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 百合梨はすみれ色のワンピースを着て待ち合わせ場所に来た。S駅前に設けられた広場のほぼ中央、噴水を背にしたベンチで。朝の九時に。場所は玲奈と交わした約束どおりで、時間は半時間早い。

 誰からも注目されていないことくらい、わかっている。それなのに無性に照れくさく、髪の毛を何度も指で整えた。風向きによっては、噴水の水が飛沫となって体にかかる位置だが、移動しようとは思わない。百合梨の意識は、悩みに悩み抜いて選んだ「一番かわいい服」を玲奈にどう評価されるのか、それのみにあった。

 まだ小学生だったころ、おしゃれというものに多少なりとも興味を持ちはじめて間もない時期に、ショーウィンドー越しに一目惚れして購入した一着だ。百合梨はその時点での所持金を全て費やし、不足分を母親に負担してもらった。親に迷惑をかけてでも欲しかった。

 かわいいと思ったのか、きれいだと思ったのか、自分にお似合いだと思ったのか。振り返っても曖昧なのだが、ポジティブな感想を抱き、強烈に惹かれたのはたしかだ。説明が難しい魅力が、そのすみれ色のワンピースからは発散されていた。

 商品が入った紙袋を胸に抱いて、百合梨は心を弾ませた。袖を通す瞬間が待ち遠しかった。外出するさいには必ず着ようと思った。「またその服?」と眉をひそめられたとしても、破れてぼろぼろになるまで着つづけよう、と。

 帰宅して自室に戻ると、さっそく身に着けた。自分が自分ではなくなった気がした。かわいいだとかきれいだとか、具体的な感想が浮かぶのではなく、ただただ変わったと思った。もちろん、いい意味で。

 傘のようにスカートの裾が広がる成功例をイメージしながら、その場で一回転しようとしたが、勢いをつけすぎて転んでしまった。顔を上げると、目を丸くした自分の顔が見返した。間抜けな顔も、その下の体を包むもののおかげで輝いて見えた。

 幼稚園児のように元気よく立ち上がり、思いつくままにポーズをとってみる。百合梨が考えるところの「モデルっぽいポーズ」を即興で演じたから、滑稽な姿形が映し出されたことも多々あったが、気にも留めない。自分が演者であり観客でもある時間がただひたすらに楽しかった。

 感情に突き動かされるままにちょこまかと動く。そうかと思うと、一転、鏡の中の自分をまじまじと鑑賞する。じっとしている時間が長くなると、最高の衣装をまとった自分を躍動させたくなってきて、気がつくとまた体が動き出している。

 実年齢よりも二・三歳も幼い子どものように浮かれはしゃぎながらも、百合梨はファッションショーを自分一人のものにしていた。着飾った姿を母親に見てもらいたい、という欲求が何度かちらついたが、実行には移さなかった。二度ほど、ドアノブに手をかけるところまでいったが、ドアを開く直前に翻意した。

 百合梨は他者から評価されるのを恐れていた。服は文句なしにかわいいが、身に着ける人間が魅力を欠く分、総合評価は決して高いものにはならない。彼女自身はそう考えていたし、他人の評価もどうせ同じだと決めつけた。心がかつてないほど昂っていたにしては早期に、ショーは閉幕を迎えた。

 以来、すみれ色のワンピースはクローゼットの中で歳月を消費してきた。母親から「あのとき買ってあげた服はどうしたの?」と尋ねられれば、それを名目に着たかもしれないが、一度も言われたことがない。自信はいつまで経っても追いついてくれない。最高の一着は、埃を被って賞味期限を迎える運命にあるはずだった。

 しかし、日曜日に玲奈といっしょに遊ぶ約束を交わしたことで、その存在を思い出した。転校してきてすぐにいじめを受け、自分への自信は磨り減っていく一方だったが、心を立て直す絶好の機会が生まれたわけだ。

 総じて地味で無難で没個性な持ち合わせの中、爽やかで気品ある美をたたえたその一着は、燦然と存在感を放っていた。サイズが合うかが心配だったが、杞憂に終わった。すっかり失念していたが、サイズは購入した時点で少し大きめだった。

 姿見の中の自分を見ても、小学生のころのような興奮は湧かない。しかし、ワンピースへの高い評価は不変だ。あのころは、自分は服に見合うような魅力的な人間ではない、という思いが強かったが、時間が経った今では、自分の魅力の乏しさを服が補ってくれる、とポジティブに考えることができた。

 外出の支度を進める中で、作業を一時中断して鏡の前まで行き、整える必要のない髪の毛を何度整えたかわからない。K駅までの所要時間を考えれば少し早かったが、半時間前に自宅を発った。

 玲奈の反応だけを考えていたならば、時間の経過は苦痛なまでに遅く感じられたに違いない。しかし本日の主の目的は、玲奈と二人で遊びに行くこと。今まで友だちがいなかった百合梨にとっては夢のような、薔薇色に輝く未来が待っている。それにまつわる空想を弄んでいれば、時間は矢のように過ぎていく。

 ふと気がついて携帯電話を確認すると、待ち合わせ時刻を三分過ぎている。

 周囲を見回したが、玲奈の姿はどこにもない。

 支度が長引いて到着が遅れているのだろうか? それとも、急な体調不良?

 心配になったが、そうはいっても遅れはまだ三分。急かすのも悪いと思い、携帯電話をハンドバッグにしまって空想を再開する。スロースタートだったが、一度入り込んでしまうと集中できた。世界に時間というものが流れていることを忘れた。

 再び我に返り、現在時刻を確認すると、午前十時が近かった。

 玲奈はまだ来ていない。

 なかば無意識に電話をかけようとしていた。あと一回タップすれば通話できるというところまで来て、人差し指が虚空に止まる。禁忌を犯そうとしているかのような、激しい抵抗感を覚えたのだ。葛藤が生じた。

 結局、電話はかけなかった。

 支度に手間取って出発が遅れているだけだ。きっともうすぐやって来る。

 約束の時間から半時間が経とうとしている状況で、その言い訳の苦しさは百も承知していたが、とにもかくにも十分だけ待つことにした。

 たかが十分なのに、消費するのに酷く苦労した。増えはじめた行き交う人々は、ことごとく楽しそうに笑っている気がした。

 結果は、虚しかった。

 以降は、光輝に満ちた未来を空想するだけの心のゆとりもなく、ただひたすら待った。手持無沙汰ではあったが、携帯電話をみだりに触らないように心がけた。マナーモードでもバイブはするので、連絡があればすぐにわかるのだが、一向に音沙汰がない。

 遅々とした時間の流れはもはや拷問に等しいが、それでも流れている。そんなことですらも今の百合梨には慰めになった。

 辛抱強く待った。玲奈ではない誰か、もしかすると実在する人物ではないなにかを待っているような気もした。

 食べ物の匂いの主張が強いことに不意に気がつく。携帯電話を確認すると、いつの間にか正午を回っている。

 空腹ではなかったが、侘しさを感じた。本来ならば玲奈と昼食を食べているころだと思うと、ますます侘しくなった。

 足を運ぶファッション関連の店については、そのときの気分で選ぶと申し合わせたにもかかわらず、昼食は玲奈がおすすめする店で食べると早々に決めていた。県内に何軒かの支店を持つ中華料理店で、目移りするくらいメニューが豊富なうえ、値段もお手ごろだという。

『美味しいのがたくさんあるから、いっぱい注文してシェアしたいよね』

 玲奈のその言葉に、家族以外の人間と、食べ物を分け合った経験が一度もないことに気がついた。

 玲奈という友人がいて、平日は毎日昼食をともにしているにもかかわらず、二人はおかずの交換をしたことが一度もない。百合梨は、いじめられること。玲奈は、樹音に従順な取り巻きを演じること。それぞれ溜め込んだストレスや鬱憤を晴らすべく、諸悪の根源を悪しざまに言うことにエネルギーを注ぐせいで、友人同士であれば当たり前にするささやかな交流を、無意識に二の次にしていたのだ。

 せっかくの機会が巡ってきたというのに、肝心の相手が来てくれないのであれば、シェアする以前の問題だ。上下の歯による圧力を押し返すような食感のエビチリも、透明な熱々の肉汁したたる小籠包も、口に入れる前からあんこの甘さが舌の上に広がるような胡麻団子も、空虚な食品サンプルでしかない。料理の匂いが色濃く漂っているあいだ、百合梨は惨めな気持ちから逃れられなかった。

 昼下がり、日射しが本日最高の鋭さに達したころ、遅まきながら空腹感が追いついた。屋外で過ごすのにちょうどいい気候は、日なたで過ごすには少々暑い気候へと移ろっていた。

 二つ、一気に苦痛の材料が増えたことで、百合梨は弱気に駆られた。泣きたい気持ちだが、涙は遠いような。自主的に降参するつもりはないが、タオルが投げ込まれるのを望む気持ちが頭の片隅にあるような。

 第一に、座りっぱなしで痛み出した尻を楽にしてやるために、第二に、尿意を解消するために、トイレに行った。もう帰ろう、と思いながら排泄し、ベンチに戻る。トイレへの行き帰りには、趣向を凝らした総菜パンなどを売っているパン屋の前を通った。「食べたい」と思ったが「買おう」とは思わなかった。

 とうとう陽が暮れはじめた。

 駅前を行き交う人々はみな百合梨に無関心だ。空は早回しをしたように赤さを増していく。夕焼けが始まったのはつい先ほどだったはずなのに、早くも夜の暗さが現れはじめている。

 午後六時を回ったのを潮に、百合梨は広場を後にした。

 彼女が得た一番の学びは、人を待つのは疲れる、ということだった。


 自分の部屋に入ると、百合梨は真っ先にすみれ色のワンピースを脱ぎ捨てた。

 夕食に呼ばれるまでの推定時間は約十五分と、中途半端だ。疲労感というよりも中途半端さに屈し、下着姿のままぼんやりとベッドの縁に腰かけているうちに気が変わり、脱ぎっぱなしにしていたワンピースをハンガーにかけてクローゼットにしまう。見えにくいように、他の衣服に隠れる位置に吊るした。

 夕食は奇しくも中華料理の餃子だった。百合梨は普段の三分の一ほどしか食べられず、両親から心配された。食欲がない、とだけ答えた。両親はそれ以上の追求はしなかった。

 部屋に戻ったあと、ふと思い立ち、すみれの花言葉をインターネットで調べてみた。

「小さな幸せ」だった。


 翌朝、遅くも早くもない時間帯に百合梨が教室に入ると、黒板いっぱいに自分が被写体となった写真が貼りつけられていた。

 待ちぼうけを食らって帰宅して以来、あらゆる情報が通り抜けていって身内に残らない、といった有り様だった彼女も、その光景の異様さには意識を吸引された。圧倒された。絶句した。

 写真に収まる百合梨は全員、すみれ色のワンピースに身を包んでいる。大半が浮かない顔で、そのうちの半数は疲れた顔をしていた。背景がまだ明るく、待ちはじめて間もないと思われるにもかかわらず、疲れた顔をしている写真も何枚もある。

「来た、来たよ。友だちゼロ人の寂しい女が」

 川真田樹音が教室の外にも聞こえそうな大声で言った。今日も自席でふんぞり返り、取り巻きたちをはべらせている。

 その中には、神宮寺玲奈もしっかりといる。他の仲間と同じく、にやつきながら百合梨を見ている。

 一日のごく限られた一部とはいえ、平日は毎日ともに過ごしてきた百合梨には、わかった。わかりたくなかったのに見抜いてしまった。

 玲奈は樹音に嫌々付き従っているわけではない。どんなに演技が巧みだとしても、「友だち」に向かってあんな顔は作れない。

「昨日あんな目に遭っておいて、よくのうのうと登校できるね。凄いよ、あんた。ある意味凄いよ」

 小馬鹿にしたような短い笑声を挟んで、樹音は大声で、さも愉快そうに種明かしをした。

 玲奈は演技が巧みで、好意を抱いていない相手にもフレンドリーに振る舞える。その特技を活かして、百合梨により深いダメージを与えてやろうと樹音たちは目論んだ。名づけて、偽りのトモダチ作戦。「実は私も川真田樹音の被害者だ」と虚偽の申告をし、仲を深め、充分な友情と信頼を得たところで突き放す、というわけだ。

 玲奈が過去に樹音たちからいじめられていたというのは、嘘。実際には、玲奈と樹音は中一のときに同じクラスになったのを機に仲よくなり、嗜虐心の赴くままに他の生徒に数々の加害行為を働いてきた、悪友同士だ。

 おしゃれをさせたうえで待ちぼうけを食らわせるという仕打ちをフィナーレに選んだのは、偽りのトモダチとして接する中で、百合梨が昔から友だちがいたことがなく、おしゃれに疎いという情報を得たから。

 写真は全て盗撮で、日曜日に暇だったメンバーが交代でカメラマン役を務めた。まさかあんなにも長時間待ち合わせ場所に留まるとは思わなかったが、おかげでいい写真がたくさん撮れた。

「誰も来ないとは知らずに真剣な顔して待っちゃって、凄く滑稽なんだけど」

「おしゃれしてくるって玲奈と約束した割に、そんなにかわいくないよね。一枝、ファッションセンスなさすぎ」

「九時から六時までベンチで座ってたの? そのあいだ、まさか食事もトイレも我慢してたわけ? ただの馬鹿じゃん」

 嘲笑と悪罵はやむ気配がない。

 百合梨はなにも考えられない。教室に前後二枚ある戸のうちの一枚の前で佇んでいるせいで、教室を出入りする者の邪魔になっていると気がつかなければ、永遠にでもその場に立ち尽くしていただろう。

 写真を黒板から取り外す役目は、被害者である百合梨本人に一任された。作業の模様を、樹音たちは滑稽なショーでも観覧するように眺める。他の生徒たちはみな、俯いて押し黙っている。

「はい、ご苦労さま」

 集められた写真を受けとった樹音は、わざわざ椅子から立って百合梨を蹴飛ばした。男子たちがふざけるときに放つような蹴りは、右膝の側面に命中し、百合梨はその場にくずおれた。リアクションが大げさだと思ったらしく、樹音は険しい顔つきで睨み、今度はふくらはぎのあたりを蹴る。そして、手にしていた写真の束をばらまいた。百合梨の脳裏を「青春」の二字が過ぎった。拾い集めるのはもちろん百合梨だ。

 作業しているあいだ、百合梨はひっきりなしに、教室の後方の書道作品からの視線を感じた。強面だが愛嬌のある作品、つんと澄ましたような作品、神経質そうな作品。様々ある中で、百合梨が書いた「青春」だけが赤字でしたためられているのが注意を惹く。

 しかし、無視した。自分の作業で精いっぱいで、異常に向き合うだけの心のゆとりがなかった。

 拾い集め終えるよりもチャイムが鳴るほうが早かった。教室に来た生物教師の今村は百合梨を注意した。それを受けて発生した複数の笑い声を、今村は自分が対象だと誤解したらしく、「授業が始まっているんだから静かにしなさい」とピントのずれたことを口走った。

 今度こそ集めた写真を樹音に手渡し、百合梨は自席に戻った。


 その日一日、百合梨は樹音たちから笑いものにされた。クラスメイトは敵か傍観者しかいないため、全員から笑いものにされているように感じた。

 攻撃は執拗だった。攻め手には事欠かさなかった。なにせ十数日に及ぶ「偽りのトモダチ作戦」によって、樹音たちは百合梨の個人情報とエピソードを大量に入手している。なおかつ、百合梨が他愛のない失敗談として玲奈に打ち明けた過去を、本人の心を深く抉る話へと巧みに仕立て上げる能力を彼女たちは有している。滑稽な聴き間違いは知能の低さの表れと解釈され、遅刻の実績は怠惰な証拠と糾弾され、親子喧嘩の原因は子の精神的未熟さにあると決めつけられる。

 百合梨は耐えがたきを耐えるに終始した。


 衝撃だった。

 玲奈は清らかな動機から百合梨に接近したわけではないと隼人は踏んでいた。しかし、まさか、「川真田樹音は一枝百合梨が転校してくる以前、今は同一グループに属している神宮寺玲奈をいじめていた」という嘘をついて、百合梨を騙していたとは思いもよらなかった。

 百合梨は玲奈と知り合って日が浅いから、そんな見え見えの嘘にも気づけなかったのだ。交友関係の狭さゆえに、嘘を知る機会に恵まれなかったのだ。

 友だちのふりをされる。裏切られる。友だちのふりをしていた期間に得た個人情報をもとに、嘲られ、蔑まれ、罵られる。

「……最悪だ」

 苦虫を噛みつぶしたような顔で隼人は吐き捨てた。

 彼には百合梨の苦しみが手にとるようにわかった。なぜならば隼人も、友だちと呼べる関係の人間を持ったことがない。孤独な人間の心情には深く共感できる。自分を百合梨の立場に置き換えて想像を巡らせるなどという、煩わしいひと手間を挟むまでもなく。

 下校をともにする百合梨と玲奈を尾行したときのことが思い出される。

 あのときの百合梨は心から楽しそうだった。玲奈を友だちだと信じて疑っていない笑い顔であり、はしゃぎ声だった。

 あれが頂点だとすれば、今現在百合梨がいる奈落の底とは、目が眩むほどはるかな懸隔がある。突き落とされたダメージは大きかっただろう。どん底から食らう攻撃のダメージは大きいだろう。

 一枝さんは自ら命を絶つかもしれない。そんな危機感さえ隼人は抱く。

 その兆候を見てとったわけではない。ただ、今回レベルのいじめが今後も続くなら、近い将来に自殺という問題解決手段を閃き、傾倒し、囚われ、決行したとしてもなんら不思議ではないな、とは思う。

 樹音や玲奈に対する憤りの念は当然ある。特に玲奈は、今すぐにでも胸倉を掴んで顔面を殴り飛ばしてやりたいくらいだ。

 一方で、行動を起こす気力を奮い立たせられない現実がある。隼人は樹音たちを強大な敵だと認識しているし、トモノリに返り討ちにされた傷はいまだに癒えていない。

 必然に、隼人の注意は百合梨に引き寄せられる。いじめられる合間に授業を受けているような彼女の一挙手一投足に意識を注ぐ。

「助けて」のサインを送ってくれれば、臆病な俺でも勇気を振り絞れるかもしれない。だから、頼む。一枝さん、形はどうだって構わないから、俺に明確なSOSを送ってくれ。

 そんな祈りにも似た願いも虚しく、百合梨は呼吸する死人のように有限の時間を空費しつづける。


 隼人も百合梨も行動を起こさないまま、放課後を迎えた。

 あれほど執拗に百合梨を虐げたのが幻だったかのように、樹音たちは樹音グループの専属いじめられ役をほったらかしにして、仲間内での談笑に現を抜かしている。内容は聞きとれても記憶に残らないような、世にもくだらない話。まるで無駄話のほうが大切だと暗に主張することで、百合梨を遠回しに貶めているかのようだ。

 被害から解放されたという意味では手放しで喜ばしい――と言いたいところだが、隼人は素直に喜べない。肩を落として教室から去っていく後ろ姿は陰々滅々としていて、精神的な疲弊は一目瞭然だからだ。雑木林かどこかにふらりと立ち寄って首でも吊りそうな、そんな雰囲気がひしひしと感じられる。

 まさか、とは思う。しかし、そのまさかが現実と化した場合のことを想像すると、背筋が寒くなる。確率がたとえ一パーセントを切っているのだとしても、とても無視できない。

「……よし」

 尾行しよう。そうするべきだ。これまでもそうしてきたという意味でも。もし百合梨がなんらかの思い切った行動に踏み切った場合、即座にそれに干渉し、彼女の心身を救済すれば、二人の関係に進展が期待できるという意味でも。

「おい、森嶋」

 物理的に背中にぶつかってきたような声に、教室から出ていこうとしていた隼人の体は停止する。旧型のロボットのような動きで振り向く。

 川真田樹音たちだ。

 樹音の自席を取り巻きたちとともに囲むという、いつもの陣形。もちろん玲奈もその中にいる。全員、嘲りと侮蔑の色を満面にたたえている。さながら、隼人が日常的な虐待の対象であるかのように。

「森嶋、お前さぁ、一枝に気があるの?」

「は? なんのこと?」

 地震の揺れを体験できる装置の中に放り込まれたように、心が大きく横揺れした。返事ができたのが不思議なくらいだ。樹音の薄ら笑いの濃度が増した。

「とぼけるなって。前々から気づいてたけど、森嶋って一枝のことを観察してるよね。休み時間中はもちろん、授業中でも。誰にもばれないように、さり気なく、上手くやっているつもりなのかもしれないけど、結構目立ってるよ。当事者ではない人間にはばればれ」

「森嶋は一枝のどこが好きなの? あのブスのどこがいいの? 本人不在だし、思う存分語っちゃいなよ」

 樹音に続いて、玲奈が半笑いで言葉を投げかけてきた。

 幼なじみとして仲よくしていたころ、玲奈は森嶋隼人を「隼人」と呼んでいた。名字を呼び捨てするようになったのは、中学校進学を機に樹音と付き合うようになってからだ。そして、「偽りのトモダチ作戦」実行中は「ゆりりん」と親しげに呼んでいたくせに、ごっこ遊びが終わったとたんに名字を呼び捨て。作戦実行前は名字をさん付けだったから、元戻りどころか悪化している。変わり身の早さ、表面的な明るさの裏に秘められた酷薄な一面に、彼は慄然とした。

「おい、なにぼーっとしてんの。こっちは質問してるんだから、答えろよ」

「一枝さんのことは、別にどうも思っていないよ。ただのクラスメイトだ」

 想いを偽った後ろめたさは微塵もない。今、隼人が意識しているのは、我が身を守ること。この場を切り抜けるために、波風を立てないように慎重に受け答えをする。その二つだけだ。

「川真田さんたちにはそう見えたかもしれないけど、俺は一枝さんのことはなんとも思っていない。本当になんとも思ってないから」

「そう? 怪しいな。必死になって弁解してる時点で」

「弁解っていうか、事実を言っているだけだから」

「ああ、そう。じゃあ、うちのクラスに一枝の味方はいないってことでいいのかな? そういうことなら、よかった。思う存分痛めつけられるから」

 樹音は世にもおぞましい、邪悪とした形容しようのない笑みに口角を吊り上げ、取り巻き一同の顔を順番に見た。見つめられた先から、彼女たちの顔にはリーダーそっくりの微笑に変わる。

「玲奈のおかげでネタもたくさん仕入れたことだし、これからあたしたちは、今まで以上に激しく一枝を虐待しようと思ってる。今後は面白い光景が見られると思うよ。学校に来るのが楽しみになるくらいの」

「そんな……。そんなこと、許されるはずが……」

「なんだよ、森嶋。お前、一枝はどうでもいいって言ったよな。だったら余計な真似、するなよ。したらどうなるか、想像くらいつくよね。お前が想像しているとおりのことをお前にするつもりだから、それが嫌なら言うことを聞け。わかったな」

 この目だ、と隼人は思う。眩しいまでにぎらついた、攻撃的で凶暴な瞳。樹音のこの瞳に睨まれると隼人は、蛇に睨まれた蛙と化す。

 恐ろしい、危害を加えられる、危害を加えられたくない、服従しなければ――。

 そんな気持ちで頭がいっぱいになり、望んでいない要求にも首を縦に振ってしまう。

 これまで森嶋隼人のクラスにおける立ち位置は、いじめっ子でもいじめられっ子でもない、その他大勢。樹音と接触する機会はほとんどなかったが、こうして面と向かって言葉をぶつけ合ってみて、川真田樹音という人間の恐ろしさの本質を理解できた気がする。

 百合梨に不利益をもたらす行動をとる罪悪感は当然ある。しかし、否も応もない。樹音の眼差しには強制力がある。逸らすことができない。

 隼人が首を縦に振ると、樹音は満足そうにうなずいた。そして、一同を促して教室を出て行った。

 一人きりの教室で、隼人は己の無力さに打ちひしがれる。一枝百合梨をいじめの被害から守りたい。その願いは以前から抱いていたのに、上手く立ち回れば悲願の成就に繋げられたかもしれないのに、彼女の利益になるようなことはなに一つできなかった。

「……俺は」

 なんて情けないやつなんだ。

 一枝さんがどこまで苦しい思いを重ねたら、俺は踏み出せるんだ?

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