第3話 しのびよる恋と陰謀の影
あの日以来、ジン皇子の書庫の空気は、甘く、そしてひどくぎこちないものに変わっていた。
メイファも、ジン皇子も、互いを意識しないようにすればするほど、視線が絡みそうになって慌てて逸らす。ふとした瞬間に指先が触れそうになり、びくりと体をこわばらせる。言葉のない空間に、二人分の心臓の音だけが響いているようで、メイファは何度自分の頬が熱くなるのを感じたか分からない。
けれど、その気まずささえも、どこか心地よかった。
彼が時折見せる、ほんのわずかな戸惑いの表情。メイファが書く文字を追うときの、真剣なまなざし。その一つ一つが、彼女の心に温かい灯りをともしていく。このまま、穏やかな時間が続けばいい。メイファは、そう願わずにはいられなかった。
しかし、宮廷という場所は、二人のささやかな秘密をいつまでも許してはくれなかった。
いつからか、ひそやかな噂が女官たちの間で囁かれるようになったのだ。
「聞いた? あのジン皇子様が、文徳房の女官にご執心ですって」
「まあ、呪われた皇子が? いったいどんな娘なの?」
噂は尾ひれをつけ、あっという間に後宮中に広まった。メイファが廊下を歩けば、好奇と侮蔑の入り混じった視線が突き刺さる。あれほど安らげる場所だった文徳房でさえ、同僚たちの遠巻きにするような態度に、メイファは針の筵に座る思いだった。
そしてある日、ついに恐れていた事態が起こる。
皇帝陛下の最も大切な寵妃、淑妃から呼び出しを受けたのだ。
案内された淑妃の宮は、まばゆいほどの調度品で飾られ、甘い香が立ち込めていた。絹の衣をまとった淑妃は、花の精のようにたおやかで、作り物めいた笑みを浮かべている。
「あなたが、メイファね。噂は聞いていますよ」
蜂蜜のように甘い声だった。けれど、その瞳はまったく笑っていない。
「ジン皇子様は、心に深い傷を負われたお方。慰めになるのなら良いけれど……」
淑妃は優雅な仕草で茶器を手に取ると、す、と目を細めた。
「けれど、身の程をわきまえなさい。これ以上あの方の心を乱すことは、誰のためにもなりません。……あなたの、ためにもね」
その言葉は、美しい花に隠された冷たい毒針のように、メイファの心をじわりと蝕んだ。ただ、ジン皇子のそばにいたい。そう願うことさえ、罪なのだろうか。
打ちのめされたメイファに、追い打ちをかけるような出来事が続く。
実家の父親から、手紙が届いたのだ。懐かしい父の筆跡に、一瞬心が安らぐ。だが、そこに書かれていた内容に、メイファは血の気が引いた。
『――近頃、お前の宮中での噂が、我ら一族の立場を危うくしている。家の安泰を願うならば、分をわきまえ、言動を慎むこと。宰相閣下も、お前のことを大変ご心配されている……』
宰相閣下――張宰相。国で最も権力を持つ、あの冷酷な男。
その名が出た瞬間、メイファはすべてを悟った。これは父の言葉ではない。張宰相の、見えない手だ。ジン皇子の台頭を恐れる宰相が、自分を駒として利用しようとしている。家族を人質にして。
絶望が、冷たい霧のようにメイファの全身を包み込んだ。
次の日、書庫へ向かう足は鉛のように重かった。
ジン皇子は、メイファのただならぬ様子にすぐに気づいたようだった。彼女が俯いてばかりで、筆談にも応じない。いつもなら、彼女の書く楽しげな文字で彩られる木簡が、ただ黙って置かれている。
心地よかった書庫は、再び氷のような沈黙に支配された。
耐えきれなくなったのだろう。ジン皇子が、無言で作業を続けるメイファの腕を掴んだ。驚いて顔を上げた彼女の目に、彼の苦しげな表情が映る。
彼はもう片方の手で筆を取り、木簡に今までになく切実な文字を刻んだ。
《何かあったのか? 顔を見せろ、メイファ》
初めて、彼が自分の名を書いてくれた。その文字は、まるで悲痛な叫びのように見えた。
メイファの目から、涙がこぼれ落ちそうになる。言いたい。すべてを打ち明けて、助けを求めたい。
けれど、言えば、きっと彼は自分のために無謀なことをするだろう。そして、家族が危険に晒される。
「……っ」
メイファは、唇を強く噛みしめ、ただ力なく首を横に振った。
その拒絶が、どれほど彼を傷つけるか分かっていながら。
ジン皇子の瞳から、すっと光が消えた。彼は掴んでいたメイファの腕を、ゆっくりと、ゆっくりと離す。まるで、大切な何かが手の中からこぼれ落ちてしまったかのように。
二人の間に、もう決して埋めることのできない、深く冷たい溝ができてしまった。
温かかったはずの書庫で、メイファは一人、見えない鎖に縛られ、立ち尽くすことしかできなかった。