表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

10月31日土曜日 18:30 再診

2.10月31日土曜日 18:30 再診


 先週の初診で、痛みの原因である虫歯の治療は完了したのにも関わらず、今週はまだいくつかある虫歯(痛みはしていないもの)の治療をしていくと聞いている。

 麻酔の注射自体も痛く、可能なら一度に全部治してもらいたいのだが、それでは歯医者のビジネスモデルである継続的な通院と、予防のための定期ケアの顧客化につながらないのだろうし、1人の患者に1時間以上も掛けることは無理だしな、と私は独言ながらTファミリーデンタルクリニックに到着した。


 キーンという先週も聞いたあの音がフロアの奥から聞こえており、先生はまだ前の患者の治療中のようだ。

 受付の女性に診察券を出して、待合のソファに座って10分ほど待っていると、中学生くらいの女の子が診察室から出て来て、入れ替わりで私が呼ばれた。


 お待たせして申し訳ございませんと、にこやかに謝罪しながら先週の下村医師が今日の治療内容を説明してくれる。

 「今日は上の歯で少し虫歯になっている所を治療していきますが、先週の様に麻酔をする必要が無い程度のものなので、ご安心下さい。」

 「もし痛む様なことがあれば、その時に麻酔をしますが、それとも最初から麻酔をしておきますか?」

 と聞いてくるので、痛みが我慢出来なくなってからで大丈夫です、と丁重にお断りし、私は診察台が倒れていくのに身を任せていった。


 顔の半分にタオルが掛けられ、先ずはカリカリとあの採掘道具で少し掘られ、そしてキュィーンと小口径のドリルで掘削された。

 うん。今の時点では痛みはない。

 水で掘削物を洗われ、風を当てられて、またキュィーンとされる。

 少ししみる感じはするが、たいしたことはない。

 カリカリとされると、少し痛むことはあったが、前半戦の2箇所の治療は問題無く終わったのだが、最後の1箇所が思いの外、ガリガリとする必要があったようで、激痛とまではいかないものの、かなりの痛みを感じたので、麻酔を使うことになってしまった。


 塗る麻酔を塗布して、麻酔注射が打たれる。

 1箇所、2箇所、3箇所・・・

 この麻酔注射が痛い。

 

 「5分ほど休憩しましょうね。」と下村医師が一旦、席を外した。

 はぁ、と一息つく。口内の左上がぼやーっとしてくるのがわかる。

 診察台にもたれて診察室を見渡して、あの女性・・・つまり、先代の院長のお嬢さんの写真を眺める。

 お嬢さんと言っても、この部屋の写真は20代半ばから後半あたりの女性に見える。若く見えていたとしても30代の前半くらいだろうか、モデルか女優かと言うようなとびきりの美人だ。

 肩までの黒髪は下ろしている写真もあれば、結っている写真もある。

 どの写真のお嬢さんも笑っていて、私は一目で惹かれてしまった。

 この写真のお嬢さんの笑顔を見ていれば、あの痛みも我慢できるのに、と思ったが、タオルを掛けられなければ、あの拷問器具での拷問行為や注射も直視してしまうことを考えると、こうやって痛みに耐えたご褒美にお嬢さんの笑顔で癒される方がいいや、という結論になった。


 治療が再開され、また掘削作業が再開されたが、ものの5分程度で終了。

 残った小さな汚れを取ってもらって、この日の治療は終了となった。

 下村医師に次回の治療計画をレクチャーされて、うがいをして診察室を出た。


 受付で会計を待っていると、また歯科衛生士の加藤さんが会計をしてくれる。

 あの受付の女性はどうやら19:00には勤務終了になるようだ。

 「次回のご予約ですが・・・」と加藤さんがカレンダーを見せながら聞いてくるので、やはり平日は空いていないのですか?と聞いてみるも、私の都合のいい日や時間はどの日も予約で満杯の模様。

 私は翌週の7日の土曜日は以前から別の予定が入っているため、翌々週の土曜日である11月14日の今日と同じ時間で予約を入れてもらうことになった。

 会計を済ませて、帰ろうかと思ったが、尿意がするのでトイレを借りることにした。


 フロアの突き当たりの右奥のトイレから出て、廊下に出るところで、トイレと反対側の所は院長室と掲げられた扉があって、そこにも写真が飾られていた。

 その写真もあのお嬢さんの写真なのだが、お嬢さんが赤ちゃんを抱いている。

 まだ生後何週間か、というくらいの赤ちゃんのため、男の子か女の子かは分からないが、穏やかに抱いてる様からお嬢さんの子供のようだ。


 私がまたお嬢さんの写真を眺めながらゆっくりと廊下を歩いて、受付のところまで来ると、下村医師が「お大事にして下さいね。それでは。」と、会釈をして病院を出て行った。

 加藤さんもレジ締めをしており、ゆっくり写真を見ていると迷惑になるので、私も続いて病院を後にした。


*11月4日水曜日


 この日は田町の事業所で1日研修の日。

 退屈な研修が多い中、今日の研修はなかなかにやりがいのあるものだったが、如何せんボリュームが多過ぎる。

 本来なら1日半、余裕を持すなら2日でやる量を1日でやるものだから、大幅に終了時刻を超過し、研修終了後に急ぎのメール対応をして事業所を出る頃には20:00を過ぎたところだった。

 本来の研修の終了時刻は定時だったので、その時間ならこっちの事業所の知り合いなんかと飲みにでも行こうか、と考えていたが、知り合いのほとんどは退社していて、残った知り合いはまだまだ残業という感じであったため、1人で食事だけでもして帰ろうと駅の方へ歩いて行った。

 

 田町駅と駅直結の新しいビルの飲食店は夜は主に飲み屋になっているため、駅を越えて三田側に出た。

 ぶらつきながら食べログで店を探してみると、なかなか良さそうな洋食店を見つけたので、その店に決めた。


 「ラストオーダーは21:30になりますので…」とのことだが、大してお酒を飲むつもりもなかったので、メインにホワイトソースのロールキャベツのセット、それ以外に前菜を2品とクラフトビールをさっとオーダーする。

 少し贅沢な夕飯になったが、研修でヘトヘトになったこんな日だったら、たまにはいいだろう。

 平日の水曜日の遅めの時間だが、2Fのテーブル席は私の他に2組の客がいた。

 1組はこの近くのK大学かS工業大学かの女子大生3人組と、もう1組は近所の住人だろう親子4人組だ。2〜3歳らしき小さな女の子がアイスクリームを頬張っているのが可愛い。


 私はクラフトビールを飲みながら、牡蠣のコンフィをつついていると、向かい側の壁に見たことのある女性の写真が飾られているのを見つけた。

 

 あの歯医者さんのお嬢さんの写真だ。

 他にもいくつか写真が飾られているが、他写真には写っていないようだ。

 確か、先代の院長は三田で開業したと聞いたので、田町の三田側にあるこの店と何か関係があるのかもしれない。

 ここにある写真のお嬢さんは20代前半といった感じの頃の写真で、ポニーテールにして爽やかに笑っているのも美しい。

 私が写真のお嬢さんに見惚れているところに、サルシッチャとメインのロールキャベツのセットがやってきたので、お嬢さんに見惚れているのを店員に気取られないように食事に集中することにした。


 食後にジャスミンティーを追加注文したところで、ここの女将らしき店員にラストオーダーを確認されたので、追加は無いということの他に、あのお嬢さんの写真について聞いてみた。

 「あそこの写真の女性ですが、職場の近所の歯医者さんでも同じ人の写真が飾られていて、以前この辺りにあった歯医者さんの院長さんのお嬢さんと聞いているのですが、この人はここのお店と何かご関係があるのでしょうか?」

 初来店の中年の男性客が、店の写真の女性との関係について聞くなど、聞かれ様によっては不審者の如くの質問だったが、私は思い切って聞いてみることにした。

 

 「私の幼馴染なんですよ。彼女。」

 だが、こちらの心配をよそに女将らしき店員はあっさりと答えてくれた。

 「すごくきれいな子でしょう。大学がほら、そこの大学だったので、ウチの店でアルバイトをしてくれてたんですが、当時はあの子目当てで、大学生たちだけでなく、この辺りの大きな会社の若いサラリーマンも押しかけて予約が毎日一杯になるほどでしたよ。」

 と、女将は昔を懐かしむ様に微笑む。


 「ママはこっちなんですよ〜。」

 と、女子大生3人組の1人の子が、自分の横に飾られている写真を指差しながら、酔って赤い顔をしながら教えてくれる。

 どれどれ、と見てみると、お嬢さんには及ばないものの可愛らしい女性が写っていて、確かに目の前の女将の面影がある。

 「あんたたちもそろそろ終わりにしなさいよ。トウコは下を片付けてきて、フミちゃんたちはお母さんが来るまでトウコと一緒に下を手伝ってきてよ。」

 女将は娘たちがまだ飲む〜と言っているワインボトルを取り上げて、1Fフロアの片付けに追いやった。

 どうやらフミちゃんたちは姉妹で、子供の頃からの付き合いのようだ。


 「じゃあ、私たちももうそろそろ帰ります。この子、もう寝ちゃったので。」

 向かいの席の家族連れのお母さんが女将に声を掛けた。

 女将は会計を持ってくると言うが、どうやら常連客のようで、1Fでトウコちゃんに会計してもらいますよと、お母さんが小学生らしき男の子を連れて1Fに降りていく。

 寝てしまった女の子はお父さんが抱っこされている。


 「サキさん、本当にきれいですよね。」

 「この写真の頃、僕はまだ小学校の6年生か中学に上がったばかりの頃で、トクナガの家にたまに行った時は、サキさんとおしゃべりしている時はずっとドキドキしていましたよ。」

 女の子を抱っこしながら、お嬢さんの写真を見て、お父さんも懐かしむように言う。

 どうやら彼も写真のお嬢さん=サキさんと関係があるようだ。


 私は気になって、割り行って聞いてみると、彼は、写真のお嬢さん=徳永早紀さんの従弟にあたるらしく、女将さんも徳永家とは遠縁の間柄なんだそう。

 彼も私がTファミリーデンタルクリニックで早紀さんの写真を見かけたことを女将さんに話していたのが聞こえていたのもあって、本来なら移転の際に、自分があの病院を継承する話も出ていたが、今の院長である小野寺医師の反対で継承どころか、あの歯科医院からも閉め出しを食らった、と酔った勢いか、怒りからか初対面の私に話してくれた。


 あの歯科医院が属する医療法人の理事長は、彼=徳永充さんのお父さんだそうで、最終的には充さんが理事長になればどうとでも出来るらしいが、亡くなった先代の院長の早紀さんのお父さん=紀光さんの意向で、教え子の小野寺医師に院長を続けさせることになったとのこと。その小野寺医師は内々で独立を図っているらしく、、、と、さらに充さんのボルテージが上がってしまい、女の子は起きてしまってグズリだしてしまった。


 よしよしと宥めながら、充さんも荷物を持って1Fに降りていくが、その前に「よかったら、ウチでも診ますよ。最近、そちらの会社の近くで開院したんで。」と名刺を渡してくれた。

 歯医者の数はコンビニより多いと聞くが、先生自らのこういった営業も生き残りには必要なのかもしれない。

 次に急に痛んだらその時はお願いしますね、と名刺を受け取り、女の子を抱っこしながら階段を降りていく充さんを見送った。


 ところで、と私もそろそろ出ようかと思っていたのだが、1Fでさっきの女の子が泣き出しているのが聞こえて、出づらくなっていたので、充さんの席を片付けている女将さんにまだ気になっていることを聞いてみた。


 「その、早紀さんは小野寺院長の奥様なのですか?」

 「え?そんなことはありませんよ!断じて違います!」

 女将さんがこちらを向いて答えてくれたのだが、その剣幕に私は驚いてしまった。


 「すみません、部外者が変なことを聞いてしまって。」

 私は謝罪し、残っている冷めたジャスミンティーを飲み干していると、女将さんが話してくれる。

 「その、、、確かに小野寺先生は早紀をかなり気に入っていたようです。

 一回りも年の違う早紀に何度もアタックして、その度に早希は断っていたんですが…

 紀光おじさんも小野寺先生と早紀をくっつけようとしだして、早希はそれに嫌気がさして、小学校の先生の仕事を辞めて、家を出てしまったんです。」

 

 女将さんはテーブルを拭きながら話を続ける。

 「聞けば、小野寺先生は紀光おじさんの恩師の息子さんだそうで、かなり苦労されて歯学部に入り、その関係で学生の頃から紀光おじさんには可愛がられていたそうです。」

 「それで、小野寺先生は早紀がまだ小さい頃から徳永の家に通うようになったんですが、早紀が中学生の頃になると“小野寺先生が気持ち悪い”と何度か愚痴られることがありました。」


 「気持ち悪い・・・ですか?」

 私は、一度しか会ったことは無いものの、先日の小野寺医師からはそういった印象は受けなかったので、と加えると、女将も中学生や高校生くらいの女子からすれば30近い男性から下心を感じてしまうと、気持ち悪いという感情になってしまうものです、と言う。

 確かに、10代の女子にとって、憧れの対象でもない30近い男性が自宅に来て、その度に声を掛けられれば、気持ち悪いと感じてもおかしくはない。

 

 「では、なぜ紀光さんは小野寺先生と早紀さんを結婚させようとしたんでしょうか?

 早紀さんが小野寺先生を嫌っていたことを知っていたかは別として、好意を持っていないことくらいは分かっていたでしょうに。」

 私は率直な疑問を女将にぶつけてみた。


 「紀光おじさんは早紀が小学校の先生になることに反対でした。

 いや、そもそも早紀が外に出て仕事をすること自体に反対していました。」

 「戦前の時代の話かよって思うかもしれませんが、早織おばさん…先のお母さんが早くに事故で亡くなられて、それからは“女性は早くに結婚して家に入るものだ”と、ずっと紀光おじさんは言っていました。」

 「早織おばさんも小学校の先生をしていて、ここと同じ港区の小学校で働いていたんですが、校外学習の時に車道に飛び出した生徒を助けようとして事故に遭って、亡くなられました。」

 女将も席に座って、残ったテーブルの水をグラスに注いで少し飲む。


 「素行の悪い子だったそうです…でも、小学生ですし、そういう子もいるでしょう…

 ただ、紀光おじさんはそんな子を助けたことで、早織おばさんを亡くしてしまって、早紀が同じ目に遭わない様にって、外に仕事に出ることにずっと反対をしていました。」

 その事故のせいで、憔悴しきった紀光さんの仕事を小野寺医師がサポートしてくれたことで、娘の早紀さんと小野寺医師を一緒にさせて、病院も継がせようとする気持ちが紀光さんの中でどんどんと強くなったそうだ。


 「それでも、早紀さんが家を出ていくほどのことって、何かあったのでしょうか?」

 女将の話を聞いていても、一人娘が父親を残してまで家を出るというにはなるだろうか?と疑問は残る。


 「小野寺先生が同居することになったんですよ!あの徳永の家に!」

 「え?それってもう、既成事実を無理矢理にでもってことですか?」

 そうなのよ!と女将がヒートアップする。


 徳永の家というのは、元々は地主の家だそうで、紀光さんの家が本家だそうだ。

 今は土地を大半手放したそうだが、その財でまだ港区を中心に幾つかのビルや土地があり、紀光さんの弟が不動産管理会社を任されており、この店のビルもTファミリーデンタルクリニックが入るあの土地も徳永の一族のものらしい。

 ただし、紀光さんは紀光さんのお母さん=早紀さんの祖母が歯科医であったため、母親と同じ仕事に就いたことで、一族の本業は弟さんに任せたそうだ。(さらにもう1人の弟が充さんのお父さんとのこと)

 そんな事情もあってか、小野寺医師は早紀さんも手に入れ、徳永一族の当主の座も手に入れようとしだしたことで、早紀さんは小野寺医師にも父親にも嫌気がさして、逃げ出すように家を出てしまったようだ。

 なお、この早紀さんの出奔騒動には、小野寺医師の反対派でもある女将の家や、充さんの家も陰ながら支援しており、そのお陰で紀光さんも容認せざるを得なかったとのことだ。


 「なるほど、では、早紀さんは今はどなたかとご結婚されて・・・」

 「いえ、早紀はもう亡くなりました。徳永の家を出て4年ほどした頃でした。」

 私が言い切る前に、女将が割り込んで答える。


 「私たちは、早紀をウチが持っている北区にあるマンションに匿うように住まわせました。」

 「早紀は近所で小学生向けの塾の先生を始め、また先生の仕事ができて嬉しいと喜んでいました。」

 「ただ、いきなりの1人暮らしな上に、世間知らずの箱入り娘だったこともあって、悪い人に引っかかってしまいました。」

 

 悪い人、同じマンションに住む元ホストの不動産営業の男と付き合い始めたとのことだった。

 最初は真面目に遅くまで働く顔の良い男で、元ホストなだけあって話上手だったこともあり、何度か会ったことのある女将も良い人に思えたそうだが、実際は多重債務を抱えた男で、不動産営業のスジから徳永の家のことを知って、早紀さんを手籠めにして妊娠させてしまい、徳永の家の財産を奪おうと考えるようなヤツだったそうだ。


 女将さんと充さんの家で、早紀さんを説得してその男とは別れさせ、その男の債務は女将さんたちで処理し、手切金まで渡して縁を切らせたのだが、早紀さんはお腹の子を堕ろすことは頑として受け入れず、その男の子供を産むことになった。


 「たしかにあの子には何も罪はありません。それに、小学校の先生でもあった早紀が子どもを堕ろすことなんて受け入れられないのは当然です。」

 「それで、早紀は充さん家の系列の産婦人科で出産し、S県にある空き家になっていた早織おばさんの生家に住むようになりました。」

 「もちろん、さすがに早紀の出産を紀光おじさんに知らせない訳にもいかず、近況を知らせたのですが、紀光おじさんも知らない男の間の子とはいえ、孫が出来たことで、早紀に徳永の家に戻って来て欲しいと話したようです。

 でも、やはり早紀は家に戻ることはありませんでした。」


 「結局、紀光おじさんの早紀を小野寺先生と結婚させようとする気に変わりはなかったんです。

 いや、それどころか余計に強くなったようでした。」

 どうも、小野寺医師が早紀さんの子供を自身の子として育てるつもりなので、何も心配無いと紀光さんを説得していたようで、小野寺医師も早紀さんのところに現れ、何度か口説いていたらしい。


 「お客さん、私はね、小野寺が早紀の人生を狂わせたって思っているんです。それは充くんも同じだと思ってます。」

 「小野寺が早紀が学生の頃から付き纏って、紀光おじさんに取り入って、早紀も徳永の家も全部、自分のものにしようとしたから、早紀はあれだけ綺麗な子なのに、若い頃からまともな恋愛もせず、果てはあんなチンピラみたいな借金男に騙されてしまったんですよ!」

 女将は顔を赤くし、捲し立てて吐き捨てるように言い放った。


 「お母さん、お客さん相手に何怒ってんのよ!?」

 もう1Fの他の客も帰ってしまったようで、階下にも女将の声が聞こえていたようで、トウコ(灯子)ちゃんが心配そうに階段のところから声を掛けてきた。

 「大丈夫よ、ちょっと昔話をしていただけ。」と灯子ちゃんに女将さんは答え、お茶を持って来てよと言うと、「そう言うと思った」と温かいジャスミンティーを私の分まで持って来てくれていた。


 「お客さん、お母さんがごめんなさい。

 その、、、早紀さんのことになると、たまにこうなることがあって…」

 灯子ちゃんがカップを替えてくれながら謝ってくる。

 いやいや、こちらが不躾なことを聞いてしまったからと、こちらも謝罪する。

 時刻は22:00になろうとしている。

 ただ、ここまで聞いてしまったら最後まで聞いて帰りたいし、女将さんも「良ければもう少しなので」と言うので、続きを聞くことになった。


 「初産でシングルマザーの早紀が働きに出るにはまだしんどいだろうって、紀光おじさんもお金の援助をすると言いましたが、早紀はやはり受け取りを渋りました。」

 「なんとか光熱費と水道代なんかのライフラインだけは紀光おじさんが契約して支払うことにして、早紀には徳永の会社の不動産関連の事務仕事を在宅でやってもらうことで、高次おじさん=紀光さんの弟で徳永一族の不動産管理会社の代表からお給料を貰うようにさせました。今で言うところのテレワークってやつですよ。」

 今から20数年ほど前のことだから、やっとISDNか光回線が出回った頃だろう。

 不動産事務がどれほどの書類を扱うのかは知らないが、確かにこの時代でもテレワークは可能だったようだ。


 「赤ちゃんを世話しながら、お昼過ぎまでパソコンで仕事をして、午後に散歩と買い物に出かける。

 ウチもこんな商売をしているから、遅くまで旦那は帰ってこないし、家で灯子と2人で過ごすだけでしたが、やっぱりシングルマザーというのはしんどかったようで、伊織ちゃん、あぁ、早紀の子のことです、伊織ちゃんがまだ1歳になる頃までは大変でした。」

 「2歳にもなるとピュンピュンと跳ねるように走り回るようになりますし、イヤイヤ期もやってくるのですが、やっぱり会話が出来るようになってくるでしょう。

 早紀も伊織ちゃんと並んで散歩するのが唯一の楽しみだって言って、私も何度か早紀と伊織ちゃんと3人でお散歩に行くこともありました。」

 まだ湯気の立つ温かいジャスミンティーをずずっと啜って、女将は話を続ける。


 「伊織ちゃんが3歳になったばかりの日です。

 この日は、伊織ちゃんの誕生日に私が熱を出してお誕生会を延期にしてしまって、そのリスケの日だったんですね。」

 「私は伊織ちゃんのお誕生日プレゼントの大きな犬のぬいぐるみを車に乗せて、早紀の家に向かっていました。

 そして、駅前の交差点を左折して、早紀の家のすぐ近くのところで、警察官が通行止めにしていたんです。」

 「迂回してくれって言うんですけど、迂回すると早紀の家には車では行けないので、すぐ近くのコインパーキングに車を停めて、ぬいぐるみを担ぐようにして歩いて行くことにしました。ほんの5分ほどの所ですしね。」


 女将がぬいぐるみを担いで、早紀さんの家まで歩いて行くところで、規制線が引かれていて、その向こうには横転した軽トラックと前面が大破した軽自動車があって、多くの警察官と消防、それと救急車が並んでいた。

 事故は、高齢者の運転する軽自動車の暴走により、軽トラックと接触、弾き飛ばされた軽トラックは歩道にいた3歳の男の子を轢き、暴走車が反対側の歩道にいた親子の7歳の男の子に接触しようとしたところで、女性がその子を突き飛ばして助けたものの、その女性は代わりに轢かれてしまい、暴走車は民家の壁に激突して停止した。

 

 3歳の男の子とその母親はほぼ即死の状況。

 軽トラックの運転手は意識不明の後、病院にて死亡。

 軽自動車の高齢者は両足切断の重体であったものの、一命を取り留め、もう一組の親子は軽傷で済んだ。

 3歳になったばかりの伊織ちゃんと早紀さんの死亡事故だった。

 奇しくも、女将は事故現場に残された早紀さんの手帳にあった電話帳から携帯電話に警察から連絡を受け、その場で狂ったように泣き崩れたそうだ。


 当時を思い出して、泣き出した女将を灯子ちゃんが宥め、私は旦那さんであるマスターに、女将に辛いことを思い出させたことを詫びて、店を出た。

 

 「アイツにはたまに吐き出させてあげないといけないんですが、どうにも家族じゃぁ、この話題にもう触れないようになってて、「もう少し私が早くに着いていたら」なんてね、未だにあんな風に言うことがあるんです。だから気にしないで下さい。」

 会計をしながらマスターは苦笑いして、こちらこそお詫びです、と焼き菓子を持たせてくれた。

 デザートセットに乗せるものの余りらしい。


 時刻はもう22:30を過ぎていた。

 急に冷え込んだ11月の初めの夜の風が、手に持った焼き菓子の入った紙袋をバサバサと揺らした。

 


 

 


 


 

 

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ