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森嶋隼人は、百合梨と玲奈が秘密裏に交流の機会を持っていることを、百合梨を尾行して知った。
ブナの木陰に玲奈の姿が消え、間を開けずに百合梨と玲奈の話し声が聞こえてきたとき、隼人は鋭利な刃で心臓を貫かれたような衝撃を受けた。百合梨の声は、彼がこれまで聞いた中では飛び抜けてはしゃいでいたからだ。視界が見る見る明らんでいくような、瑞々しく健康的な声は、別人が発しているのかと錯覚されたほどだ。今日の弁当のおかずについて。日々のささいな出来事。他愛のない、くだらないといってもいい話題を、よくぞこうも愉快そうに軽やかに話せるものだと、心の底から感嘆した。
もどかしいような物寂しいような孤立感を隼人は覚えた。たとえるなら、中州に一人取り残され、脱したくても急流のせいで果たせないでいるかのような。
二人がいる場所からは独特の近づきがたさが感じられる。周囲には雑草が放逸に生い茂っていて、突っ切っていくとなると嫌でも音が立ちそうだからでもあるが、それ以上に、醸し出されている雰囲気が部外者を断固として拒絶している。
声に耳を傾けているうちに、聞き耳を立てることすらもおこがましい気がしてきた。
短いが濃密な葛藤を経て、忍び足でその場から離れる。俺も昼食を食べないと、午後の授業に支障を来すからね。そんなつまらない正当化の言葉を心の中で吐きながら。
翌日、翌々日も百合梨のあとをつけ、二人が談笑しながら昼食をともにしているのを確認した。隼人の知らないうちに、なんらかの目的があって、あるいは偶然から、二人が急速に距離を縮めたのは疑いようがなかった。
それを受けて、二つの問題が浮き彫りになった。
一つは、嫉妬。
隼人は、想い人である百合梨を玲奈に横取りされたように感じ、玲奈に嫉妬した。彼と百合梨との関係は現状、クラスメイト以外のなにものでもないという現実を忘れて。
二人の親密ぶりが発覚したあとも、彼は昼休み時間になるたびにブナの木まで足を運ばずにはいられなかった。しかし、近づきがたい空気に屈して、百合梨がどんな顔をして玲奈と話をしているのかを、いつまで経っても自分の目で確かめられない。聞き耳を立てることにも抵抗感を覚えるため、その場にいられるのはせいぜい五分。得られる情報が極めて限定的であるという制限が、彼の持病である妄想癖を煽り、想像力を暴走させた。
数々の妄想の中でも、隼人を煩悶させたという意味では、二人は同性愛者であるという疑惑の右に出るものはない。
何者も寄せつけない・立ち入らせない秘密の花園という環境、十四歳の旺盛な肉欲、ならびに短絡思考。それらが混ざり合ったことにより、必然のように脳内に展開した桃色絵巻は、妄想の原動力である性衝動を満足させる反面、嫉妬の炎で隼人の心を焼いた。幼なじみだが今は疎遠という関係の神宮寺玲奈が相手役だからこそ、火勢は強かった。彼にとって初体験となる甘美な苦しみだった。
もう一つは、神宮寺玲奈。
玲奈は川真田樹音率いるグループの中枢を担う人間だ。百合梨にとっては憎むべき敵だ。さらには、玲奈の幼馴染である隼人は、玲奈が企みを内に秘める少女だと知っている。裏表のある性格だと知っている。
隼人は、玲奈は百合梨に新たな地獄を見せるべく、悪意を隠して百合梨に接近したのだとしか思えなかった。証拠は掴んでいないが、命じたのは間違いなく樹音だろう。
一枝さんを助けたい。玲奈の、川真田樹音の、恐ろしい企みを挫きたい。
思いは決して弱くなかったが、行動を起こす気にはなれない。それどころか、具体的な計画を練ることすらも。想いを寄せる少女と、以前は親しかった少女が、無毛の陰部をこすり合わせて官能の喘ぎを断続的に漏らす。そんな光景を思い描くことに逃避し、自慰に耽って一人で満足している。
森嶋隼人は十四歳で、臆病な少年だった。
そんな彼を、彼らしくもなく攻撃的にさせる人間が一人だけいた。
トモノリだ。
玲奈と昼休みのひとときを共有するようになってからも、百合梨とトモノリの放課後の交流は継続した。いじめられる日々を生き抜くうえでの慰めとしてトモノリと付き合っているのではないか、という考えに傾きつつあった隼人は、再考を迫られた。玲奈は放課後には樹音と行動をともにするから、その埋め合わせをしているだけかもしれないが、その解釈はなにか違う気がする。
隼人は大多数のK町民のように、トモノリは孤独な変人だと認識している。百合梨と交流する姿を見て認識は揺らいだが、「孤独な変人」に代わる新しいキャッチフレーズは見つけられていない。
トモノリという存在自体が特殊で、名状しがたいからでもある。しかし最大の要因は、トモノリ自身にさほど関心がないからだ。
隼人は、百合梨の関係者だからこそトモノリに注目した。一枝さんが恋している男、一枝さんの暇つぶし相手、一枝さんが川真田樹音たちから受けているいじめについて相談している大人。「一枝さん」と頭につけさえすれば、いくらでもトモノリを定義できる。
逆に言えば、彼が一人でいる姿は鮮明に想像できない。二人のツーショットを目撃するまでに隼人が目撃したトモノリは、いつも一人きりだったはずなのに。
百合梨とトモノリを結びつけているのは、トモノリに対する百合梨の恋心。
この解釈は、百合梨に恋い焦がれる隼人にとっては不都合だ。町民たちから低く見られている人間だからこそ、なおさら恋の対象であってほしくない。
隼人としては、トモノリは魯鈍な男だと思い込みたかった。百合梨は己の精神状態を安定あせるために利用しているだけで、十代の少女の恋愛対象には値しない人間だと。
しかし、無理があった。
トモノリは言動にほとんど感情を込めないという意味で、隼人が定義する魯鈍な人間に属する。しかし、工作をする姿は活き活きとしていた。手際がよく、洗練されている印象を受けた。百合梨と会話するさいの、唇が滑らかに動くさまや、彼女のリアクションを見た限り、語り口はなかなか巧妙のようだ。
だからこそ、隼人はトモノリに対して攻撃的な気持ちになる。
なにか襤褸を出さないだろうか。たとえば、浅ましい下心から一枝さんに危害を及ぼそうと試みる、だとか。そうすれば、心置きなくあの男を征伐できるのに。
隼人が百合梨とトモノリを同時に想うとき、決まっておどろおどろしい破壊衝動が伴う。
玲奈にもトモノリにも嫉妬する彼は、行き場のない感情の捌け口を無意識に求めていた。
放課後、百合梨と玲奈は初めて下校をともにすることになった。樹音が別のクラスの女友だちといっしょに帰るということで、残された玲奈たち取り巻き一同は、相談の結果ばらばらに帰ることになったのだ。
「残りもの同士で集団行動をとるんじゃなくてさ、たまには各自勝手に帰る形式でよくない? どうせ明日以降またいっしょになるんだから」
そう発言して、どっちつかずだった一同の気持ちを確定させたのは、玲奈だった。
玲奈は樹音が不在の場合、リーダー的な役回りを演じることが多い。樹音のように有無を言わさない暴君として振る舞うのではなく、言葉を巧みに操り、みなの言動を自らが望む方向に誘導するのだ。しかもそれを、みなからの恨みを買うことなく、玲奈が犯人だと悟られずにやってのける。彼女のそのような一面を知っている隼人でなければ、場をコントロールしているのが神宮寺玲奈だとはまず気がつけないだろう。
玲奈はこの機会を利用して、百合梨と時間を共有しようとしている。隼人はそう看破した。
先に教室を出たのは玲奈で、百合梨に目で合図を送ったのを隼人は見逃さなかった。少し遅れて教室を後にした百合梨を追跡すると、案の定、校庭の隅の秘密のベンチへ向かった。玲奈が待っていたのも予想どおりだ。
玲奈はすぐさまベンチから立ち、二人は肩を並べて移動を開始した。自転車通学の百合梨のために駐輪場に寄り、それから正門を潜る。
二人は話に夢中で、後方を含む周囲への注意が疎かになっている。現在は下校時間。同じ方向に向かう生徒であふれていて、流動的な障害物となっている。尾行するにはうってつけの環境というわけだ。
二人は和気あいあいと言葉をやりとりしている。古くからの親友同士といった雰囲気で、嫉妬の念が腹の底で蠕動する。
サツキツツジが咲き誇る通りに入ったのに前後して、二人のあいだでこんなやりとりが交わされた。
「そういえば何日か前、わたしの自転車のタイヤがパンクしていたことがあったよ。前輪なんだけど」
「そうなの?」
「そうなの。行きは全然問題なくて、帰りに前のタイヤがおかしくなっているのを見つけて、それで気がついて。証拠はどこにもないから今までなにも言わなかったけど、あれは多分、っていうか絶対に川真田さんたちの仕業だよね」
「百パーセントそうだと思う。私は立ち会わなかったんだけど、何日か前に樹音が『一枝の自転車に細工しておいた』みたいなことを言ってた記憶がある」
「そうだったんだ」
「うん、たしかに言ってた。自転車を一台だけ倒すとか、その程度のくだらない悪戯だろうと思っていたんだけど、まさかそんな悪質な真似をしていたとはね。パンクを見つけたあと、ゆりりんはどうしたの? 先生に助けを求めた?」
「ううん、押して帰った。なんていうか、被害に遭ったのに現場に長居したくなかったから。わかるかな? この気持ち」
「わかる気がする。今は直ってるみたいだけど、大変だったんじゃない?」
「うちの父親が工場で働いていて、機械の修理的なことは得意なの。その日のうちに直してもらったから、ほんと助かった」
「不幸中の幸いってやつだね。ていうか樹音たち、最悪だよね。やることが酷すぎる。普通に器物損壊じゃん」
「だよね。わたしには運よく直してくれる人が身近にいたけど、そうじゃなかったら大変だったと思う。修理代だってかかっただろうし」
会話が続いているあいだはのめり込んでいるようにも感じられたが、呆気なく次の話題に移った。暗い過去なんてどうでもいい、今が明るく輝いているのだから。そう暗に表明するかのような切り替えの早さだった。
――二人は充実した青春を送っている。
隼人は上下の歯をすり合わせ、自分にしか聞こえない不協和音を奏でた。
二人の少女は三叉路を左に進む。
隼人の足は分岐点で止まる。
演技がかった挙動で肩を落とし、ため息をつく。そして、未練がましそうに左に続く道を数秒間睨んだのち、右の道へと進む。
「……あの二人を」
どうにかしなければ。俯き、ふてくされたように靴底でアスファルトの路面を蹴飛ばしながら、隼人は道を進む。
玲奈は川真田のグループに属する人間だ。よからぬことを企んでいるに決まっている。一枝さんと親密な関係であっていいはずがない。なにも知らない一枝さんに代わって、俺がなんとかしないといけない。
問題なのは、玲奈は口が上手いということ。
幼なじみで、以前は親しかったから、会話の機会を作るだけならなんとかなる。ただ、果たして、玲奈を説き伏せられるのか。
言葉のぶつけ合いという形式での戦いで、玲奈を負かすビジョンを隼人は描けない。樹音の命令を受けての接近なのだとすれば、勝利を得るのはなおさら難しそうだ。説得が不首尾に終わり、玲奈が隼人の行動をリーダーに告げ口したならば、彼は確実に樹音の新たなる虐待の対象へと昇格する。
「……嫌だ」
その事態だけは避けたい。いくら愛する人と同じ立場でも、被害者はごめんだ。
しばし無心で歩く時間が続いた。やがて、日常からは少し距離を感じる物音を聞きとり、足を止めて顔を上げる。
トモノリだ。何枚もの木板が重ねられた束の横で、地面に片膝をついてハンマーを振るっている。腰をかけるのに適当な大きさの木製の箱が、彼のかたわらに七・八個置かれている。
ハンマーを振るう手が止まり、トモノリは隼人のほうを向いた。手を動かしていたときも、隼人の姿を視界に捉えてからも、無表情なのは変わりがない。
トモノリは視線を手元に戻し、作りかけの箱を九十度横方向に回転させた。作っているものの上部に板を宛がう。角と角を合わせる指づかいはいかにも繊細だ。左手で上の板を押さえ、右手でリズミカルにハンマーを叩きつける。ほんの軽く振るっているように見えるのに、高く心地よく音が響く。
隼人はトモノリへと歩を進める。
足を交互に動かしながら、彼は困惑していた。自分で自分の行動が信じられなかった。あのトモノリに自分から接触しようとするなんて。
しかし、やけに明瞭に立つ靴音を聞いているうちに、肝が据わってきた。一枝さんを悩ませる二大勢力のうちの一角を、この俺の手で潰すのだ。そう思ったあとで、それこそが原動力なのだと悟る。
足音はトモノリにも聞こえたらしく、作業の手を止めて再び隼人に注目した。唇が薄く開いた顔は、呆気にとられているように見えなくもないが、総合的には余裕が感じられる。隼人にとってその態度は癪に障ると同時に、重圧でもある。弱気の虫が腹の底で蠢きはじめたが、腹筋に力を込めて鎮圧する。
直線距離にして五メートル弱まで迫ったところで足を止める。トモノリがいきなりハンマーを投げつけてきたとしても、両腕でガード可能な間合いだ。
「君、どうかしたの?」
トモノリの声にはありとあらゆる感情がこもっていない。すべすべした印象で、しかし触り心地がいいわけではなく、むしろ気持ち悪い。たとえるならば、鱗一枚ない深海魚のような。
「どうかした、じゃないんだよ。あんた、一枝百合梨っていう女子生徒、知ってるか」
「知っているよ。僕が最近よく話をする女の子だね。K中学校の生徒で、二年生だと聞いているよ。その一枝さんがどうかしたの?」
「とぼけるな。お前はたった今、一枝さんとよく話をしていると言ったけど、それについて俺は物申しに来たんだ」
声を荒らげたかったが、できなかった。実際に会話をしてみたからこそ伝わってくる、薄気味悪さに頭を抑えつけられたのだ。
「一枝さんと会話する機会を作って、お前はいったいなにを企んでいるんだ? どうせ人には言えないような、やましいことなんだろう。こんな人気もない、人通りもめったにない場所で。ドアを閉ざせば叫んでも声が漏れなさそうな、立派な小屋まであるしな。改めて訊くぜ。一枝さんになにをしようと企んでいるのか、言ってみろ。返答次第ではただじゃおかないぞ」
「君は、どうしてそんなことを訊くの?」
「クラスメイトだからだよ。俺は一枝さんのクラスメイトだから、彼女のことが心配なんだ。ていうか、質問に質問で返すなよ。はぐらかさないで答えろ。今すぐにだ」
不意打ちで問われて軽く動揺してしまったが、持ちこたえた。一歩も引けをとっていない。どんな言い訳がましい言葉を返してくるのか、臆することなく待ち構える余裕さえ生まれている。
でも――と、隼人は自問する。
なにをもってして、この男を打ち負かしたことになるんだ? 俺が勝ったことになるんだ?
「僕と一枝さんの関係を君が知ったのは、君も一枝さんと親しいからなんだろう」
トモノリの平板な声が束の間の沈黙を破った。
「だったら、一枝さんに直接尋ねたほうが確実なんじゃないかな。だって、さっきまで赤の他人だった僕よりも、クラスメイトで、しかも君とある程度親しい一枝さんのほうが、発言が信用できるんじゃない?」
隼人は息を呑んだ。はっ、という音声が実際に発されたかのような、大きな息の吸い込みかた。
正論だ。なにも言い返せない。
「彼女がどう答えるかはわからないけど、なんと答えたとしても、それが真実だと僕は思うことにするよ。だから、僕じゃなくて一枝さんに訊いてみてほしい。一枝さんの答えが君の欲している真実だから」
トモノリは今になってやっと気がついたとでもいうように、右手に握っていたハンマーを静かに足元に置いた。そして、色のない瞳で隼人を見つめる。
隼人は居たたまれなくなり、トモノリに背を向けて駆け出した。
道に出たころには早くも息が切れている。アスファルトと土の硬度の差につんのめりそうになったが、かろうじて踏ん張った。そしてまた走り出す。全力疾走。最悪でもトモノリの視力が及ぶ範囲内から脱するまで、足を素早く交互に動かすのをやめたくない。走って、走って、走りつづける。
情けなかった。トモノリに見事に返り討ちに遭ったことも。一枝百合梨にトモノリとの関係を問い質すことができず、悶々とした日々を送るだろうことも。
足りないのは、勇気。圧倒的に勇気。
俺は、どうすれば勇気を奮い立たせられるんだ?
「日曜日に二人で遊ばない?」
百合梨は弁当箱から卵焼きを掴み出そうとしていた箸を止め、玲奈の顔を見つめた。見つめられたほうは、手にしているレタスとチーズのサンドウィッチを一口かじってから理由を説明する。
「放課後いっしょに帰るとか、こうしてお昼をいっしょに食べるとかはあるけど、どっちも短時間でしょ。だから一回、がっつり遊んでみたいなって。ゆりりんはどう思う?」
「遊びたい! むちゃくちゃ遊びたいよー、玲奈といっしょに」
静かな興奮が全身を覆っている。性質と同じように静かに、徐々に高まっていく類の興奮だ。
いっしょに遊ぶ。それができる関係こそが友だちだ、と百合梨は思う。休み時間に会話を交わすクラスメイトであれば、転校する前の中学校にもいた。玲奈と昼食をともにしたときも、下校をともにしたときも、嬉しかったし心が昂ったが、交流を重ねていけば必然に体験できるイベントだという認識だった。
しかし、「休日にいっしょに遊びに行く」は一味違う。大げさな表現を用いるなら、一線を越える行為だと感じる。
「玲奈、この町に遊べる場所ってどこがあるの? 引っ越してからあちこち遊びに行ったわけじゃないから、全然詳しくなくて」
「町内? 違う、違う。町を出るんだよ。この町にろくな商業施設なんてないから、街まで遠征するの。街というのはT市のことね。この町の中学生は、休日に出かけるときは必ずそうするよ。だから私たちもそうするの」
町を出る。
百合梨はその一言から、玲奈が伝えたかっただろう以上の意味を受けとった。可能ならば、話の続きをいったん待ってもらい、区切りがいいところまで考え込みたい気持ちですらあった。
町を出る。
トモノリと知り合う以前――家族への不満を募らせ、樹音たちからのいじめに心を陰らせるばかりだった暗黒時代――百合梨はその発想を一度たりとも抱かなかった。
「ゆりりんはS市出身だったよね。T市駅前にはあまり行かなかった感じ?」
「そうだね。一番発展しているのはT駅周辺だけど、S駅前もそれなりに充実しているから、それで満足しちゃって」
「まあ、距離の違いもあるしね。そういうことなら、いい感じのお店、私が紹介してあげるよ」
「ありがとう。楽しみにしてるね」
「ということは、オッケーなんだね。いっしょに遊んでくれるんだ」
「もちろん!」
玲奈の表情が一段と明るくなった。その胸がときめくような愛らしさに、百合梨は思わず箸を放り出して両手で握手を求めた。玲奈は面食らったような表情の変化を見せたが、すぐに彼女らしい朗らかな笑顔を取り戻し、差し出された手を握りしめた。
二人は見つめ合い、まずは玲奈が噴き出した。ツボに入ったのか、校庭の隅まで届きそうな声で笑うので、百合梨も釣られて笑ってしまった。
初めて、休日に友だちと遊びにいく。
K町に引っ越して初めて、K町の外に出る。
ただ二人で遊んで「楽しかったね」だけでは収まらない、大きな収穫を得られる一日になりそうな予感がする。
その日の帰宅後、百合梨と玲奈は連絡先を交換してからもっとも長時間電話で会話した。明後日に迫った遊びに行く予定の詳細を決めるためだが、脱線も頻繁に起きた。しかし二人とも、逸脱した流れをすぐに正そうとはしない。思いがけず現れた光景をともに楽しみ、本来の目的をなかば忘れてはしゃぐ自分を自分で笑った。横道に逸れているからこそ感じられる愉快さを自然体で味わった。
「行く店? まあ、そのときの気分次第でいいんじゃない。別に事前にきっちり決めておく必要はないよ」
待ち合わせ場所、待ち合わせ時間、利用する交通機関。次から次へと決定事項が増えていく中、本丸とも呼ぶべき具体的な行き先についての議論に入って早々の玲奈の発言だ。
詳細まで詰めておきたい百合梨に対して、玲奈はゆとりを持たせたがる傾向にある。そのいい加減さにやきもきすることもあったが、やりとりを重ねるうちに、逆に頼もしさを感じるようになった。百合梨よりもK駅前について詳しい玲奈が、「いい加減でも差し支えない」と豪語するのだから、きっと差し支えないのだろう、と。
「そうだよね。玲奈の言うことに一理あるかも」
「でしょ? ちなみに、現時点でどこに行きたいっていう希望はある? 私はね――」
いくつかの店の名前が挙げられたが、百合梨は薄く苦笑して首を傾げた。
「ごめん、ぴんとこない。そもそもわたし、ファッションには疎いから。名前は聞いたことある気がするけど、どの年齢層向けのどういう雰囲気の店なのか、全然イメージできないよ」
「えー、そうなんだ。それって、ちょっと心配になる疎さだね」
部屋の空気が少し下がった気がした。逆に、体は今にも汗が流れ出しそうに熱せられた。
樹音率いるグループの女子は、よくファッション関係の話に花を咲かせている。樹音はまだ中学二年生だがメイクをばっちり決めているし、休み時間にファッション雑誌を机に広げている光景をよく見かける。玲奈たち取り巻きたちもその手の話題には嬉々として参加している。
一方の百合梨は、関心がないわけではないが貪欲ではない。ファッションに関する知識やテクニックは、同年代の同性と比べて大きく遅れをとっているものと思われる。
失望されただろうか? 友情が壊れる遠因にならないだろうか?
「でも、詳しくないとか言っておいて、びっくりするくらいセンスがいい子とか普通にいるからね。ゆりりんがどのくらいおしゃれかを知りたいから、当日は一番かわいく見える服を着てきてよ。ファッションチェックしてあげる」
「着飾ってこいという意味? それは、なんていうか……」
「なに怖気づいてるの? お出かけするときにせいいっぱいおしゃれするって、普通でしょ。別に、どんな格好してきても笑わないよ。絶対に笑わない。だから日曜日は絶対に気合い入れてよね」
「笑わない? ……ほんとに? がんばりたいとは思うけど、所詮はわたしのセンスだから、玲奈が見たらどう思うかわからないよ」
「そんなの、誰の場合でも同じでしょ。とにかく日曜日の朝は、精いっぱいおしゃれをして待ち合わせ場所まで来ること。わかった?」
「わかった」とおうむ返しに返事をすると、玲奈は「楽しみにしてる」と言って別の話題に移った。
夕食を終えてからずっと、もうじき就寝時間だというのに、隼人は机の上の片づけばかりしている。
隼人が机上の混沌を解消するのは、物理的なスペースを確保するためではなく、己の精神を落ち着けるためだ。とはいえ、今宵のそれは退廃的すぎると我ながら思う。ブロックスライディングパズルの要領で、いくつかの物の位置を次から次へとランダムに替えていくのなら、まだ片づけている感を出せる。しかし今日は、A地点に置かれているペン立てと、B地点に投げ出されている数学の参考書の位置を、延々と交換しているだけ。
あまりにも心配事が大きすぎると、独自に考案した精神統一方はまるで役に立たないのだと、彼は思い知った。
隼人をこんなにも悩ませているのは、一枝百合梨と神宮寺玲奈のこと。
神宮寺玲奈は川真田樹音のグループに属している。裏表のある性格も、裏の性格の悪辣さも、玲奈の幼ななじみである彼は熟知している。百合梨と玲奈は本来、仲よくなるはずがない者同士であり、仲よくなってはならない者同士でもある。
それなのに、二人は日々関係を深めている。
その果てに百合梨に待ち受けている未来が、彼女にとって幸福なものだとは隼人には思えない。
ただ、百合梨は少なくとも、誰かに強制されて玲奈と仲よくしているわけではなさそうだ。それに、百合梨とは単なるクラスメイトの関係でしかない隼人が干渉するのも、不自然だ。
だから彼は、机の上のペン立てと参考書の位置を入れ替える。何度も、何度でも入れ替える。
明日以降、たとえ入れ替える物品を変更したとしても、ひたすら入れ替えつづけるという行為自体はやめないのだろう。
頭の一隅でそう思いながら手を動かしつづけた。