第4話 魂の在り処と、龍の筆の伝説
あの日を境に、ジン皇子は書庫に姿を見せなくなった。
あれほど心地よかった二人だけの場所は、再び元の、ただ静かで冷たい空間に戻ってしまった。メイファは、独りきりの書庫で、胸を締め付ける罪悪感に苛まれていた。
(私が、あの方を傷つけた……)
脳裏に焼き付いて離れない。腕を離したときの、彼の瞳から光が消えた瞬間。すべてを諦めたような、あの深い絶望の色。私の沈黙が、彼の孤独をさらに深いものにしてしまったのだ。
このままではいけない。家族が大事。でも、ジン皇子がこのまま陰謀に貶められるのを見過ごすことなんて、できない。私のせいで、彼が苦しむなんて絶対に嫌だ。
恐怖に震える心とは裏腹に、胸の奥で小さな炎が灯る。
守りたい。私の大切な人たちを、この手で。
震える足で、メイファは文徳房のさらに奥、宮廷の誰もが忘れたかのような古びた渡り廊下を進んでいた。目指すのは、皇帝の私的な書物を管理し、宮中で最も賢明で、古の伝承に精通していると噂される人物――李太監の仕事部屋だ。
扉を叩く指が、小さく震える。
「……入りなさい」
中から聞こえたのは、古井戸の水のようによく澄んだ、穏やかな声だった。
部屋の中は、古い紙と薬草の匂いがした。白髪を綺麗に束ねた李太監は、メイファの姿を見ると、すべてを悟ったかのように静かに頷いた。
「ジン皇子様のことで、お悩みかな」
メイファは驚きに目を見開いた。彼女は、これまでの経緯と自分の無力さを、涙ながらに書き綴った手紙を差し出すことしかできない。
李太監は、その手紙を受け取ると、そこに書かれた文字を指でそっとなぞった。そして、深く、深く息をつく。
「……やはり、そうであったか」
彼の目は、メイファの文字の向こうにある、何か根源的な力を見ているようだった。
「嬢子。これはただの美しい筆跡ではない。お主の文字には、魂が宿っておる。それは古に伝わる『言霊の才』。言葉に乗り移った書き手の感情が、読み手の心に直接作用する、稀有な力じゃ」
言霊の才。初めて聞く言葉だった。でも、メイファは不思議と納得していた。自分の文字が持つ、あの不思議な温かさの正体が、ようやく分かった気がした。
「ですが、私の力など、張宰相の権力の前では……」
「一人では、そうやもしれぬ」
李太監は、部屋の奥にある鍵のかかった棚から、古びた桐の箱を取り出してきた。
「だが、お主のその才能は、伝説の神器『龍の筆』を呼び覚ますためのもの。龍の筆は、ただの筆ではない。持ち主の魂そのものを真の言葉として文字に刻み、いかなる偽りをも打ち破って、真実を万人の心に届ける力を持つという」
メイファは息をのんだ。絶望の闇の中に、一条の光が差し込んだようだった。
「その筆があれば、ジン皇子様を……」
「うむ。だが、その筆は持ち主を選ぶ。そして、魂を削るほどの強い想いがなければ、その力は発揮されぬ。……お主には、その覚悟があるかな?」
メイ-ファは、まっすぐに李太監を見つめ返した。瞳には、もう迷いの色はない。
「あります。私、やります。龍の筆で、私の言葉で、必ず真実を明らかにしてみせます」
その頃――。
ジン皇子は、自室で静かに地図を広げていた。彼の前には、信頼する腹心の部下が膝をついている。
「……張宰相の周辺を探ったところ、いくつかの不審な金の動きが。また、淑妃様の一族とも密に連絡を取り合っている模様です」
ジン皇子は、黙って報告を聞いていた。
彼は、メイファが自分を裏切ったとは、心のどこでも信じていなかった。あの純粋な瞳が、嘘をつけるはずがない。彼女の態度の変化の裏には、彼女自身の意志ではない、抗えない大きな力が働いているのだと、彼は見抜いていた。
ジン皇子は筆を取り、木簡に力強く書き記す。
《調査を続けろ。……そして、メイファという女官の一家を調べよ》
部下の顔に、わずかな驚きが浮かぶ。ジン皇子は、さらに言葉を続けた。
《手出しはするな。ただ、守れ。何があっても、だ》
その文字には、彼の揺るぎない決意がこもっていた。
傷つき、沈黙していたのではない。彼は、愛する者を守るため、静かに、そして鋭く、反撃の牙を研いでいたのだ。
離れた場所で、けれど同じ敵を見据えて。
すれ違ってしまった二つの心は、今、再び一つの未来を掴むために、動き始めていた。