第2話 筆先が紡ぐ、心の距離
翌日、メイファがジン皇子の書庫へ向かう足取りは、昨日よりも少しだけ重かった。
(昨夜のこと、気づかれていたらどうしよう……)
衝動でしたこととはいえ、皇子の寝室に勝手に文を差し入れるなど、知られればただでは済まない。けれど、それ以上に彼のうなされる姿が心に焼き付いて離れなかった。
書庫に入ると、ジン皇子はすでにそこにいた。窓辺の椅子に腰かけ、静かに書物を読んでいる。その横顔は相変わらず冷たく、人を寄せつけない。
メイファは気づかれないよう、そっと息を殺して作業を始めた。
けれど、どこか違っていた。昨日までこの部屋を支配していた、凍てつくような孤独の空気が、ほんの少しだけ和らいでいる気がする。気のせいだろうか。
数日が過ぎ、メイファが書庫の整理に慣れてきた頃。彼女は壁際の書架に、一冊のひどく傷んだ書物を見つけた。表紙はほとんど崩れ、題名も読み取れない。そっと開くと、そこには忘れ去られた国の古い伝承が記されていた。
(まあ、なんて素敵な……)
夢中で読みふけっていたメイファは、ふと、ジン皇子がこちらを見ていることに気づいた。彼の視線は、メイファが持つその古い書物に注がれている。
メイファは一瞬ためらったが、思い切って近くの木簡に筆を走らせた。彼女の書く文字は、少し丸みを帯びていて、どこか楽しげに弾んでいる。
《この伝承をご存知ですか? 星の神々が七夜かけて恋文を交わし、その言葉の粒が天の川になったという、とても美しいお話です》
書き終えた木簡を、おずおずと彼の前に差し出す。
ジン皇子は、その文字にすっと目を走らせた。彼の表情は変わらない。やがて彼は筆を取り、返事を書く。彼の文字は、メイファのそれとは対照的に、鋭く、理知的で、無駄が一切ない。
《くだらぬお伽噺だ》
やはり、興味はなかったのだ。メイファががっかりして木簡を下げようとした、その時。ジン皇子が続きを書き足した。
《だが、その恋文を書いたという星の神の名は?》
メイファの顔が、ぱっと輝いた。
《はい! 西の空を守る武神『狼星』と、東の空で機を織る女神『織女星』です。素敵でしょう?》
彼女がそう書いて見せると、ジン皇子の口元に、本当にごくわずかだが、笑みのようなものが浮かんだように見えた。
《その伝承が載っているのは、『古今神話集』の第七巻のはず。だが、その書は五十年前に焼失したと聞くが》
《ええ。でも、宮廷の記録によれば、焼失を免れた一冊がどこかに保管されている、と。もしかしたら、これがそうなのかもしれません》
それから、二人の間に不思議な時間が流れるようになった。
言葉を交わすことはない。ただ、筆と木簡を通して、古い物語について、忘れられた歴史について、語り合う。
メイファの持つ豊かな知識と、書物への純粋な愛情。それが、ジン皇子の固く閉ざされた心の扉を、少しずつ、少しずつ開いていく。
彼が本来持っていた知的な好奇心と、その奥にある優しさの片鱗が、彼の書く文字の端々に、かすかに滲み出るようになっていた。
冷たく静まり返っていた書庫は、いつしか二人だけの、穏やかで心地よい秘密の場所になっていた。
そんなある日のこと。
メイファは、一番高い書架の上にある書物を取ろうと、大きな脚立に登っていた。
「あと、もう少し……」
つま先立ちで手を伸ばした、その瞬間。
ぐらり、と脚立が大きく傾いだ。
「きゃっ!」
短い悲鳴とともに、メイファの体が宙に投げ出される。落ちる。そう思った瞬間、力強い何かが、彼女の体をぐっと抱きとめた。
衝撃はなく、代わりに、温かい体温と、かすかに白檀の香りがした。
おそるおそる目を開けると、息が止まりそうになった。
ジン皇子の腕の中に、すっぽりと収まっていたのだ。
間近で見る彼の顔。いつもは冷たく澄んでいる黒曜石のような瞳が、今は驚きに見開かれている。その瞳に、怯えた自分の顔が映っている。
声のない沈黙が、二人の間に落ちる。彼の腕の力強さ、伝わってくる鼓動、そして今まで見たことのない彼の動揺した表情。そのすべてが、メイファの心臓をぎゅっと掴んで離さない。
先に我に返ったのは、ジン皇子だった。
彼は慌てたようにメイファをそっと床に降ろすと、何か言いたげに一瞬口元を動かし、けれどすぐに表情を消した。そして、彼女から目をそらすと、足早に書庫から出て行ってしまった。
一人残されたメイファは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
まだ、彼の腕の温もりが体に残っている気がする。自分の胸に手を当てると、心臓が今にも飛び出してしまいそうなほど、速く、そして大きく鳴っていた。
(ジン皇子様……)
頬が、じわりと熱くなる。
ただの主と、仕える者。それだけだったはずの関係が、この瞬間、確実に変わってしまったことを、メイファは予感していた。