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特別強く打っているわけではないのに、鼓動の音がやけにくっきりと聞こえることがある。
「今週末、うちの両親が海外旅行に行って家を空けるから、みんなで遊びに来てよ。もちろん泊まりで」
休み時間、樹音がいつものメンバーの顔を見回しながらそう告げたとき、百合梨はまさにその現象を体験した。
「一枝、あんたも参加。強制ね。どうせ友だちがいなくて暇なんだから、付き合ってよね」
樹音は彼女らしく一方的に命じた。百合梨がうなずくと、さっさと仲間との会話に戻った。今週日曜日の予定はどうかと、一人一人順番に訊いて回っている。たまたま予定が空いていたのか、実質的に強制なので無理矢理空けることにしたのか、みな判で押したように「暇だ」と答えている。
グループのメンバー全員の参加が確定すると、一同はそれについての話で盛り上がった。一人置き去りにされた格好の百合梨は、いつ話を振られてもいいように最低限話の筋を耳で追う。それに並行して、こう考えた。
樹音の両親が不在になる夜が来る。川真田家はたしか、樹音と両親の三人家族だったはず。すなわち、当日、川真田家にいるのはグループの女子たちとわたしだけ。
樹音たちを鏖にする絶好のチャンスだ。
あまりにも突然の幸運に、動揺を隠せない。その意味で、樹音たちが仲間内だけで盛り上がってくれたのは幸いだった。
ただ、真の意味で仲睦まじい者同士だけで楽しい時間を過ごしたいなら、百合梨を誘う必要はないわけであって。
「誰の邪魔も入らない環境だから、やりたい放題できるよ。正真正銘のやりたい放題」
「どうやって虐待する? 道具なんかも揃ってるし、いろいろできそうだよね」
「そのときの気分、っていうのも味気ないしな。ゲーム感覚でやったら面白そうだけど」
「そうだね。順位を競い合うとか」
一同の話題はいつの間にか、百合梨をいかに虐げるかに移行している。申し訳程度に抑制した声と、頻繁に投げかけられる上目遣いの一瞥が、いかにもわざとらしい。
どうせわたしのことを小馬鹿にしているんだろうけど、真の愚か者はお前らだよ、川真田とその金魚の糞ども。今までさんざんいじめてきた弱い人間の手で鏖にされるとも知らないで。あと二日の命だとも知らないで。せいぜい粋がってろ、馬鹿どもが。
心の中でこれ以上罵言を吐くと、笑みが表出しそうな気がして、百合梨は頭の中を意識的に空にした。
「ありゃりゃ」
どこか芝居がかった間の抜けた声を発して、靖彦は上方を仰いだ。釣られて百合梨も同じ方向を見た。
三人の視線の先には、光を放つのをやめたLED電球がある。数日前から明滅するようになり、昨日今日は目障りなくらい目まぐるしく明と暗を切り替えていた光源が、とうとう息を引きとったのだ。
あーあ。
百合梨は心の中で吐き捨て、視線を自らの手元に戻した。さらには小さくため息つく。真上からの明かりがなくなったせいで、鮭の塩焼きから小骨をどかす作業は難しくなりそうだ。
仕方なしに箸を置き、冷たいほうじ茶をグラスから飲みながら、さあ親はどう出るかな、と思う。今日のところは暗い中で夕食を済ませるのか。どちらかが急いで店まで替えの電球を買いに行くのか。
「母さん、電球が切れたぞ」
靖彦が呼びかけた。麻子は音を立てずに味噌汁をすすっている。家族水入らずで食事をとっている最中にはある意味ふさわしくない、どこか澄ました顔。夫を一瞥すらしない。
お母さんらしい態度だな、と百合梨は思う。無関心、諦め、怠惰。救いようがない、とも思う。この人は、わたしがいじめのことを話しても絶対に力にはなってくれない。試してみるまでもなくわかる。
さて、お父さんはどう出る?
靖彦は小さくため息をついて椅子から腰を上げた。彼が選んだのは、第三の道。リビングにキッチンという、ダイニングの両隣に当たる部屋の照明の明るさを最大にする、という対応だった。
キッチンから戻ってきた靖彦は、娘に向かって誇らしげな表情をしてみせた。
それを見た瞬間、この人はだめだ、と百合梨は心の底から思った。
たしかに食事に支障がない程度には明るくなったが、功績はそれだけ。所詮は、己の怠惰さを誤魔化すための小細工に過ぎない。今後電球は交換されることなく、ダイニングの暗さはそのような方法で誤魔化されつづけるのかと思うと、リビングとキッチンの明かりまで消えてしまったかのようだ。
この人たちは頼りにならない、と百合梨は結論づける。
やはり、自力で樹音たちをどうにかするしかないらしい。
やたら多い小骨を根気強く除去しながら、最後のひと押しをしてくれた両親に百合梨は感謝する。
氷のように冷ややかで、今現在のダイニングのようにほの暗い、陰惨な感謝ではあったのだが。
必ずしも真夜中に会いに行く必要はないと気がついたとき、百合梨が住む町はすでに真夜中だった。
人気のない寂しい道は、夜が深まるといっそう不気味さを増す。それ一色に染まるといっても過言ではない。
もっとも、百合梨は全く恐怖を感じていない。ところどころアスファルトが剥がれている箇所があり、足をとられないように気をつけなければならないのが少々煩わしいが、それだけだ。
明るければ、小屋が石ころの大きさで見える距離まで来たとき、百合梨は物音を聞いた。乾燥性の規則的な音で、時折十秒ほどのインターバルが挿入され、何事もなかったかのように同じ調子で響きはじめる。
夜の世界を歩き出して初めて、恐怖に属する感情を明確に覚えた。ただ、安全な道だという認識は健在だし、好奇心もある。だから、歩調を落としながらも歩みは止めない。
ほどなく、音源が小屋の近くだと判明し、彼が作業をしているのだと悟る。こんな遅い時間帯にもかかわらず工作に励んでいるのだろうか。
「トモノリ」
いくらか抑制した声で、道と敷地の境目から呼びかけると、作業音が止まった。暗闇の中で、闇とはまた違った黒さのなにかが動いた。その動きかただけで、影の正体がトモノリだと百合梨にはわかった。
肩の強張りがきれいに抜け落ちた。居ても立っても居られなくなって小走りに駆け寄る。
「危ないよ。下に気をつけて」
トモノリが一歩前に出たかと思うと、進路をふさぐように右腕を真横に広げた。彼の足元に目を凝らして、見えていなかったものが見えた。
「――穴だ。トモノリ、穴を掘っていたの? こんな夜中に?」
うん、と答えて、右手でなにかを掴む。さくり、という音がして、シャベルの刃が大地に突き刺さったのだと理解する。
「ちょうど掘り終わったところだよ。これで完成だ。君こそ、どうしてこんな遅い時間にここに?」
「わたしをいじめているクラスメイトを鏖にするって決めたから。トモノリに工具を貸してもらおうと思って、来たの」
目はまだ暗さにはほとんど適応できていないが、トモノリが表情を引き締めたのがわかった。
闇に浮かぶトモノリの顔を見つめながら、経緯を説明する。樹音の両親が旅行で家を空ける日に、グループの女子たち全員で川真田家に泊まることが決まったから、その機会に乗じて鏖を決行する。そうとだけ伝えれば済む話なのに、結論までジグザグに進むような話しかたをしてしまった。
「なるほど、事情はわかったよ。前にも言ったように、使えそうな工具は台の上に揃えてあるから、どうぞ持っていって。今日でもいいし、犯行当日に改めて取りに来てもいいいし」
「ありがとう。……ところで、その穴はなにに使うの? 随分大きくて深い穴のようだけど」
気になる? と尋ねるような顔つきをトモノリはしてみせた。うなずくと、彼は穴、百合梨の順番に見つめ、闇の中に歯の白色を浮かび上がらせた。
「墓穴だよ。僕のための墓穴。僕はね、一枝さん、君に僕を殺してほしいんだ。そして、僕が掘った穴に埋めてもらいたい」
突然の要請に、言葉が出てこない。
トモノリは自殺願望を抱えている。彼と過ごす時間がもたらしてくれる幸福のせいで忘れがちではあったが、失念したわけではない。しかし、まさか、「自殺の手伝いをしてほしい」と頼まれるとは思わなかった。
トモノリは孤独な人だから、一人でひっそりと死ぬ。それこそが彼の定義する自殺だと思い込んでいた。
トモノリが内に秘めていた、暴力と狂気を愛する心。
その正体が、こんな形で明らかにされるなんて。
「一枝さん、戸惑っているね」
「……うん。正直言って、かなり。どうして今日決行しようと思ったの?」
「貯えが尽きたら自殺すると話したと思うけど、実はもう残り少なくてね。節約すればニ・三か月は猶予があるけど、一枝さんが言うところの永遠の象徴である砂時計も壊れたことだし、そろそろ頃合いかと思って。今日必ずしも自殺する必要はないけど、僕は今日自殺したい気分だから、自殺する。そんなところかな」
「でも、一人で死のうと思えば死ねるよね。わざわざ人の手を借りることにしたのは、どうして?」
「人生の最後に、誰かに思いきり迷惑をかけたかったんだ。ひきこもり時代は両親に迷惑をかけてきたけど、あの人たちはもう亡くなってしまった。それに、これは屁理屈だと自分でもわかっているんだけど、自立するまで子どもの面倒を見るのは親の義務だろう。だから、人生最後の純然たるわがままとして、君に殺してほしくて」
「どうして、わたしなの?」
「決まっているじゃないか。君しか頼める人がいないからだよ」
「言葉どおりの意味? それとも、わたしだからこそ殺してほしいということ?」
「後者だよ。僕は、一枝さんだからこそ殺してほしいと思っている。こんな僕なんかと友だちになってくれた。それに、いじめっ子を鏖にすると決意し、実行しようとしている。そんな君だからこそ、迷惑をかける相手としてふさわしいと思ったんだよ」
友だちから信頼される。文句なしに喜ばしいことだ。友だちとして、誠意をもってそれに応えたいと思う。
「でも、殺すなんて……」
声は少し震えた。手まで震え出しそうで、握りしめる。
「トモノリを殺すなんて、そんなの、わたしには無理だよ。絶対に、絶対に、なにがあっても無理」
「クラスメイトは鏖にするつもりなのに?」
「同じじゃないもの。あいつらは殺しても構わない命だけど、トモノリはだめ。殺してって頼まれても殺したくない」
「それじゃあ、僕のわがままには付き合ってくれないんだね。……友だちなのに」
「友だちだからこそ、だよ。とにかく、わたしは嫌だ。トモノリを殺すなんて、そんなの、絶対に嫌だよ」
「つまり、拒否すると」
「うん。わたしは絶対にトモノリを殺さない。……失望した?」
「残念だとは思うけど、失望はしていないよ。そもそも、無理をしてでも目的を遂げようなんて思っていないから」
「えっ? じゃあ――」
「いや、自殺の意思までは捨てないよ。殺してもらえないなら、僕一人で勝手に死ぬだけの話だ。殺してもらえなかったのは残念だけど、でも仕方ないことだと納得しながらね。決行日はもちろん、今日だよ」
どうにか食い下がり、翻意させたいと思うのだが、説得の文言は急速に枯渇しつつあった。
トモノリになにを言っても無駄だ。話が通じない。
百合梨は、心の中では半分以上諦めていた。
彼女は地団太を踏みたい気持ちだった。トモノリを殺したくない。死なせたくない。その気持ちは強いはずなのに、わたしはどうしてこんなにも早く彼を見放すの?
「わたしの意思がどうであれ、今日、この場で、絶対に死ぬつもり。そういうことだね?」
「そうだよ。その認識で正しいよ。百点満点だ」
「力づくで阻止すると言ったら?」
「不可能だろうね。僕は体格がいいわけではないけど、毎日体を使う作業をしているから、体力や腕力は確実に君よりも上だ。阻止しようと立ち向かってくる君を突き飛ばして、君が再び僕のもとにたどり着くよりも先に、作業服の内側に隠し持っているナイフで頸動脈を切り裂く。それでおしまいだ」
「じゃあ、トモノリが死んだらわたしも死ぬ、と言ったら?」
「僕の予想だと、君は多分、僕のあとは追わないんじゃないかな。だって君には、クラスメイトに復讐するという目標があるんだから」
「それは……」
「『わたしが死ぬからトモノリは死なないで』と言って、君のほうが先に死んでみせたとしても、残念ながら僕の意思は変わらないよ。君が死んだあとでゆっくりと死ぬだけだから」
はったりを言っているわけではないのは声の抑揚でわかる。つまり、どう足掻いてもトモノリは死ぬ。今宵が命日になる。自らの手で自らを殺して死ぬか、百合梨の手で殺されて死ぬか、どちらになるかが現時点では未定なだけで。
体が熱い。思考がままならない。本当にトモノリの命を救う道はないのか、暗中模索するために頭を働かせることができない。強引に思案を進めようとしても、熱がますます高まるだけ。肝心の思索は一向に前進せず、もどかしさのあまり全身をかきむしりたくなる。急勾配の坂道を転がり落ちるように自暴自棄になっていく。
トモノリがどうせ死んでしまうのなら。
殺すか、勝手に死ぬか、そのどちらかしか選べないのなら。
わたしが選びたいのは――。
「わかった。わかったよ、トモノリ。あなたを殺せばいいんだね」
「ああ、殺してくれ。ごめんね、迷惑をかけて」
だって、あなたがそれを望んだんでしょう。
そう言ってやりたかったが、にわかに込み上げてきた悲しみに喉が詰まる。追いかけるように目の奥が熱を帯びたが、涙がこぼれ落ちるのは阻止した。ただ、何度か洟をすすらずにはいられなかった。
未練があるんだ、と思う。
殺すと決意したくせに、明言したくせに、トモノリに生きてほしいと願っている。彼が死という状態に到達するその瞬間まで、その願いは念頭に居座りつづけるのだろうか?
「わたし、これまでにできた友だちはトモノリ一人だからわからないけど……。友だちを永遠に失うことになるのだとしても、友だちの望みを叶えてあげるのが、友だちとしての務めなの?」
「そうだよ。少なくとも、僕はそれが正しいと信じている。僕だって、これまでにできた友だちは君一人だから、説得力に欠けるかもしれないけど」
「『トモノリに死んでほしくない』っていうわたしの願いは、叶えてくれないんだね。……友だちなのに」
「天秤にかければ僕の願いのほうが重い、ということじゃないかな」
「わたしのほうが重いよ」
「これでは決着がつかないね。堂々巡りをしていては、いつまで経っても僕の願いは叶えられない。君がこれ以上ぐずるようなら、君に殺されるのを諦めて自殺しようと思う。急かして申し訳ないけど、一枝さん、そろそろ僕を殺してくれないか」
とうとうこらえ切れなくなり、一粒の雫が百合梨の頬を伝った。
トモノリに自殺を撤回する意思がないのはもはや疑いようがない。百合梨の力ではどう足掻いても覆せそうにない。
勝てない勝負を戦ってきたのだと思うと、どっと疲れが出た。
もういいや、と思う。
怠惰な諦め。どこか甘美な諦め。
殺そう。わたしの手で。
「トモノリ、殺す道具は? シャベルで殴ればいいの? それとも、隠し持っているナイフを貸してくれるの?」
「君のために用意した工具を使うといい。いじめっ子たちを鏖にする練習のつもりでね。持ってくるよ」
トモノリは小屋へと消えた。また涙が出そうになったが、下唇を強く噛んで封じ込める。成功すると、腹が決まったような実感をようやく覚えた。指で頬を拭ったが、早くも乾いている。
トモノリが戻ってきた。握りしめているのは、金属製のハンマーと大振りのナイフ。
百合梨はハンマーを受けとり、トモノリの右のこめかみを思いきり殴りつけた。
鈍い音がした。手応えがあった。ありすぎた。
殴られたほうは上体を折り、今にも膝を屈しそうだ。
殴る前よりも低くなった後頭部を目がけて、凶器を振り下ろす。トモノリは俯せに地面に倒れた。成人男性である彼を暴力で圧倒しているのだと思うと、鳥肌が立った。全能感が総身を満たしている。バトル漫画の主人公のように、炎のようなオレンジ色のオーラをまとっているような気がする。
実際の世界は相も変わらず闇だ。やっと慣れてきた目にもまだ暗い真夜中。その地面に、トモノリが這いつくばっている。
自殺願望を持つ友だちは、まだ死んでいない。
左手からナイフがこぼれている。腰を屈めて拾い上げ、靴先で脇腹をつつくと、トモノリは緩慢に半回転して仰向けになった。露わになった顔は、なにかを成し遂げた清々しさに包まれている。
その顔を目がけて、刃を振り下ろす。生々しい手応えを感じた。刃は頬になかば埋もれながら滑り、きっさきが大地を掠める。反射的に傷口を押さえようとしたのか、右手が痙攣したように少し動いたが、それだけだった。大きく振りかぶり、左胸に刃を叩き込む。刀身の三分の二ほどが埋もれ、不明瞭な濁った呻きが口から飛び出した。トモノリはナイフを両手で押さえ、激しくもがく。百合梨の両手が柄から外れた。左右に半回転をくり返す彼の体は徐々に移動し――穴に落下した。
底を覗き込む。地上よりも二メートルほど低い、一畳ほどの楕円形の空間のほぼ中央で、トモノリは胸にナイフを残して身じろぎ一つしない。その顔は、真上からだと安らかな寝顔にも見える。
百合梨はシャベルを掴み、穴を埋めはじめた。血が飛び散っている地表を削って落とすことも忘れない。顔は後回しにしたが、その部分だけが露出するというのも、棺に納まる死者を連想させて切なく、工程のなかばほどに差しかかったところで方針を撤回した。半開きの口の中に土が入っても微動だにしない。魂はすでに肉体から離れたのだ。
やけに白く見えるトモノリの顔がとうとう隠れた。百合梨は作業の手を少し速める。
一人分の墓穴を想定していたにしては、穴は深く掘られすぎている。本心では、百合梨といっしょに死ぬことを望んでいたのだろうか? そうでなければ、潜在的に。
作業の手が一時停止し、すぐに動き出す。
興味深い議題だとは思うが、取り合わない。もう済んだことだからだ。なにより、仕事を片づけてしまいたい。かけがえのない友人を失った悲しみや喪失感は当然ある。しかし、それは意識の底をしめやかに走る細い流れに過ぎない。
百合梨の心は、世界でただ一人の友人殺した直後にしては冷静だし、冷ややかだ。死の影響をそう強くは受けていない。掘り起こされた土を崩して穴に落としていく単調な作業が、沈着冷静さを堅持する手助けをするかのようだ。
もっとも百合梨自身は、あと一歩のところで冷静になりきれないと感じていた。その一歩を消化したいと焦る気持ちから、シャベルを操る手はともすれば急いた。しかし性急さを自覚するや否や、即座にそれを是正した。故人への敬意を欠いている気がするからだ。
やがて毛先すらも見えなくなった。以降の進行は早かった。穴が穿たれていた領域の高度が回りの地面に追いつき、ほんの少し追い越す。靴底で踏み固めるとほぼ同じになった。白日の下で眺めれば不自然な眺めなのだろうと思いながらも、これ以上作業をする気にはなれない。疲労は隠しがたく、完璧主義に徹するのは馬鹿馬鹿しい。
シャベルを小屋の外壁に立てかけ、血に濡れた凶器を手に中に入る。壁を手探りして照明を灯す。言っていたとおり、手製の木台の上にいくつかの工具が置いてある。とても持ちきれる量ではなく、ナップザックでも持ってくればよかったと悔やまれた。使いやすそうなものを見繕って胸に抱え、明かりを消して小屋を出る。両手がふさがっていたのでドアは足で閉めた。
埋葬が完了してしまえば、形だけのさよならを言うのも馬鹿馬鹿しくなるものなのだと、百合梨は知った。小屋に背を向け、トモノリが埋められている場所は一顧だにせずに歩き出す。
蓄え込んだ肉体的疲労以上に、両手に抱えた数点の工具の総重量以上に、荷物が重たく感じられる。足取りは鈍く、靴底と地表がこすれる音が大きい。深更のしじまの中で響くその音は、孤独な人間の悲痛な哀願にも似ている。
道に出たところで、今宵初めて空を仰いだ。月は雲の向こう側の世界に甘んじていて、光源としての役割を果たしていない。
月が見ていなかったのだから完全犯罪だ、と思ってみる。
完全犯罪というのは、言葉の響きほどよいものではないのかもしれない。そんな気がした。
凶器の調達のことは当日を迎えるまで頭から抜け落ちていた。
最寄りのスーパーマーケットに足を運び、キッチン用品売り場を偵察したが、想像以上の値段に愕然としてしまった。だからといって、カッターナイフの薄っぺらな刃では心もとない。殺人という難事を成し遂げるには、道具の面からも己の精神を高ぶらせる必要がある。
トモノリへの襲撃は夜間を想定していた。日の入りから日の出までのあいだならいつでもいいのか。夜が深まり、草木も眠る丑三つ時になるのを待って行動を起こすべきなのか。詳細までは決めていないが、凶器を手に、狂気を胸に家を出るとすれば、とにかく夜間だと。
ただ、その時間帯は家族が在宅だ。外出するとなると、行き先を尋ねられる。目的を尋ねられる。帰宅予定時刻の明言し、それを遵守することが求められる。中学二年生にしてはチェックが厳しすぎると隼人は思っているが、それが森嶋家のルールだ。
嘘をつけば済む話ではある。しかし、しようと考えている行為が行為だけに、果たして綻びなく嘘をつけるのかという懸念がある。なにか隠しごとをしているのではと疑われ、疑いを晴らせず、計画そのものが頓挫してしまうのでは? そんな不安を払拭できない。なにか一つ不安材料があるだけで、臆病な彼の気力と行動力は大幅に減退する。
そもそも隼人は、陽が落ちて夕食を終えた時点で、凶器の準備という段階をクリアできていない。キッチンから包丁を拝借するつもりだったのだが、キッチンに隣接するダイニングのソファに母親が鎮座し、くだらないテレビ番組を観ながら笑い転げている状況で、物騒な調理器具を無断で持ち出すのは勇気が要る。
視聴に夢中なのだから犯行はばれない。血を洗って返せばなにも疑われない。そう開き直って大胆に行動に踏み切れないのは、隼人が臆病者だからに他ならなかった。
凶器の調達。両親に述べる言い訳。二つの問題の解決に手間取ったことで、いっときはあんなにも強大だった殺意は、みすぼらしいまでに萎えた。
隼人は結局、行動を起こさないままベッドに潜り込んだ。
眠りは遠く、夜は長い。
一夜が明けた。
永遠に解き明かすのは不可能だと思えた難問も、いったん距離を置いたうえで見つめ直すと呆気なく正答が判明する、ということがままあるが、隼人の身にも同じことが起きた。
両親が眠りに就いた真夜中に決行すればよかったのだ。そうすれば、包丁を持ち出すのも簡単だし、外出したこともばれない。
出発は午前零時半にした。予定ではもう少し遅く出発する予定だったのだが、逸る気持ちを抑えるのが難しかったのだ。
持参する凶器は包丁。同じく台所にあった布巾で刃をくるんで保護し、尻ポケットに差す。
軽やかに出かけ、軽やかに殺し、何食わぬ顔で帰宅して眠りに就く。そのつもりでいた。
腹の中で殺意が滾っている。ただ、不思議と高揚感はない。情熱と冷静さを併せ持った現在の心の状態を、隼人は理想的だと認定し、上機嫌になった。それでいて、浮かれすぎるなと己をたしなめるだけの精神的なゆとりがある。
小屋の明かりは点いていない。ドアの前まで歩み寄り、顔の右側面を押し当てる。物音も人気も感じられない。風変りな男も夜は普通に眠るらしい。敵の根城に踏み込むのはプレッシャーだが、殺すにあたっては好都合だ。
ドアノブを慎重に回す。鍵はかかっていない。緊張は今や頂点に達している。唾もろとも飲み下し、音を立てないようにドアを開く。
中は真っ暗闇で、その濃密さに軽く気圧された。鉄や木の匂いが複雑に混ざり合った、不愉快ではないが印象的な香気も一因かもしれない。すぐさま気持ちを立て直し、壁を手探りする。スイッチらしきものを見つけ、多少の躊躇いを感じながらもオンにする。眩しさに一瞬目が眩み、駆け足で順応していく。
視界に飛び込んできた光景に隼人は圧倒された。空間を埋め尽くす、巨大な物置棚。棚を埋め尽くす、多種多様な工具の数々。双眸をしばたたかせながら見とれているあいだ、彼は己の目的を完全に忘れていた。
圧倒されながらも観察を進める中で、部屋の奥に二畳ほどの畳敷きになった領域が目に留まった。半分に布団が敷かれ、もう半分にティッシュの箱やパンの袋などの雑多な物品が置かれている。
布団は無人だ。トモノリは男性としてはそう大きな体ではないが、掛け布団の内側に彼が隠れる余地はない。では他の場所に潜んでいないかと、棚を一段一段確認する。そのほとんどを工具、あるいは釘や螺子の類が占めていて、身を隠すのは物理的に難しそうだ。
現在、小屋の中にトモノリはいない。そう判断するのが妥当な状況だ。
では、どこに消えたのか。
手がかりを探して周囲を見回したが、目につくものはない。強いて挙げるなら、空間のほぼ中央に置かれた木製の台、その上に並べられたいくつかの工具。そのほとんどが凶器としても使用可能な代物だというのが意味深だが、隼人が殺人目的で小屋に乗り込んだゆえに、無作為な取り合わせに物騒な意味を見出しただけ、というのが真実なのだろう。
ターゲットの不在という想定外の事態を受けて、隼人は計画の変更を余儀なくされた。
待ち伏せしてみようか? 心躍る案ではあるが、必ずしも今夜中に帰宅する保証はない。一・二時間くらいならば駄目元で待ってみてもいいと思ったが、
「……帰るか」
照明を消して小屋を出た。
トモノリが不在という肩透かしを食らった時点で、気持ちはかなり萎えていた。萎えた心で、帰ってこない敵を敵の本拠地内で待ちつづけるだけの気力は、とても捻出できないと判断した。
おあずけを食らったようで、腹立たしいし、もどかしい。しかし、今日のところは引き下がるしかない。
二日連続で目的を果たせなかった精神的ダメージは、小屋から遠ざかれば遠ざかるほど膨んでいく。ただし、殺意は目に見えて萎むことなく健在だ。三度目の正直、という言葉もある。
今日のところは帰ろう。寝よう。心身を休めよう。
そして、明日こそ殺す。絶対に殺す。
決意を新たにしてからしばらくのあいだ、隼人は重荷を下ろしたように軽い心でいられた。ただし、消灯してベッドに横になった直後、出し抜けに胸を過ぎった疑念には興奮せずにはいられなかった。
あの男、まさかとは思うが、今ごろ俺のゆりりんとセックスでもしているんじゃないだろうな?
百合梨は犯行がばれる気がしなかった。
埋葬は完璧ではなかったと思う。もちろんベストは尽くしたつもりだが、それでも完璧には達しなかっただろう。よく見れば、あるいはそう注意深く見ずとも、穴が掘られた箇所がわかるような、杜撰な仕上がりになっているはずだ。
それでも、なぜだろう、ばれる気が全くしない。
いくら孤独な変人といえども、長らく姿を見ないとなれば、行方を案じる人間が現れるはず。
小屋を訪問したX氏はトモノリの不在を確認したあと、しばし途方に暮れたのちに外に出て、前方斜め右の地表に残る不自然な痕跡に気がつく。まるで穴を掘って元どおりに埋めたかのような痕跡を。トモノリは財産らしい財産を持っていない。一風変わった性格だが、孤独を好み、他人に極力迷惑をかけないように生きてきた。殺される理由なんてないのに、と思いながらも、地中に埋まっているトモノリの変わり果てた姿を頭から追い払えない。壁に立てかけられたシャベルを見つけ、X氏は埋められた跡を掘り返してみる。そして、側頭部を陥没させ、ナイフを胸に突き刺したトモノリを発見する。
今後、現実世界でそのような展開となる可能性はある。しかし、それでもやはり、犯行がばれるとは思えない。トモノリは孤独な人間だから、X氏のような存在がそもそも現れるはずがないと、腹の底では高を括っているからではなくて。
この自信はなんなのだろう? 心がかつてないほど昂っている。今夜は一睡もできそうにない。人を殴って、刺して、埋めて。心も体も死ぬほど疲れているのに。明日はまた人を殺さなければならないのに。
明日は川真田樹音の家に泊まりに行く日だ。溜めに溜めた憎悪と殺意を解き放ち、復讐を成就させる記念日。鏖の決行日だ。
今の自分ならなんだってできる気がする。総勢六名のいじめっ子を殺すなど、緩慢に地を這う虫を踏みつぶすようなものだ。ナイフの柄を握るまでの児戯に付き合うのがいささか煩わしいが、所詮は足を高く持ち上げるのが億劫なだけ。乗り越えること自体に失敗するとは思えない。
こんな気持ちになれたのも、彼を殺したことで度胸がついたからだ。彼は最後の最後に、友だちである百合梨に最高のプレゼントを贈ってくれたのだ。
「――殺そう。鏖にしよう」
樹音たち六人を。死んでしまった友だちであるトモノリのためにも。