第1話 呪われた皇子と物言わぬ文字
太陽の光が、細かな埃をきらきらと金色に照らし出す。
華宸国の後宮の片隅にある書庫「文徳房」は、いつも静かで、古い紙と乾いた墨の匂いに満ちていた。
「……よし、これで大丈夫」
下級女官のメイファ(明華)は、そっと息をつきながら、修復を終えたばかりの詩集の頁を指でなぞった。百年前の詩人の言葉が、彼女の書き写した文字によって新しい命を得る。
メイファの仕事は、この文徳房で古くなった書物を修復したり、書写したりすること。地味で、誰にも注目されることのない役目だ。でも、彼女はこの仕事が好きだった。傷つき、朽ちかけていた物語が、自分の手で再び息を吹き返す。その瞬間が、たまらなく愛おしい。
彼女が筆を走らせると、ごく普通の墨で書かれただけの文字が、まるで生まれたてのひな鳥のように、かすかな温もりを帯びて震える気がした。もちろん、ただの気のせいだ。メイファ自身は、そう思っている。
「ねえ、聞いた? メイファ様が写してくださった薬の処方箋、なんだかいつもより効き目が良かった気がするの」
「わかるわ。あの方の文字って、ただ眺めているだけで、心がすーっと安らぐのよね。不思議だわ」
書架の陰から、同僚の女官たちのひそひそ話が聞こえてくる。メイファは小さく首をかしげた。自分の文字が特別だなんて、考えたこともない。ただ、一文字一文字に「美しくなあれ」「健やかになあれ」と、祈るような気持ちを込めているだけだ。
その日の午後、いつものように書物の整理をしていると、上役の女官が早足でやってきた。
「メイファ。急ぎなさい。皇帝陛下より、あなたに勅命が下りました」
「私に……ですか?」
思いがけない言葉に、メイファは目を丸くした。
女官は、どこか同情するような、それでいて畏れるような目でメイファを見つめる。
「ジン皇子様の宮へ。書庫の整理を命じられました」
「ジン皇子様……」
その名を聞いた瞬間、文徳房の穏やかな空気が、シン、と凍りついた気がした。
ジン皇子――皇帝の弟宮でありながら、宮廷では誰もが口にするのをはばかる存在。七年前の戦で喉に癒えない傷を負い、それ以来、一切の声を失った。心を閉ざし、誰とも言葉を交わさないことから、いつしか『呪われた皇子』と呼ばれるようになっていた。
(そんな、高貴な方の宮へ、なぜ私のような者が……)
不安に揺れる心とは裏腹に、勅命を断ることなどできるはずもなかった。
*
ジン皇子の宮は、後宮の最も奥まった場所に、まるで忘れ去られたかのように静まり返っていた。案内された書庫は、日が差し込まず、昼間だというのに薄暗い。空気はひやりと冷たく、床に積もった埃が、長い間誰も足を踏み入れていないことを物語っていた。
(すごい数の書物……)
壁一面を埋め尽くす書架に圧倒されながら、メイファはそっと袖をまくり、整理を始めた。一冊手に取るたびに、その本の持つ物語に心が引き込まれそうになる。夢中で作業に没頭していた、その時だった。
背後に、ふっと人の気配がした。
驚いて振り返ると、そこに一人の青年が立っていた。月の光を織り込んだかのような、銀糸の刺繍が施された黒衣。整いすぎた顔立ちは、まるで精巧な人形のようだ。
彼が、ジン皇子。
メイファは、息をのんだ。噂に聞く恐ろしさとは違う。けれど、彼のまとう空気は氷のように冷たく、すべてを拒絶しているようだった。
ジン皇子は何も言わず、ただ冷ややかな目でメイファを一瞥した。その瞳の奥に、まるで深い井戸の底のような、どうしようもない哀しみが揺れているのを、メイファは見逃さなかった。
彼は近くにあった木簡に、迷いのない筆遣いで文字を書くと、無言でこちらに差し出した。
《余計なことはするな》
硬質で、誰の心にも届くことを望んでいないかのような、寂しい文字だった。メイファは、胸がちくりと痛むのを感じながら、深く、深く頭を下げた。
その夜、クタクタになって自室に戻る途中、メイファはジン皇子の宮の前を通りかかった。すると、固く閉ざされた寝室の扉の向こうから、かすかなうめき声が聞こえてきたのだ。
悪夢にうなされているのだろうか。昼間見た、彼の哀しげな瞳が脳裏に浮かぶ。
(あんなに冷たい目をしているけれど、きっと、とても苦しんでいらっしゃるんだわ……)
そう思った瞬間、メイファは衝動的に動いていた。
懐からいつも持ち歩いている小さな筆と紙を取り出すと、その場に膝をつく。何を書くかなんて、考えていない。ただ、彼の苦しみが少しでも和らげばいい、と。その一心だった。
―――静かな夜が、あなたの傷を優しく包みますように。
どうか、安らかな眠りが訪れますように。
祈りを込めて書き終えた一枚の紙を、そっと扉の隙間から滑り込ませる。誰かに見つかる前に、と、メイファは自分の心臓の音を聞きながら、その場を足早に立ち去った。
翌朝。
ジン皇子は、ゆっくりと目を開けた。
信じられないほど、穏やかな目覚めだった。ここ何年も、悪夢にうなされずに眠れたことなどなかったのに。
体を起こすと、床に落ちている一枚の紙が目に入った。誰が置いたのか。警戒しながら手に取る。
そこに書かれていたのは、短い詩だった。
その文字に触れた瞬間、ジン皇子は目を見開いた。まるで陽だまりに触れたかのように、温かく、優しい光が指先から心へと流れ込んでくるような、不思議な感覚。
彼の閉ざされた心に、何年かぶりに、柔らかな光が差し込んだ瞬間だった。
(この文字は……)
ジン皇子の脳裏に、昨日書庫で一心に書物を磨いていた、あの物静かな女官の姿が浮かんだ。
彼はその紙を、まるで宝物のように、そっと胸元にしまった。