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 待ち合わせ場所にはファストフード店が選ばれた。川真田家に泊まるメンバー全員の自宅のほぼ中間地点にあるのが、その店だからだ。

 もっともメンバーというのは、川真田樹音、神宮寺玲奈、花岡、佐久間、高宮、渡会――以上六名を指し、一枝百合梨は数に入っていない。さらには、愛用の自転車は中学校の駐輪場に停めっぱなしにしてある。だから百合梨は、自宅からは遠いそのファストフード店まで、荷物でぱんぱんになったリュックサックを背負って歩かなければならなかった。

「なに、そのリュック。全然かわいくなーい」

 そのうえに笑われたのだから、百合梨としてはたまったものではない。白一色の無地。無難で面白味のないデザインなのは認めるが、嘲笑されるほどではないはずだ。樹音たちは、百合梨にまつわる一切合切を過小評価し、物笑いの種にする。その傾向は重々承知しているが、それでも癪に障った。

 百合梨は感情を殺し、愛想笑いにも似た苦笑で嘲笑をやり過ごした。今夜限りの命とも知らないで、未来の加害者のことを馬鹿にして、お前らのほうが馬鹿じゃん。そう思うことで、樹音たちが注ぎ込んできた毒はいとも容易く解毒できた。

 このかわいいかわいいリュックサックには、お前らを殺すための武器が詰まっているんだ。頼まれなくても使ってやるから、安心しきってクソまずいポテトでも食ってろ。ばーか。

 シェイクを飲み、フライドポテトをつまんでいるにもかかわらず、今日の夕食になにを食べるかについて意見を交わすなど、テーブルの空気は弛緩しきっている。あまりにも緩みすぎているせいで、百合梨宛の暴言が飛んでくるのが稀なほどだ。

 味わいに深みがない、酸っぱいだけのオレンジジュースを飲みながら、百合梨はひたすら六人の殺しかたを考える。

 川真田家の内部で、七人の交流はどのようなルートで流れていくのか。それが全く見えてこないのは懸念材料だが、彼女はそれすらも奮発材料へと変える。

 殺す。絶対に殺す。鏖にしてやる。

 どんなに弱気に駆られたとしても、最後にはその決意へと無理なく結びつけた。

 殺意は静かに漲り、滾り、噴出するその瞬間を待ち侘びている。百合梨は解放できるその時が待ち遠しくてならない。

「じゃあ、そろそろあたしの家に行こうぜー。一枝、ちゃんとごみ捨てとけよ」

 真っ先に樹音が立ち上がり、取り巻き五名を引き連れてぞろぞろと店を出ていく。

 ごみ箱との往復がなるべく少なくなるよう、ごみを一枚のトレイにまとめながら、食事代は全額わたしの奢りだったな、と思う。『お前は飲み物だけにしておけよ』と樹音が命じたので、みながシェアしていたフライドポテトは一本も食べられなかった。

 まあ、いい。百合梨はごみが満載されたトレイを手に席を立つ。借りは暴力で返してやる。店で奢った分も、今までさんざんわたしを虐待してきた分も、全部まとめて。


 町の西に小高い山がそびえている。特筆するほどの高さではないが、町内にその山ほど高いものは存在しないため、ひときわ存在感を放っている。

 その山の中腹に川真田家はある。道中、樹音はそう説明した。先頭を行くのはグループのリーダーたる彼女。その斜め後ろには、玲奈。会話のイニシアティブをとるわけでもないのに百合梨が中心に据えられ、残る四人が四囲を固めるという陣形だ。

 一行は山を縦断する本道を道なりに進み、やがて脇道に入った。木々を最小限切り倒して無理矢理に開通したような、細く、曲がりくねった、路面が舗装されているのが唯一の救いといった悪路だ。本道を歩いていたときはちらほらと見かけた民家は、姿を消した。樹音に配慮して婉曲な表現が選ばれたが、人が住むような場所ではない、という趣旨の感想を口にした者もいた。

 突如として開けた場所に出た。百合梨たちが通う中学校の敷地に匹敵しようかという面積の、白っぽい平坦な地面が広がる最奥に、風情ある佇まいの日本家屋が建っている。屋敷と表現したほうがしっくりくる大きさであり、外観だ。

「一枝は来るのが初めてだよね。あれがあたしの家。パパもママももう出かけたから、騒ぎたい放題だよ。さあ、入ろう」

 案内された二階の樹音の自室は、和風の外観とは打って変わって洋間で、ピンクの主張が強い。少女趣味をあからさまに示すものは置かれていないが、全体としては少女らしさが感じられる内装。七人が入り、荷物を下ろしてもまだ数人は座れる余地がある広さだ。

 樹音は佐久間に「人数分のジュースを淹れて、お菓子も持ってきて」と命じ、みなと談笑をはじめた。リラックスした様子の六人が交わす会話の内容は、百合梨を掠めてすらいない。普通の女子中学生らしい無邪気な笑顔を見せながらの、普通の女子中学生らしい他愛もない会話。百合梨は輪から少し外れた場所に正座し、無意味だとしか思えないやりとりを聞き流す。

 佐久間が戻ってきた。六人分の飲み物と、大量のお菓子をのせたトレイを手にしていて、こぼすまいと指先に力がこもっている。

 佐久間は百合梨の背後を通るさいに、背中を蹴った。その拍子にグラスの一個からジュースが少しこぼれ、加害者の目が泳いだのを百合梨は見た。

 馬鹿だろ、こいつ。

 百合梨は蹴られたことで少し崩れた姿勢を正しながら、心の中で吐き捨てる。

 わたしはこの家に来るのは初めてだから、キッチンの場所はわからない。川真田は説明するが面倒くさかったから、勝手知ったるあんたに任せたんだろうに。

 そんな簡単なこともわからずに八つ当たりって、こいつ、馬鹿だ。馬鹿なやつの仲間は馬鹿だし、そのリーダーもやっぱり馬鹿。

 まとめて殺してしまおう。馬鹿なんだから殺してもいいよね、別に。

 樹音たちが飲食しながら無駄話をしているあいだ、百合梨は鏖計画を磨き上げようと考えていたのだが、

「いけない、忘れるところだった。おい、一枝」

 唐突に樹音が百合梨のほうを向き、こう命じた。

「一階の廊下の雑巾がけ、やっておいて。玄関の近くに『用具入れ』ってプレートが貼ってあるドア、あったでしょ。あそこは物置部屋で、道具はその中にあるから、適当に掃除しといて」

「わたしがしてもいいの?」

「ばーか。そのためにお前を連れてきたんだよ。廊下の掃除はあたしの担当なんだけど、範囲が広いし、かったるくてやってられないだろ。ちょうどいいから一枝にやらせようと思ってさ」

 取り巻きの何人かが笑った。仲がいいわけでもない人間を同行させるのは変だと思っていたけど、そういう事情があったのね、ご愁傷さま――そんな笑いだ。中でも佐久間は痛快だったようで、笑いすぎてむせていた。

「命令に逆らう気なら、六人がかりでお前を殺すつもりでいるんだけど、返事は?」

「わかった。してくるよ、廊下の掃除」

 樹音は満足そうに大きくうなずき、話の輪に復帰した。百合梨は暗い表情で部屋を出る。

 後ろ手にドアを閉めたとたん、その顔は狂気の微笑に歪む。

 さあ、鏖計画の下準備だ。


 掃除道具は物置部屋に揃っていた。それを手に、一階の各地を見て回る。清掃が必要なほど汚れているようには見えなかったが、入念なチェックが行われる事態も想定し、雑巾で床を拭きながらの行動となる。

 調査の結果、居間・台所・食堂がひと続きになった空間が中央に据えられ、取り囲むように設けられた廊下から各部屋に行けるようになっている、という間取りだとわかった。ドアに鍵がかかっている部屋、ドアあるいは襖は閉まっているが施錠されていない部屋、ドアや襖が開きっぱなしになった部屋と、様々ある。

 百合梨が注目したのは、東向きの十畳ほどの畳敷きの和室。床の間が設けられた、時間帯によっては幽霊でも出てきそうな一室だ。樹音の自室は、個人の私室にしては広かったが、七人分の寝床を設けるには狭い。押し入れを開いてみると、複数の布団が収納されていて、ぴったり七セットあった。

 百合梨はほくそ笑み、物置部屋に引き返す。


 夕食には宅配ピザが選ばれた。

 トッピングはどうするか。生地やソースはなにを選ぶか。サイドメニューについて。

 十分も二十分も迷い、迷うことにはしゃいでいる樹音たちを、百合梨は輪から少し外れた場所から冷ややかにせせら笑う。細かい部分まであれこれ指定して出来上がった料理が最後の晩餐になるのだと思うと、笑声を口内に抑え留めるのに苦労した。

 百合梨が食べるピザはひと切れに制限された。その程度の嫌がらせ、今さら苦痛でもなんでもない。早く、早く、就寝時間になればいいのに。

「王様ゲームでもやる? ていうか、やろうよ」 

 食後、だらだらと談笑に耽っている中、玲奈が唐突にそう提案した。メンバーから異論は出ず、樹音の「いいんじゃない? やろうやろう」の鶴の一声がゴーサインを出した。階下から割り箸を持ってくる役割は佐久間に任された。

「それでは、今からゲームを始めまーす。題して、一枝百合梨虐待王様ゲーム!」

 樹音の高らかな宣言に、取り巻き五人は惜しみない拍手を送った。樹音は割り箸の一本の下端に「☆」を、もう一本には「〇」をペンで書き込み、一同に見せびらかす。

「ルールは、普通の王様ゲームを少しアレンジしたものって思ってくれればいいよ。☆マークを引き当てた人が王様で、他の参加者に自由に命令できる。ただし命令は必ず、誰かが一枝になにかをする、という形式でなければならない。一枝になにかをする誰かは、〇印を引いた人。役職名は奴隷――いや、召使いかな。奴隷は一枝だから。どう? 面白そうでしょ?」

 樹音は歯茎を剥き出しにする。白い歯よりも、肉色の歯茎よりも、ぎらついた双眸が印象的な嗜虐的な微笑。本当は自分がずっと王様役を務めて、一枝百合梨を虐げる役の人間だけをくじ引きで選びたいんだけどね。そう思っている顔だ。

 百合梨は樹音の手に握られた割り箸の数を数えた。六本。なるほどな、と思う。やっぱりな、と。

 第一回の抽選が行われた。いきなり樹音が王様を引き当てたので、他の五人は歓声を上げた。本人のリアクションを見た限り、不正ではなく本当に偶然らしい。実行役に選ばれたのは、高宮。男子並みに大柄な彼女は、樹音と並んで立つと、友人同士というよりもボディーガードのように見える。

「じゃあ高宮、一枝に腹パンして。思いきりね、思いきり」

 王様ははしゃいだように命じ、召使いは邪悪に口角を歪める。百合梨は他の四人の囃し立てる声に促されて腰を上げる。奴隷に相対した高宮は、奴隷ではなく樹音のことを見ている。

『樹音さま、見ていてください。私、今からこいつを思いきり殴るんで。もし殴りっぷりがお気に召しましたら、今後はなにとぞ御贔屓に』

 百合梨はそんなセリフを脳内でアテレコした。

 高宮が顔を百合梨に向け、腰を少し落として右腕を引いた。放たれた右拳は、腹部にものの見事に直撃した。凄まじい衝撃と、半拍遅れて到来した痛みに、患部を両手で押さえて蹲る。観衆ははしゃいだような声を上げた。

 顔を上げると、高宮は勝ち誇ったように右手を突き上げて歯を見せている。その視線が樹音に注がれているのを見て、馬鹿が、と心の中で吐き捨てた。唾もいっしょに吐き捨てたい気分だった。

 二回目のくじ引きで、高宮は召使いから王様に昇格した。二代目召使いに選ばれたのは花岡で、高宮の「どこでもいいから蹴って」という命令を嬉々として実行した。花岡は高宮ほど力が強くないため、百合梨は少し体をぐらつかせただけだ。見物人一同の拍手に気をよくしたらしく、花岡は命令なしでもう一発蹴った。威力は一回目と大差なかったが、不意を打たれた百合梨は床にうずくまった。また拍手が鳴った。

 三回目以降はテンポよく進んだ。くじが引かれるごとに指示を下す人間と実行する人間が変わり、指示の内容も変わり、百合梨が屈辱的で痛みを伴う被害に遭う。その反復だった。最初は物理的に痛めつけるだけだったが、玲奈が「音楽に合わせて踊れ」と命じたのを機に、精神的な屈辱感を与えることに主眼が置かれた命令も出されるようになった。

 運悪く、二回目の☆をなかなか引き当てられない樹音は、やがてルールを無視して、誰かに直接なんらかの行為を命じるようになった。グループの絶対的なリーダーは、一言の異論なく特別扱いを許可された。他の五人もリーダーに倣い、機会を見ては自らもルールを違反した。

 かくして、くじ引き制度は形骸化した。指示の内容、百合梨が受ける被害は次第にエスカレートしていく。

「裸になって土下座しろ。『生まれてきてすみません』って謝れ。ほら、早く」

 樹音がわけもなく苛立ったようにそう命じたときは、「さすがにそれはまずいんじゃないの?」という空気が漂った。樹音は立場上、無理矢理命令を押し通すこともできた。しかし今回は、仲間たちの意気地のなさを嘲るような冷笑に口元を歪め、「じゃあ下着姿でいいよ」と、尊大な寛大さを見せつけることを選んだ。

 百合梨は即座に命令に従った。わざとゆっくりとした動作でボタンを外す時間稼ぎはしなかったし、「生まれてきてすみません」のセリフははきはきと述べた。樹音としては最大級の屈辱を与えたつもりらしいが、百合梨にとっては単なる屈辱的な行為の一つという認識でしかなかった。ただし、樹音がとっておきの一手のつもりで命じたのは察したので、声を震わせる小細工はした。

 フローリングの床に額を接した百合梨は、王様ゲームの閉幕が近づいているのを感じていた。少し前から、指示の内容はマンネリ化していたし、樹音は最高だと自負する一手をすでに打っている。

 あとは下着姿のまま二つ三つなにかやって、お開きかな。

 そう考えながら顔を上げて、思いがけない光景を目にした。玲奈がしかつめらしい顔で、百合梨の顔を食い入るように見つめているのだ。

「ねえみんな、おかしくない?」

 シリアスな響きの独言めいた玲奈の呟きに、樹音は口にしかけていた言葉を呑み込み、発言者の顔を見た。他の四人もリーダーに倣った。おかしいって、なにが? 全然わかんないんだけど。五つの顔はそう言いたげだ。

 わからないのは百合梨も同じだ。不安だとか、怖いだとか、戸惑うとかではなく、ひとえに答えを知りたい気持ちから、玲奈の顔を凝視する。回答はこうだった。

「こんなにも痛めつけてるのに、一枝、全然ダメージ受けてなくない? 痛がっているし嫌がっているんだけど、どこか演技くさいっていうのかな。心の芯は傷ついていないっていうか。とにかく、なにか変。おかしいよ、この女」

「なにそれ。もう少しわかりやすく言ってよ」

 樹音のもどかしげな苦言に、玲奈は真剣な表情を崩さずに答える。

「なにか企んでいるんじゃない? 必死に耐えて、一方的に被害を受けているふりをして、腹の中ではなにかよからぬことを企んでいる気がする。たとえば、私たちへの復讐とか」

 一同の視線がいっせいに百合梨へと注がれた。

 百合梨は肩が跳ねそうになるのをかろうじて抑え込んだが、内心では動揺していた。図星をつかれたからだ。

 厳然たる事実として、百合梨は樹音たちへの復讐を計画している。目的を叶えるために、今はとにかく耐えよう。そんな決意で心を埋め尽くして、屈辱的で痛くて苦しい時間を凌ぐことに注力してきた。

 それが、露見した。

 神宮寺玲奈に見透かされた。

「たしかに怪しいな。……そういえば、あたしの家に泊まれと命じたときも、やけにあっさりと了解したよな、一枝は。それって、もしかして、あたしたちに復讐する絶好の機会ができたからってこと? うっわ、マジかよ」

 樹音はしゃべればしゃべるほど、玲奈の指摘が正しいという確信を深めているらしく、顔つきが次第に険しくなる。それは取り巻きたちも同じらしく、似たような表情の変化が観測できる。

 気がつけば、百合梨たちを見据える六つの顔はみな、親の敵を睨むかのように険しい。

「一枝を野放しにしておくのは危険だな。なんていうか、まずいことになりそうな気がする。いや、絶対にまずいことになる」

 樹音はきっぱりと断言した。そして一同の顔を素早く見回し、命じた。

「縛れ。身動きをとれなくして、どこかの部屋に監禁しておこう。さあ、早く!」

 命じられた取り巻きたちは、戸惑ったように互いに顔を見合わせる。それを見た樹音が「早く!」と語気を荒らげると、先陣を切って大柄な高宮が歩み寄ってきた。百合梨が逃げようと立ち上がると、ダッシュして詰め寄ってきた。それを合図に他の者も続く。

 呆気なく高宮に腕を掴まれた。振りほどこうとしたが、逆に腕を捩じり上げられた。痛みに顔が歪んだ。

 他の手が次々と百合梨に触れる。掴まれる。多勢に無勢、力任せに床に押しつけられる。上から体重をかけられ、身動きがとれない。大勢は決したが、抵抗の芽を完全に摘もうという意図か、感情が暴走した結果なのか、顔を殴りつけてくる者もいる。

 頭の中は熱かったが、樹音と玲奈の話し声は不思議と鮮明に聞きとれた。荷造り用の紐を持ってきた、と玲奈が言っている。百合梨と取り巻きたちが揉み合っているあいだ、玲奈一人が別行動をとったらしい。

 取り巻きたちは時間をかけて百合梨を縛り上げた。後ろ手に縛ったうえで足首も縛るという徹底ぶり。縛る強さ自体も、体に紐が食い込んで痛みを覚えるほどと、慈悲のかけらもない。

「みんな、こいつを下の物置部屋に連れて行って。外から鍵はかけられないけど、縛ってあるなら平気でしょ」

 樹音から指示が下り、縛られた百合梨は移動させられる。大きくて重たいものを運ぶときのように、体を水平にされ、高宮たちに四隅を持たれて階段を下りる、という形での移動。

 百合梨は抵抗しない。下手に暴れて落下すれば、最悪命まで失いかねないと思ったからだ。

 掃除道具をとりに来たときよりも、物置部屋は心なしか埃っぽく感じた。部屋の奥の隅に下ろされ、無機質なドアが無情にも閉ざされる。薄いドアを透過して、四人の話し声が遠ざかる。

「リュックサックの中身を探らないとね。持ち物をチェックしないと。もしかすると、一枝がなにを企んでいるかがわかるかもしれない」


 二日連続、トモノリは小屋に不在だった。

 小屋の中を覗いてみたが、木台に置かれた工具のラインナップ、そして二畳のスペースに置かれた雑多な物品の位置が、昨日と全く同じだと気がつき、隼人は氷の世界に囚われたような気持ちになった。

 丸一日以上、トモノリは帰宅していない。

 泊りがけの旅行に出かけたとは思えなかった。ひたすら小屋にこもり、たまに外に出て工作をする。これまでに聞いた噂の中で、トモノリの生態はそう語られてきた。事実、隼人はこれまで一度も、小屋から離れた場所でトモノリを見かけたことはない。見かけたという話を聞いたこともない。食料品や日用品などを買うために外出はしているのだろうが、頻繁に家を空けたり、小屋ではない場所に長時間滞在したりするイメージは、はっきり言ってない。

「……まさか」

 トモノリの身になにか起きた? なんらかのトラブルに巻き込まれ、小屋に帰ってこられない?

 そんな疑念を追いかけるように、川真田樹音の顔が脳内に浮かんだ。

 川真田たちがトモノリになにかした?

 まさか。あいつらはゆりりんを虐げるためにトモノリを利用しただけで、トモノリにはなんの恨みもないはずだ。トモノリの性格を考えれば、あいつのほうから川真田たちに接触したとも考えにくい。

 だとすれば、他に考えられる可能性は――。

「……ゆりりんか?」

 ゆりりんとトモノリは仲睦まじい。唇と唇が重なるキスをしたのが、そのなによりの証拠だ。こっそり会ってセックスをしているのでは、と疑ったことが一度あったが、その推測が正しかったのか? 二人は今ごろ、どこかの宿泊施設に泊まって、誰にも邪魔をされない環境で愛を交わし合っている?

 隼人は握り拳を木台の天板に叩きつけた。自動車事故でも起きたかのような鈍い音が立ち、並べられている工具の位置が微動した。

 証拠はない。思考がいささか短絡的で、的の真ん中を外している気がする。一方で、その予測が真実であってほしくないからそう思おうとしているだけなのかもしれない、とも思う。

 真相を確かめたい、という猛烈な欲求が込み上げる。明日も真夜中に小屋まで行き、トモノリが不在の事実を見せつけられたら、精神がどうにかなってしまいそうだ。そうなる前に、手を打とう。行動するんだ。ゆりりんのもとに駆けつけて、彼女を救い出そう。救い出さなければ。

 隼人は百合梨の連絡先を知らない。トモノリの連絡先は言わずもがなだ。百合梨の連絡先を知っていそうな人間で、隼人が連絡先を把握しているのは神宮寺玲奈のみ。今でこそ疎遠で、メールの一通すらもやりとりしていないが、小学生まではそれなりに親かったから電話番号とメールアドレスは知っている。番号とアドレスを変更していないなら、コンタクトがとれる。

 さっそく電話をかけた。コール音が続くあいだの緊張感は尋常ではなかった。応答はない。出ないだけか、出られないのか。通話を断念し、今度はメールを送る。

『いきなりだけど、クラスメイトの一枝さんのことで質問がいくつかある。できれば今すぐ答えてほしいんだけど、訊いてもいい?』

 返信は三分後に届いた。

『森嶋、なに急に電話なんかかけてきてるの。メールもだけど。今ね、友だちみんなで樹音の家に泊まりに来てるところだから、忙しくて質問に答える暇ない。一応一枝もいっしょに来てるから、訊こうと思えば訊けるけど、そもそも私にあんたの要求を呑まなきゃいけない義務なんてないから。月曜日に登校したときにでも本人に訊けば?』

 嫌な予感がした。二夜連続でトモノリが不在だと知った瞬間を凌駕する、途轍もなく嫌な予感。

 百合梨がいじめ加害者と同じ家に泊まっている? 正気の沙汰とは思えない。何事もなく済むとは思えない。すでになにかが起きている可能性だってある。だからこそ玲奈は、「私にあんたの要求を呑まなきゃいけない義務なんてない」と突き放したのだろうか?

 ただ、百合梨が現在樹音たちといっしょにいること、川真田家にいること、二つの情報を得られたのは大収穫だ。

 トモノリと行動をともにしていない事実が明らかになったが、不安はむしろ高まった感がある。なにせ、いっしょにいるのは樹音たち。百合梨に危害を加えるのを厭わないという意味では、トモノリよりもはるかに危険な相手だ。

 敵がトモノリから樹音たちへと変わったが、大まかな方針に変わりはない。

 行動しよう。駆けつけよう。そして、助けよう。愛する人を。一枝百合梨を。

 隼人が玲奈と疎遠になったきっかけは、彼女が暴君である樹音と付き合い出したことだ。しかしその初期、玲奈と樹音が次第に仲を深めていた時期には、直接、またはメールや電話などの手段で、樹音にまつわる情報が断片的にではあるが隼人に伝えられることがあった。その中の一つが樹音の住所で、町の西にそびえる山の中腹にある、という話を彼は聞いたことがある。かなり大きな家だ、ということも。

 山の場所はわかる。そう大きな山ではない。川真田家を自力で探し当てられるかもしれない。

 隼人は照明を消して小屋を飛び出し、脇目も振らずに夜道を走りはじめた。


 まず話の内容が、次いで足音が、最後に声が観測できなくなった。手足を縛られ、冷たい床に体の左側を密着させた百合梨は、大きく息を吐く。

「……助かった」

 四肢が封じられていて動きにくかったが、イモムシのように体を伸縮させて床を這う。電気ポットの箱と、何鉢か重ねられたプラスチック製の植木鉢のあいだに置かれている、桜色のナップザックにたどり着いた。歯で咥え、上半身の力だけを使ってできるだけ手の近くに放る。苦労しながら体の位置を動かしていくうちに、とうとう指が袋に触れた。口を開け、中からナイフを取り出す。そこから刃を紐に当てるまでにも時間がかかったし、ナイフを動かすだけでもひと苦労だったが、やがて両手首を縛る紐の切断に成功した。両手が自由になってしまえば、足首の束縛をほどくのはあっという間だ。立ち上がってほんの軽くストレッチし、ポジティブなニュアンスのため息を吐く。

 ナップザックの中には、着替えと、トモノリから借りた凶器一式が入っている。廊下の掃除をこなしながら偵察し、一階の和室が寝室として使用されると推断したあとで、樹音の自室からこの場所へと移動させたのだ。同じ階にあったほうが、犯行に移るさいになにかと便利だと考えての処置だったのだが、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。

 現在樹音たちが探っているだろう百合梨の白いリュックサックの中に、見られて困るようなものは入っていない。パジャマや着替えの服や下着を見た彼女たちは、「かわいくない」「センスがない」「ださい」と小馬鹿にするだろうが、それだけだ。

 百合梨の身動きを封じ、危険物を持参していないのを確認したことで、樹音たちは安心しきっただろう。百合梨が不在の中、真の意味で仲のいい者同士で談笑し、入浴し、一階の和室に敷いた布団の上で話の続きをして、日付が変わればやがて眠りに就く。

 そうすれば、百合梨が動き出す時だ。


 一階に人が下りてきたときは肝が冷えた。体育座りから床に横たわる姿勢へと、急ぎがちに移行したさいに、脚が棚に当たって物音が立った。そう大きな音量ではなかったが、冷たいような熱いような汗が噴き出した。

 息を殺して動向をうかがう。足音は物置部屋とは正反対、風呂場の方角へと遠のいた。

 百合梨は念のため、手首に形だけ紐を巻いて両手を背中に回し、横になる姿勢で待機することにした。

 一人目が出て行くと、入れ替わりで新たな一人が風呂場へと消える。学校ではトイレに行くときでさえも行動をともにするというのに、入浴は一人ずつらしい。

 誰かの入浴中も、他の誰かが様子を見に来る可能性はゼロではない。気が抜けない時間が続いたが、何事もなく六人全員が入浴を終えた。

 警戒を維持しつつなおも待ちつづけていると、やがて音声を聞きとった。複数の声と、階段を下りる足音。百合梨の様子を見に来たのかとも思ったが、就寝するためだったらしく、裸足が床板を踏む音と気配が遠ざかっていく。向かったのは、床の間がある和室の方角。

 あと少し。あともう少しで、わたしはあいつらを――。

 百合梨はひたすら待った。少なくとも一時間は経ち、二時間が近づき、そろそろ日付が変わるころだろうか。固い床の上に長時間同じ姿勢でいるのは苦痛だが、あと少しの辛抱だ、と自らに言い聞かせる。

 さらに半時間ほどが経っただろうか。

 複数人の笑い声が重なったときは、百合梨にもかろうじて聞こえていたが、それすらも途絶えてもう随分経つ。家族が不在という状況、周囲には民家の一軒もないという環境、さらには樹音たちの性格を考え合わせれば、遅い時間帯なのを理由に話し声を抑えたとは考えにくい。疲れや眠気から話し声の音量が低下しているのだとすれば、すでに日付は変わっているのだから、談笑に固執せずに就寝したはず。

 時は満ちた。

 百合梨は静かに体を起こし、立ち上がる。まずはナップザックからすみれ色のワンピースを取り出し、身に着ける。右手に荷造り紐を切るのに使ったナイフ、左手にナップザックから取り出した金属製のハンマーを握りしめ、物置部屋から出る。

 閉じ込められる前よりも暗さと静けさが増している。その場に佇んで全神経を研ぎ澄ませる。人が活動する気配は感じられない。物置部屋にいるあいだに目はすっかり闇に慣れたので、移動に支障はない。

 和室の襖は閉ざされていた。隙間から明かりは漏れていない。間近まで来ても、物音も気配も感じられない。

 和室の前を素通りし、トイレに入る。明かりは点けない。ドアのロックはかけない。ドアに貼りつく。入ってきた者の頭部にハンマーを打ち下ろすイメージ。右手に凶器を握りしめ、振るってみる。一つうなずき、ハンマーを握る力はそのままに両腕を垂らす。深く長く息を吐く。

 就寝直前に小用を足した者も多いだろうから、次なる利用者の来訪までには間が空くかもしれない。だからといって、油断から攻撃が遅れる、あるいは正確性を欠いた攻撃になり、殺し損ねれば面倒だ。体力と腕力に自信がない百合梨は、不意打ちの一撃をいかに効果的にくり出せるかが重要になる。そうはいっても、いつ始まるかわからない惨劇の開幕まで、緊張感と攻撃態勢を維持しろというのは無謀な要請だ。

 置かれている状況の難しさ、求められている心構えの難しさを、いざ本番を迎えて、百合梨はひしひしと実感する。緊張感は、物置部屋で紐を切ろうと悪戦苦闘していたときを上回っている。

 待ち受けている未来は、大願の成就か。

 それとも、惨めな破滅か。

 ――鏖にしてやる。

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