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「……憎い」

 水色の自転車を押しながら、通学路を自宅に向かって歩く百合梨の唇から、言の葉がこぼれ落ちた。

 その一言を聞いた瞬間、彼女の両足は地面に固着した。人は、自分が発した寝言やいびきに驚いて目を覚ますことがあるが、それと同じことが百合梨の身にも起きたのだ。

 憎い。

 それは、昨日屈辱的な待ちぼうけを食らって以来、魂が抜けたような状態だった百合梨が初めて発した、言葉らしい言葉。それは、現在の心境を率直に表す一言でもある。

 百合梨は憎かった。自分をいじめている人間が、憎い。友情を信じていた自分を裏切った玲奈も、いじめの主犯である樹音も、樹音の犬になって危害を加えてくる取り巻きたちも。

「憎い憎い憎い憎い……」

 幸いにも、小声で切れ目なく呟くくらいであれば、誰からの干渉も受けない環境を百合梨は歩いている。

 トモノリにいじめについて打ち明けたとき、憎しみも復讐心も所持しているが、実行に移さずにはいられないほど強くないと確認済みだ。

 しかし今、彼女が抱いている感情は強大だ。復讐したくて、したくて、たまらない。凶器が手元にあり、なおかつ対象が目の前にいたならば、倫理観を振りほどいて斬りかかっていただろう。玲奈の行為が厳重に閉ざしていたドアの鍵を開け、その後の樹音たちの行為が流出を加速させたのだ。もはや行動を起こさずにはいられない。

 屋外にトモノリの姿はなかった。真っ直ぐに小屋に歩み寄り、ノックもせずにドアを開け放つ。自作の木製の作業台に向かっていた彼は、不意打ちで背後から肩を叩かれた人のように振り向いた。ナイフを右手に、一回り小さな卒塔婆といったサイズの木片を左手に持ち、前者で後者を粗く削っている。

「トモノリ。わたし、あいつらのことが憎い。憎くて、憎くて、たまらないよ。もう無理。我慢の限界」

 微かに震える声で、しかしきっぱりと断言した。視線を真っ直ぐにトモノリの顔へと注ぎ、まばたき一つせずに。

 トモノリは手にしているものを静かに台上に置き、体ごと百合梨に向き直る。台の隅、百合梨が手を伸ばせば届く場所には、見慣れた小さな砂時計が置かれている。

「あいつらというのは、君をいじめているクラスメイトの女子のことだね。とても怖い顔をしているけど、なにかあったの?」

「野暮なことを訊くんだね。あったに決まってるでしょ。だから、憎いの。我慢しきれないくらい憎くなったの」

 百合梨は事情を説明する。一つ一つの言葉を強く発音しながらも、穏やかに、冷静に、ある程度理路整然と話すことができた。

「なにが憎いかって言うとね、トモノリ。あいつらがわたしを虐げるからなのはもちろんだけど、それと同じくらい、きりがないから憎いの。その砂時計と同じ。終わったと思ってほっとひと息ついても、ひっくり返せばすぐにまた砂が落ちはじめる。トモノリは砂時計を見ると儚さを感じると言ったけど、わたしは共感できない。永遠の苦しみを表現した装置だとしか思えない。だからこそ、むかつくの。本当に腹立たしい」

「……一枝さん」

「果てのない連なりを終わらせるには、どうすればいい? 砂時計をひっくり返させないようにする? ううん、そんな甘い対応ではだめ。隙を見てひっくり返されて、また悪夢が始まるだけだから。そうさせないための方法は、多分一つしかない」

 右手を伸ばして砂時計を掴みとる。百合梨はどこかトモノリを思わせる、色のない瞳でそれを見つめていたが、やおら顔の高さに振りかざし、床に叩きつけた。

 ガラスが音を立てて砕け、封じられていた砂があふれ出した。流砂は生物とも無生物もつかない動きで四方へと広がっていき、ほどなく静止した。

「――壊すしかないの。根源を破壊して、再起不能にしてしまうしかない」

 百合梨は機能と形を失った砂時計から目を切り、トモノリに視線を合わせる。

「いつかわたしはトモノリに、わたしは暴力的なことを嫌う人間だと表明したけど、あれは間違っていた。気づいていたけど、気づかないふりをしていただけ。暴力を愛してはいないかもしれないけど、行使したくなったときは行使するのを厭わない人間なの。その証拠に、ほら、砂時計を見て。壊す必要のない他人の私物を、いとも簡単に壊した。なぜ壊したかというと、目障りだったから。壊したかったら。わたしはね、ようするにそんな女なんだよ。理解できた?」

 トモノリは首を縦に振った。言下に、表情一つ変えずに、無言で。

 想定していなかった反応が返ってきたことで、百合梨の心ににわかに弱気が萌した。

 憎しみ、復讐心、殺意。それらの感情を抱いているのは間違いない。なおかつ、その程度が激しいのも事実。さらには、必要とあれば暴力を行使することを厭わない性格だというのも、正しい評価だと思う。

 しかし、激しい負の感情に突き動かされるままに暴力的な復讐を実行するのは、果たして正しいのだろうか?

 視線を足元に落とす。壊れた砂時計がある。

 粉々になったガラスを完璧に修復するのは、手先が器用なトモノリをもってしても困難だろう。砂に関しては、一粒残らず回収するのはほぼ間違いなく不可能だ。

 壊れた物体を完璧に元の形に復元するなど、絵空事。ましてや、復元の対象が人間となると。

「前も似たようなことを言った覚えがあるけど」

 沈黙を破ったのはまたもやトモノリ。その顔は異様なまでに真剣だ。攻守が切り替わったのを百合梨は感じた。

「誰かを殺そうとするのは悪だと断罪するつもりはないよ。暴力を振るわれたからといって暴力を返すのはもってのほかだと、聖人ぶって説教するつもりもない。むしろ僕は、君には自分の本心に忠実に行動してほしいし、君のために協力したいと思ってもいる。推測するに、君が小屋まで来たのは、僕が大量に保管している工具を貸してほしかったから、だよね。少し待ってて」

 トモノリは空間の奥へ行く。棚の各所に収まっているものを次から次へと引っ張り出し、胸に抱えて戻ってきた。

 彼手製の木台の上に広げられたのは、大量の工具。鉈、金属製のハンマー、アイスピック、小刀、モンキーレンチ。以前見たものもあれば、初めて目にしたものもある。

 明らかに、人を殺傷するのにあつらえ向きの工具ばかりが選ばれている。

「必要なものがあれば貸してあげる。好きなものを自由に持っていって。使いかたがわからないなら教えるよ。と言っても、人を傷つけるために使ったことは一度もないから、一枝さんが納得するような説明はできないだろうけど」

「……わたしは」

「躊躇いが生まれた? 無理もないけど、でも決めるのは君だ。僕は君がすることには責任を持てないけど、君がした行為によってなんらかの不利益をこうむったとしても、君を責めるつもりはないよ。たとえば、僕が貸した工具を使って君がいじめっ子たちを鏖にしたとして、凶器の提供者、すなわち犯行の協力者として僕が逮捕されたとしても、それは仕方ないことだと思う。だから、本当に、本当に、君がしたいようにしてほしい。後悔を残さないように、僕ではなく君の意思で行動を決めるべきだ」

「……あの、トモノリ」

 自分が眉根を寄せ、なおかつ眉尻を下げた顔をしているのが、鏡を見ずともわかった。人の砂時計を勝手に壊したさいの威勢のよさは、見る影もない。当時の自分と現在の自分はまるで別人で、頬が熱くなる。

「さっきの根源を破壊するっていうわたしの発言、冗談っていうか、その……。つい熱くなりすぎてしまって、つい言いすぎてしまっただけなの。やっぱり殺人だなんて、復讐だなんて、わたしには――」

「怖くなったんだね。でも、気持ちが挫けたのは一時的なことで、憎らしいから・殺して・復讐したいという本音は不変不動。違うかな」

「……トモノリ。トモノリはどうして、わたしの背中を押すようなことを言うの? わたしが復讐を実行することを望むの?」

「理由は複数あるよ。全部で三つ、かな」

 語り出したトモノリの口調は滑らかだ。あたかも、事前に用意しておいた原稿を読み上げるかのように。

「まず、近い将来に自殺を考えている人間に、怖いことなんてなに一つない。それから、僕にとって君はとても大切な存在だ。とても大切、なんて言うと大ざっぱでいい加減に聞こえるかもしれないけど、一言で表すならそうなるということだね。最後の一つは、僕も君と同じで、人から痛い目に遭わされながら生きてきた人間だから。一枝さんが僕の復讐を代行してくれているようで、それゆえに応援しているのかもしれない。我ながら身勝手な考えではあるけどね」

 気がつけば百合梨は汗をかいている。うっすらと滲むのではなく、大粒の汗を。トモノリが一枝百合梨という個人を信頼してくれているのが判明したというのに、歓喜からは程遠い。

「急かすつもりはないけど、今の君の気持ちはどうなのかな。よければ教えてくれないかな」

「……考えさせて」

 絞り出すようにそう呟くので精いっぱいだった。


 あらゆる意味で疲れた体を、ホットミルクを飲み、チョコレート菓子を食べることでささやかながらも労わりながら、樹音たちを殺すことの是非について考えてみる。

 わたしは樹音たちを殺すべきなの?

 殺すべきだ、と間髪を入れずに自答する。捌け口を求めて唸り声を上げている憎しみを、樹音たちを鏖にして復讐を果たすという形で処理したい。憎悪、復讐心、殺意。そのいずれもが本物の感情だ。なおかつ、これ以上抑え込むのは難しいくらいに肥大化している。

 では、なにが実行を躊躇わせているのだろう。

 これだ、と思う答えは一つしか浮かばない。

 勇気がないからだ。

 トモノリと会話していたときはそれがわからなかった。負の感情の大きさがまだ不充分なのかもしれない、とも考えたが、その解釈は間違っている。その感情は間違いなく、すでに充分な大きさにまで育ちきっている。

 それにもかかわらず、解き放つ勇気が百合梨にはない。

 あとひと押しが必要だ。なにか一つ、背中を押してくれるような出来事が。

 押すのは一回で充分かもしれない。しかし、かなりの強さで押してもらう必要があるのかな、という気はする。なにせ、「偽りのトモダチ作戦」などという許しがたい仕打ちを受けても、まだ踏み出せずにいるくらいなのだから。

 最後のひと押しとは、どんな形なのか。どうすれば巡り合えるのか。

 自分なりに粘り強く思案してみたつもりだが、雲を掴むようだ。チョコレート菓子の箱が空になったのを機に、百合梨は一連の思索に自ら終止符を打った。

「……それにしても」

 背もたれに背中を預け、色香をほのかに意識しながら息を吐く。念頭には、トモノリの存在がある。

 今日の放課後に交わした会話で、トモノリは百合梨に復讐を決行してほしそうだった。彼自身は、百合梨が友だちだからとか、自分の復讐を代行してもらっているようだから、といった理由を述べていたが、彼女としては首を傾げてしまう。

 違和感を覚えるのだ。口にした三つの理由は嘘ではないが、それらとは別に、本命ともいうべき目的や動機を隠している気がするのだ。

 トモノリは暴力と狂気への嗜好を内に秘めているのではないか、という疑惑を百合梨は抱いている。

 彼女に復讐の実行を望む真の動機はそれなのだろうか? それとも、全く別のなにか?

「……わからない」

 断言できることはなに一つない。少なくとも、現時点で出揃っている情報だけでは。

 これだけ交流を重ねても、トモノリはいまだに謎の人のまま――。

 もどかしかった。それ以上に寂しかった。憎い、憎いと呟いていたころとは、百八十度違う感情が胸を満たしている。

 不意に気配を感じ、マグカップへと視線を落とすと、白い水面に「青春」という赤い文字が浮かんでいる。こめかみに銃口を押し当てられていることに気がついたように、百合梨は息を呑んだ。

 しかし、一回まばたきをした直後には、文字は跡形もなく消失している。目を凝らしても、まばたきをくり返しても、白いミルクがたたえられているばかりだ。


 翌朝、百合梨が教室に入るや否や樹音に呼ばれた。スクールバッグを机の横にかけることすらも許されなかった。

 今までは離れた場所から嘲笑し罵倒するだけで、自らのもとに呼びつけることはめったになかった。樹音たちのもとに向かう百合梨は、恐怖や不安よりも戸惑いを強く覚えていた。

 彼女たちが態度で示した回答は、予想とほぼ同じだった。百合梨を自分たちのすぐそばに立たせておいたうえで、百合梨を罵りはじめたのだ。

 悪口を言われるだけだから、仕打ちとしてはまだましなほうだ。とはいえ、不愉快なことに変わりはない。さらには、行為がエスカレートしていくことへの恐怖がある。

 それでも百合梨は、この苦難の時間を耐え抜こうと決意する。強いて地獄に身を置くことで、樹音たちに対する憎しみが、復讐心が、殺意が高まってくれれば、犯行に踏み切る決心がつくかもしれない。そう前向きに考えた。

 玲奈と遊びに行くのが楽しみでおしゃれをしてきたのに、待ちぼうけを食らった件を蒸し返される。玲奈と昼食をともにしたさいに話した失敗談を俎上にのせられ、嘲笑される。昼休み時間には樹音たちと机を囲むことを強要され、おかずの一つ一つにけちをつけられた挙げ句、消しゴムの滓を振りかけられる。さらには、脛を蹴飛ばされる。背中や肩を小突き回される。様々な角度から人格を非難される。

 その全てに百合梨は耐えた。これは高く飛ぶために必要な苦難なのだ。そう自らに言い聞かせることで、ダメージはゼロにはできないものの軽減できた。一回あたりのダメージをある程度抑え込むことで、切れ目のない、終わりの見えない攻撃にも持ちこたえられた。

 よくも悪くも痛めつけられるのに慣れてくると、攻撃する側の欠点も見えてくるようになった。

 たとえば、樹音たちは語彙がそう豊富ではないため、罵倒の文句には月並みなものばかりが選ばれている。百合梨の過去を熟知しているわけではないため、槍玉に挙げた事柄によっては、悪口の積み重ねが長々とは続かないこともある。反撃の材料になりそうな滑稽な癖や言い回しもたくさん見つけた。そうやって発見したものを心のノートに一つ一つメモしていくことは、耐えがたい時間を耐え抜くための一助となった。

 それでもやはり、許しがたい言葉や行為も中にはある。樹音が百合梨の弁当箱の一隅に収まった煮物を指して、「貧乏くさい料理」と嘲ったのがそうだ。

 百合梨は煮物が好きではない。弁当に残り物を流用することに否定的な気持ちもある。「貧乏くさい料理」という表現は的を外していると思うが、味が染みて茶色くなった野菜の切れ端を見て、なにかちょっとからかってみたくなる気持ちは、まあ理解できなくもない。

 ただ、関係が深い他人を低く見るような発言は聞き捨てならない。お前らごときに非難する権利はねぇよ、と思う。

 世間では理想形の一つだと挙げられることもある、友だちのような関係の母親ではない。仲がよいか悪いかで二分するなら、後者に属する。それでも、悪く言われたのには腹が立った。

 お前らごときが――その一言で頭がいっぱいになり、顔が、全身が、燃え上がるように熱くなった。

 発作的に行動を起こしそうなったが、こらえた。万端に準備を整えたうえで解き放つまで、我慢しよう。その瞬間に備えて、今は憎悪を溜め込むことに専念しよう。そう固く心に誓った。

 殺意はいずれ臨界点を突破するだろう。問題はむしろ殺害方法かもしれない。百合梨はそう考えはじめていた。


 本日の尾行はとても楽だ。百合梨が樹音たちといっしょに下校したからだ。

 百合梨は樹音たちからの心のない言葉を耐えることに、樹音たちは百合梨をけなすことにそれぞれ夢中。尾行者の存在に感づくなど、天地がひっくり返ってもあり得ないように思える。

 ただし、尾行者である森嶋隼人の心は重かった。苦しかった。

 軽いはずがない。快いはずがない。なにせ、恋心を抱いている相手が目の前で虐げられているのだから。

 樹音たちの話し声はやかましく、人目を憚らない。十メートル強の間隔をあけてあとをつける隼人にも、会話の大半が聞こえる。そのほとんどが、百合梨の人格を踏みにじるような言葉だ。汚く、乱暴で、聞くにたえない。

 それでいて隼人は、加害者がなにを言っているのかを一語も聞き漏らすまいと、懸命に耳を傾ける。

 時には暴力が行使されることもある。加害者が冗談だと言い張れば責任は免れる程度の強さで、肩を小突いたり背中を叩いたりする、というものだが、心が弱りきっている百合梨には一発一発が重く感じられるだろう。いつ飛んでくるかわからず、次から次へと襲いかかってくるからこそ、怖いし、痛いだろう。

 悪罵の数々を聞きとってしまうのは避けられないにしても、俯いてスニーカーのつま先を見ながら歩けば、暴力が行使される瞬間は目にせずに済む。そう理解していながら、隼人は加害者と被害者の一挙手一投足から目が離せない。

 樹音たちから解放されるまで、百合梨は罵倒され、小突き回された。



 二日連続で、百合梨は樹音たちと下校することとなった。

 目的のために必要とはいえ、気が重かった。教師という権力者の目が届かなくなったのに伴い、樹音たちが一段階羽目を外すからだ。言われること・やられることには大差ないが、心が少し深く抉れるような実感があった。いじめの微薫を嗅ぎとった場合、教師たちならば行動を起こすこともあるが、通行人はほぼ確実に見て見ぬふりをする、という違いも大きい。思う存分鞭を振るえる喜びから、彼女たちはわざと歩調を落とし、虐待のための時間を増やしている節があった。

 学校の中の被害だけでも憎悪は問題なく深まる。時と場合によっては逃げることも必要だ。逃げよう。逃げてしまえ。

 心は揺れたが、結局、樹音たちと下校をともにしている。目的のため。憎悪を充分な量まで貯めるため。百合梨としてはそのつもりだったが、逃げたくても逃げられずにいる、というのが実のところだろう。

 今日は昨日とは違い、自転車を押していない。

『駐輪場に置いておけよ。鍵かけとけば誰も盗まないでしょ』

 樹音からそう命じられたからだ。理由は明言しなかったが、邪魔だ、という意味の発言はしていた。自転車は百合梨とトモノリの仲人役を果たした、思い入れのあるアイテムだ。たとえ乗らないのだとしても、そばにいてほしかったのに。

 一行は昨日とは違い、トモノリが住まう小屋が建つ道を歩いている。

「おっ、いるいる」

 一行の足が止まり、樹音が景色の一点を指差して言った。半笑いにもかかわらず鋭利さを失っていない切れ長の目は、小屋の前にしゃがむトモノリを捉えている。彼の姿を一目見て、百合梨と樹音を除く全員が小さく歓声を上げた。

 トモノリは筏のように縦に並べた背丈ほどの角材を、順番に手にとっては定規を当て、鉛筆で短い線を描き加えている。集中して作業に取り組んでいるのが遠目からもわかる。

 樹音たちの存在には気がついていないようだ。

 ましてや、その中に百合梨がいることなど。

「おい、一枝。あの汚いおっさんにキスしてこいよ」

 半笑いで、それでいて有無を言わさない高圧的な口調で、樹音は命じた。

 百合梨は絶句した。取り巻きが二人ほど、囃し立てるようなことを言ったようだが、遠方で響いた異国の言葉のように聞こえた。

「孤独な嫌われ者同士、お似合いじゃん。ベストカップルだよ。だから、キスしてこい。チャレンジしてみろじゃなくて、命令だから」

 どうしてそんなことをしなければいけないの? そんな真っ当な問いは、樹音に対してはナンセンスでしかない。樹音が百合梨をいじめのターゲットにした理由が気まぐれなら、下す指示も気まぐれ。意味らしい意味などないのだから。

 樹音たちは顔を寄せ合い、しかしひそひそ話と呼ぶにはうるさすぎる音量で談判する。その結果は、グループのリーダー直々に百合梨に伝えられた。

「唇にしたら拍手を送ってあげる。唇以外の体のどこかなら、みんなから一発ずつ平手打ち。なにもできなかったのなら、一人あたり一万円払う。賞罰はそんな感じでどうかな。スマホ、持ってるよね。ちゃんと証拠写真撮ってこいよ。証明できなかったら、問答無用で罰金一万円だからね」

 いじめは、とうとう金銭を要求する段階にまで来たのか。

 純度の高い闇が百合梨の胸中に広がっていく。救いを求めるように首を回すと、トモノリは作業の手を止めて樹音たちのことを見ていた。視線は百合梨を捉えている。

 樹音たちのことはこれまでさんざんトモノリに話してきたが、彼が実際に樹音たちの姿を見たのはこれが初めてなのだ。そう思うと目頭が熱くなる。

 トモノリと言葉を交わしたい、と切に思う。

「おい、さっさと行け」

 背中を思いきり突かれ、前へと押し出される。咄嗟に地面に手をついたので転倒は免れた。すぐさま体勢を立て直し、トモノリのもとへ向かう。背筋を伸ばして、少し早足で。

 肩越しに一瞥した樹音たちは、路傍でひと塊になって留まっている。好奇心丸出しの下卑たにやけ笑いの裏には、トモノリへの警戒心が秘められているのだろう。彼と少しでも言葉を交わし、穏やかな性格と語り口を知った者ならば、馬鹿げている以外のなにものでもない態度だ。

 樹音たちにとっては罰ゲームでも、百合梨にとってはそうではない。

 その気づきが、足を速めさせる。苦行を早く終わらせたい気持ちの反映だと樹音たちは解釈したに違いない。そう思うと足はさらに加速し、今にも駆け出しそうな速度に達する。なかば膝蹴りをする形となったスクールバッグが音を立てて弾む。携帯電話で撮影しろと言われていたのを思い出し、足を緩めてバッグの中から取り出す。速度を上げる。

 二人の距離がゼロになった。

「一枝さん、君はあの子たちと――」

 百合梨はトモノリを両腕で抱きしめた。発言が止まった。作業服からは鉄と木と埃と土の匂いがした。それを肺いっぱいに吸い込み、耳元でささやく。

「トモノリ。わたし、あの女どもからいじめられているの。だから、憎んでる。復讐したい。殺したい。だから、協力して。頼れる友だちはトモノリしかいないから」

 間があった。発声に先立って口腔の唾を飲み込むためとも、発言内容を咀嚼するためともつかない、五秒にも満たない間が。

「わかった。友だちとして協力する。君にも扱いやすそうな工具、いつでも使えるように準備をしておく。好きな時間に小屋まで来て、自由に持っていって」

「ありがとう」

 唇に唇を押し当てる。鉄と、木と、埃と、土の匂い。これがトモノリの匂いなのだ、と悟る。撮影ボタンをタップし、なかば無理矢理引き離す。

 唇が離れたとたん、照れくささが込み上げてきた。百合梨は立ち上がって駆け出す。跳ね回るスクールバッグの攻撃を脚に受けながら、走る。待ち構える樹音たちは、どことなく気後れしたような色を漂わせている。

 要求されるよりも早く、百合梨は携帯電話の画面を見せた。黄色い歓声が上がった。二人の唇は、誰がどう見ても密着している。

 樹音たちが幼稚にはしゃぐ中、百合梨はただ一人、いかにすれば彼女たちを鏖にできるのかを考えている。


 見てしまった。

 なんらかの決定的な情報を掴むのが、尾行という行為の一般的な目的なのだとすれば、隼人は今日それを達成した。

 一枝百合梨、川真田樹音とその取り巻きたち、トモノリ。この三勢力が交差する未来を、尾行を開始した時点では想像もしていなかった。トモノリの小屋がある道は人気がない。誰の邪魔も入らないという環境を活用し、樹音たちは百合梨になんらか過激な真似をしようと企んでいるのではないか。むしろその可能性を危惧していた。

 それがまさか、百合梨がトモノリにキスをするなんて。

 隼人がその瞬間を目撃したのは、道端で見守る樹音たちよりもさらに遠い地点からだったが、それでも、命じられて嫌々したキスではないのがわかった。百合梨はトモノリを情熱的に抱擁していたし、顔の近づけかたも大胆だった。キスの瞬間を撮影した画像を見た少女たちの反応を見た限り、唇と唇が接したのは間違いない。

 キス。一枝さんが、トモノリなんかと。

 両者を結びつけているのは恋愛感情ではないかという疑いは、二人の交流を確認したときから抱いていた。たった今見た光景は、疑いが真実だと証明している。

 だからといって、「やっぱりそうだったんですね」と軽く流せるはずがない。おいそれとは受け入れられない。

 なぜって、隼人は一枝百合梨に恋をしているのだから。

 ひとしきり騒いだあと、樹音たちは百合梨を取り囲んで道を遠ざかっていった。トモノリは小屋に入った。隼人は尾行を断念し、道を引き返す。

 両脚は機械的に動きつづける。靴底が路面を踏みしめるたびに、腹の底から滲み出てくる感情がある。

 怒りだ。嫉妬も憎悪も通り越しての、怒り。

 一枝さんは、いやゆりりんは、俺のものだ。俺だけのものだ。トモノリなんかには渡さない。ずっと想ってきたのに、見守ってきたのに、素性不明のおっさんなんかに奪われてたまるかよ。ゆりりんは、俺の・俺の・俺のものだ。

 殺す。殺してでも奪い返す。

 スニーカーの靴底でアスファルトを蹴飛ばすように歩きながら、頭の中で五・六個の物騒な単語をくり返し呟いた。ナイフが手元にあれば今でも殺しに行くのに、と息巻いた。

 しかし、疎らながらも人通りがある通りまで戻ってきたことで、頭が冷えた。赤信号に足止めを余儀なくされたのを機に、熱くなっていた数秒前までの自分を振り返ってみる。

 トモノリを殺す? とんでもない! いくら憎くても、それは駄目だろう。憎らしい恋敵だとしても、命を抹消するという方法で問題解決を図るのは。

 やがて信号が青に変わる。白線だけを踏みながら、隼人は自分が信じられなかった。

 殺す。人間を。実在する人物を。会いに行こうと思えば会いに行ける場所で生活している男を。

 そのような反社会的な欲求を、隼人は今までに一度も抱いたことがない。樹音たちの百合梨へのいじめに対しても、いじめをやめさせたい、百合梨を守りたいとは思ったが、樹音たちを殺そうとまでは思わなかった。「偽りのトモダチ作戦」などという、おぞましい蛮行を彼女たちが働いたときでさえ、「許せない」の度合いが高まっただけだった。

「……キスをしたからだ」

 キスという行為は、許容できる一線を越えている。仲睦まじく談笑するのとはレベルが違う。キス。それを交わしたからには、二人は恋人も同然だ。隼人が恋い焦がれてきた人は、すでに恋敵の手に落ちている。

 物分かりのいい人間のように素直に祝福する? あり得ない! 一枝百合梨が森嶋隼人以外の人間と結ばれるなど、あってはならない。ゆりりんの恋人の座に就くに値する人間はただ一人、この俺・森嶋隼人だ。

 現実をあるべき形へと是正するために、俺がとるべき行動は――。

 隼人の心は落ち着きを取り戻していた。それでいて、殺意をそう簡単には手放さない。いっときの気の迷いに過ぎないと斬り捨てるのではなく、もう少しその感情と向き合いたかった。

 思えば俺は、これまでゆりりんがさんざん痛い目・つらい目・苦しい目に遭ってきたにもかかわらず、なにもしてこなかった。一度だけトモノリに対して行動を起こしたが、無様にも返り討ちに遭った。突発的に発生した樹音との応酬は、さんざんな結果に終わった。

 人殺し、駄目絶対。

 それで終わらせていいのか? ここで一歩を踏み出さなければ、俺は一生情けない男のまま終わるぞ?

「……トモノリを」

 殺そう。そうしよう。絶対にそうするべきだ。

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