるで彼女の手を待っていたかのように、その手にすっと収まる。


「さあ、書くのじゃ。皇帝陛下の、そして万人の心を動かす、真実の言葉を」


 メイファは、祭壇の前に広げられた純白の紙に向き合った。龍の筆を、ぎゅっと握りしめる。

 不思議と、もう恐怖はなかった。あるのは、愛する人を救いたいという、ただ一つの強い想いだけ。


 彼女は、静かに息を吸い込むと、その命を懸けた恋文を、皇帝への手紙を、書き始めた。

 一文字、また一文字。

 文字を刻むたびに、自分の体から生命力がごっそりと吸い取られていくような、めまいにも似た感覚に襲われる。

 それでも、彼女は筆を止めなかった。彼の無実を、彼の気高さを、そして彼への愛を、この一通の手紙にすべて注ぎ込むために。

 窓の外では、夜明けが近づいていた。

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