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百合梨が通うK中学校の校庭の一隅には、樹や雑草が鬱蒼と生い茂った区域がある。樹幹や枝葉が織り成す壁に隠れて、粗末な木製ベンチが一脚だけ置かれている。彼女は最近、もっぱらそのベンチで昼食をとっている。
樹音たちからいじめられるようになってからも、しばらくは自分の机で食べていた。いっしょに食べてくれる生徒は一人もいない。加害者一派から思い出したように投げかけられる侮蔑の言葉に箸が止まる。
地獄のような時間を重ねる中で、無理に教室で食べる必要はない、と不意に気がついた。目から鱗が落ちた。樹音たちを恐れる気持ちから視野が狭まっていたのを差し引いても、気づくのがあまりにも遅すぎた。
翌日の昼休み時間、百合梨は弁当と水筒を手に席を立った。呼び止められるのではないかと、持っているものを取り落としそうになるくらいに手が震えた。
しかし、樹音たちは百合梨には見向きもしなかった。休日の予定を話し合うのと、午前中の活動で空腹した体に食物を供給するのとに夢中らしい。厳密には一人か二人、百合梨が教室から出ていくのを目の端に捉えたようだが、無反応だった。
新しい食事場所の選定には手間取った。屋上は立ち入り禁止だし、日当たりがよく、座る場所がたくさん用意されている中庭は人口密度が高い。途方に暮れてさ迷い、いわゆる便所飯も真剣に検討しはじめたころ、偶然にも木陰に置かれているベンチを発見した。
初めは誰かが来るかもしれないと身構えてしまい、食事がなかなか喉を通らなかった。しかし、普段の倍近くの時間をかけて弁当箱を空にするまでに、来訪者は一人も現れなかった。それどころか、足音や人気が接近してくることすらも。
昼食を終えて教室に戻るときは、鼓動が駆け足になった。しかし、樹音たちの様子をうかがった限りでは、誰も百合梨の行動をリーダーには報告しなかったらしい。苦しかった時間の長さを思えば、実に呆気ない脱出成功だった。
翌日からはリラックスして食事がとれた。弁当箱を空にしたあと、有線イヤホンを介してお気に入りの楽曲を聴きながら、鼻歌を歌う余裕さえ生まれた。
季節がもう少し進めば虫が出るだろう。梅雨の時季はどうするのかという問題もある。しかし今はただ、安らげるひとときを満喫していたかった。
平穏が破られたのは突然だった。
SNSを観覧しながら弁当を食べていると、近づいてくる足音を耳が捉えた。
特等席で過ごす時間、百合梨はよく音楽を聴くが、食べているあいだは流さない。だからこそ、接近者を報せる音声情報をキャッチできた。
全身を鋼鉄のように緊張させて耳をそばだてる。足音の人物は、間違いなくこちらに向かってきている。
口の中に残っていた食べ物を呑み込む。なんらかの手を打ちたいが、動揺してしまって頭が働かない。気がついたときには、足音はすぐそばまで来ていた。目の前にそびえるブナの木を迂回して、足音の主が百合梨の前に姿を現した。
二重の衝撃が体を貫いた。
「一枝さん……?」
投げかけられた声は潤いを孕み、微弱な震えを帯びている。泣いている。それが驚きの一つ。
もう一つは、泣いているその人物が玲奈だったこと。
神宮寺玲奈――川真田樹音のグループに属する女子生徒。
「一枝さん、なんでこんなところにいるの? 幽霊かと思って、マジでびっくりしたんだけど」
洟を大きくすすり上げ、目元を指先で拭ってから、玲奈は疑問をぶつけてきた。そのあとも、さらに一回二回と小さく洟をすする。涙を拭ったのとは逆の手にはコンビニのレジ袋を提げている。
「びっくりしたのはこっちだよ。神宮寺さんはどうしてこんな場所に来たの? どうして泣いているの? 誰の仕業?」
いじめっ子ではない他のクラスメイト相手のように、喉につかえる感覚なく言葉を返せたことに、百合梨は我ながら驚いた。
言動に刺々しいところがなく、人当たりのよさと愛嬌を兼ね備えた神宮寺玲奈は、樹音のグループのメンバーの中では異質の存在だ。クラスメイトたちも、樹音たちに対しては顔色をうかがい、緊張感をもって接しているが、玲奈に対してはそれがない。樹音たちと比べれば圧倒的に付き合いやすいし、付き合って楽しい人間といえる。
ただ、百合梨の場合は話が別だ。いくら人当たりがよかろうが、愛嬌があろうが、百合梨を虐げるという意味で樹音たちと同類だからだ。
裏表がある、腹の底ではなにを考えているかわからない、嫌なやつ。神宮寺玲奈に対する認識を最小限の言葉で言い表すならば、そうなる。とにかく乱暴で攻撃的な樹音とはまた違った意味で嫌悪感を覚える相手だ。
そんな玲奈相手に、気安くといっても誇張ではないくらいに造作なく、言葉を返せた。相手が泣いているという特殊な事情があった、とはいえ。
「ちょっとまあ、いろいろあって。一人になりたくて歩き回っていたんだけど、いい場所が見つからなくて、やっと見つけたと思ったら一枝さんがいて」
「そうだったんだ。なにがあったか話せる?」
「うん。ていうか、話したい。隣、いい?」
横に置いていたものを膝の上に移動させると、玲奈はすかさず腰を下ろした。洟を一回大きくすすり、話しはじめた。
玲奈は百合梨が転校してくるまで、樹音たちのグループからいじめを受けていた。
玲奈は樹音に阿諛追従し、ひたすら機嫌をとることで、軽んじられることがあっても、深刻な被害は受けないように立ち回った。使い走りもしたし、恨んでもいない教師や生徒の悪口も言った。
その努力が実を結んで、中学一年生も終わろうかというころには、樹音から最大級の寵愛を受ける地位に上り詰めた。樹音のグループには、リーダーに似て言動が荒っぽく、ストレートに意思を表明する女子が多い。空気を読み、言葉を取捨選択して、耳に心地よい発言に終始する玲奈のようなタイプが、樹音からすれば新鮮で魅力的だったのだろう。
二年生に進級し、樹音は転校生の一枝百合梨に狙いを定めた。玲奈は百合梨にはなんの悪感情も抱いていない。控えめで気弱なところが自分に似ていると感じ、むしろ親近感すら覚えたが、樹音たちと足並みを揃えて百合梨を攻撃した。
他人をいじめるような人間は、仲間内の掟を破った人間をいとも簡単に敵と見なす。いじめられていた日々に逆戻りしたくない。その一念だった。
しかし五月に入ったころから、樹音はしばしば玲奈をからかうようになった。玲奈がリーダーの機嫌を損ねるような失策を犯したわけではない。百合梨を虐げることに飽きたため、並行して元いじめられっ子を攻撃することにしたらしいのだ。
樹音の機嫌をとる。行為をやめてほしいと仲間たちに訴える。攻撃の矛先を百合梨一人に向けさせようと画策する。
打てる手は全て打ったが、百合梨も玲奈もいじめるという樹音たちの基本方針は揺るがない。攻撃が分散される分、自分一人がいじめられていたときよりもましかもしれないが、そんなことは少しも慰めにならない。
特に、昼休み時間は攻撃にさらされる時間が長く、やり方も悪質だ。百合梨が教室の外で食事をしていて不在なので、玲奈一人に攻撃が集中するのだ。
本日の昼休み時間も、樹音たちから心ない言葉を浴びせられた。普段であれば、日常のささいな失敗が取り上げられることが多いのだが、なんの弾みか、樹音にいじめられていた時代の話が蒸し返された。
そちら方面を責められると予測していなかったのと、つらい過去が甦ったのとで、玲奈は思わず泣いてしまった。頬を伝う涙を見た樹音たちは、面白がってますます醜い言葉をぶつけてくる。
耐えられなくなり、「お手洗いに行ってくる」と告げて教室から逃げ出した。昼食のレジ袋を手にしたのは無意識でのことだったが、「トイレで食べるつもりなの?」と嘲笑され、教室に戻るのが嫌になった。
絶望的な気分でさ迷い歩いていたところ、偶然百合梨を見かけ、こうして話を聞いてもらっている。
最後まで語り終えると、玲奈はしきりに洟をすすり上げはじめた。
百合梨はかける言葉が見つからない。
玲奈のことは加害者としか見ていなかった。二面性を持つゆえに、他のメンバーよりも深い憎しみを抱いていた。
その玲奈が、まさか樹音からいじめられていたとは。
百合梨は被害者として、加害者の動静には常に深く注意を払っていた。リーダー格の樹音はもっとも念入りに、ナンバーツーと見なしていた玲奈はその次に熱心に。
加害者としての玲奈、樹音たちと友だち付き合いする玲奈、その他のクラスメイトや教師に愛想よく接する玲奈。おおむね三つの姿を見てきたが、被害者としての玲奈には全く気がつかなかった。
すすり泣きがBGMとして流れる中、真っ白な頭にやがて浮かんだのは、つぐないをしなければ、という痛切な思い。
昼休み時間に教室に百合梨が不在ゆえに、樹音たちの攻撃の矛先が元いじめられっ子の玲奈に向いた。玲奈はそう語っていた。百合梨にその意図はもちろんなかったが、結果的に玲奈に傷を負わせたのは事実。
「神宮寺さんも被害者だったなんて、知らなかったよ」
百合梨はぽつりと呟いた。苦渋に満ちた面持ち、後悔と反省の念がこもった声で。
「今まで神宮寺さんのこと、酷いことをしてくる嫌な女子の一人だって認識していたけど、事情があったんだね。川真田さんと行動をともにして、いっしょになってわたしを罵倒してきたのは、やむにやまれぬ事情があったからなんだね」
玲奈は膝頭を見つめていた顔を上げ、百合梨の顔を正視した。自らを侵す不幸な悲しみに沈み、胸中を吐露するのに精いっぱいだった意識が、他者に向いた。
「こういうときにどうすればいいのか、わたしにはよくわからないけど……。この場所、今まで神宮寺さん以外に誰も来たことないし、安全だと思う。だから、とりあえず、お昼ごはん食べる? ていうか、食べようよ」
手本を見せるように、弁当箱の蓋を開いてみせる。
玲奈は口を半開きにして弁当箱の中身を見つめていたが、やがてレジ袋に視線を落とし、「そうだね」と少し表情を緩めた。袋から商品を取り出しはじめたのを見て、百合梨はほっとした気持ちで箸を手にする。
百合梨の緊張は持続している。話をどう進めればいいかが掴めていないからだ。玲奈が「いじめられているいじめっ子」という特殊な立場の人間だからというよりも、百合梨が人付き合いに精通していないのが大きかった。少しの失敗も許されないかのように錯覚され、プレッシャーは凄まじかったが、
「手作りのお弁当が羨ましいって話している子は多いけど、必ずしもそうじゃないんじゃないかなって思う」
それでも百合梨は自ら口火を切った。弁当箱の中から、おかずの一つである筑前煮のシイタケを箸でつまみ上げる。
「ワンパターンに陥りがちだし、残り物ばかりになるときもあるし。この煮物なんて、二日連続で入っているからね。忙しい中作ってもらっているのはわかっているから、もちろん感謝はしているけど」
シイタケを口に入れる。食べものの話題なら話を繋げやすいだろう。そう考えての選択だったのだが、玲奈は応じてくれるだろうか。横目にうかがう勇気すらも奮い立たせられず、咀嚼に専念する。
「手抜きなのがばればれだと、たしかに萎えるよね」
玲奈が言葉を返してきた。涙の名残が感じられる声の響きだが、口調そのものはしっかりと地に足がついている。
「私、基本的に昼食はコンビニで買うんだけど、たまに母親が弁当を作ってくれて。頻度はそう高くないんだから、気合いを入れて作ってくれてもいいのに、平気で手を抜くから。うちのお母さん、そういうずるいところがあって。そのDNAを受け継いだ私が言える立場じゃないけど、あまりいい気分じゃないよ」
玲奈のほうを向くと、たまごサンドの封を開けながら苦笑している。
真っ白な鋭角をかじったのを機に、玲奈は話しはじめた。話題は、食について。好きなおかずや好みの味についてなど、総じて他愛もない。
「酢豚のパイナップルって、あり得なくない? ちゃんと科学的な理由があるんだろうけど、別になくても成立する料理だからね」
「あのコンビニの弁当、上げ底してあるから買わないほうがいいよ。サンドウィッチとかも中身がスカスカだし」
「夜遅くに食べるジャンクフォードって、なんであんなに美味しいんだろうね。太るってわかっていても食べちゃうよ」
話題は他愛もなく、だからこそ連綿と続いていく。その終わりの見えない感じが、百合梨にはにやけ笑いを抑えるのに苦労するくらいに楽しい。
食関係の話題について取り留めもなく言葉を交わしているうちに、話が急に川真田樹音に及んだ。切り出したのは玲奈だ。
「そういえば、樹音ってクチャラーなんだよね。口の中に食べ物が入っているときでも平気でしゃべるの。あれが不愉快で――」
それからは樹音の悪口をひたすら並べた。百合梨は最初こそ二の足を踏んだが、玲奈の饒舌さにあっという間にペースに巻き込まれ、盛んに相槌を打った。
樹音から攻撃されないように立ち回ってきた玲奈は、普通だと気づきにくい特徴や盲点を見抜く眼力に優れているらしい。鋭い指摘の数々に、百合梨は何度も感嘆させられた。なおかつ、いじめっ子の仲間だったはずの人間が、自分をいじめている人間を軽快に斬り捨てていくのは痛快だ。
まともに私語を交わすのは初めてとは思えないくらい、会話は弾んだ。箸を動かすのが疎かになる時間帯すらもあった。
共通項さえあれば会話を繋げていくのはそう難しくはない。話題がなんであっても会話は盛り上がるときは盛り上がる。そんな二つの学びを百合梨は得た。
「ねえ、明日もこの場所でいっしょに食べようよ」
弁当の蓋が閉ざされ、サンドウィッチの包装紙がレジ袋に突っ込まれると、玲奈は百合梨へとぐっと身を乗り出して提案した。
「樹音の悪口をさんざん言ったら、むちゃくちゃすっきりした。私にはこういう場が必要だったんだって、今日やっとわかったよ。この時間さえあれば、教室で樹音たちからなにを言われても耐えられる気がする。だから、明日もお昼は一枝さんといっしょがいい。……だめかな?」
「だめじゃないけど、いいの? いっしょにいるのがわたしなんかで」
「いいよ。ていうか、一枝さんじゃなきゃだめ。同じ被害者だからこそ盛り上がれるんでしょ」
で、一枝さんの気持ちはどうなの? 一心に見つめてくる一対の黒目は、懇願する気持ちが強すぎるあまり脅迫するかのようだ。
玲奈の瞳を見返しながら、彼女と過ごしたひとときを駆け足に振り返ってみる。
対面した瞬間は驚き、動揺もしたが、事情を聞かされてからは玲奈の心に寄り添えたと思う。食事をしながらの会話は時間を忘れて盛り上がった。楽しかった。
誰かと密な交流を持つ機会が少なすぎて、明日も明後日もそれをくり返すことに違和感を覚えただけで、答えはすでに決まっていたのだ。
「わかった。わたしも今日は楽しかったし、また神宮寺さんと話がしたい。だから、明日もこの場所で過ごそう」
「ほんとに? ありがとう!」
玲奈は両手を差し出す。気恥ずかしさも微塵も感じずに、百合梨はその手を握り返す。二人は見つめ合い、同時に噴き出した。その拍子に手と手は離れたが、玲奈の体温はまだ指先に残っている。
大切にしなければならないものに思えて、柔らかく握り拳を作った。
今日も樹音たちの加害行為はやまない。
一つ一つは幼稚で、心身に負うダメージはさほどでもないが、敵は手数を打ってくる。それが本日の川真田樹音の気分だからだ。一か月以上被害に遭いつづけていれば、樹音とはそういう人間なのだと嫌でも理解できる。
「ばーん」
机の上の教科書類を、そんな馬鹿げた擬音とともに、樹音に半笑いで薙ぎ払われたときがもっとも心にこたえた。勢い余ったノートが隣席の女子生徒の脛に当たり、怪我はなかったものの痛がらせてしまったからだ。
謝罪はもちろん百合梨がした。その女子生徒が、百合梨に同情的な生徒なのが不幸中の幸いだった。
他者に迷惑を及ぼすことで、百合梨により深い傷を負わせようという意図があったのかは、なんとも言えない。樹音は基本的に己の気分に忠実に振る舞い、考えるよりも行動するのを好む。ただ、時折、心胆寒からしめるような巧妙な悪知恵を働かせることがある。
暴力的な嫌がらせや聞こえよがしの悪口に、神宮寺玲奈が当たり前のように参加するのも、百合梨の胸を切なくさせた。今は樹音の味方のふりをしているが、昼休み時間になれば昨日のように、川真田樹音の被害者仲間として仲よくしてくれるはず。百合梨としてはそう祈るしかない。
昼休み時間を迎え、百合梨は緊張と昼食を胸に抱いて目的地へ向かった。ベンチの左端に腰を下ろし、弁当には手につけずに待っていると、ほどなく玲奈が到着した。
「ごめんね、樹音たちといっしょになって酷いこと言って。それとなくゆりりんから注意を逸らそうとか、いろいろと策は考えたんだけど、今日はちょっと上手くいかなかったかな。今後はもっと方法を考えないといけないね」
真っ先に謝罪があったこと、玲奈なりに努力をしていてくれたこと、どちらも身震いしそうになるくらい嬉しいし、ありがたいと思う。
「全然いいよ。気にしてないから」
返答だって、昔からの友だち相手のように軽やかに口にできた。
並んでベンチに腰かけ、食べはじめる。いつも弁当の百合梨に合わせて、今日は玲奈も弁当だ。食べながらの話題には、本日も川真田樹音の悪口が選ばれた。玲奈が樹音と付き合う中で接してきた、非難に値する態度や言動などを紹介し、それに百合梨がコメントを返す、という形で会話は進む。
ファミレスでの食事中、話し声が大きいと従業員に注意され、同席していた玲奈を含む一同に八つ当たりをしたこと。玲奈が家族旅行に出かけたさいに、お土産として買ったペンケースを、「デザインがかわいくない」と断罪して玲奈の前で捨てたこと。カラオケに誘ったが、多忙を理由に断わった友人を殴り、謝罪させたこと。
「ようするに子どもなんだよ、樹音は。周りの人間の気持ちを考えられないし、自分の感情をコントロールできない、子どもの中の子ども。威張ってるけど、全然凄いことじゃないからね、我慢できないのって。そういうわがままなところを凄いと認識しちゃってること自体、子どもの証拠っていうか」
的確で無駄のない言い回しで断罪する玲奈に、百合梨は黒目を輝かせて盛んに首を縦に振る。
いじめ問題の根本的な解決は難しいかもしれない。しかし神宮寺玲奈がそばにいてくれる限り、生きていける。そんな思いさえ抱いていた。
もともと陰りを見せはじめていたダイニングのLED電球が、二・三日前からとうとう明滅するようになった。
間隔にして十分に一回程度、一回につき一度きりの明暗の変化。気になるといえば気になるし、我慢できるといえば我慢できる、そんなレベルの明滅だ。
少し前までの百合梨であれば、気になる側だった。
無言で何度も電球に目をやり、「電球、そろそろ交換したほうがよくない?」というメッセージを暗に発信する。直接、口頭で要望する。「光が弱くなっているのはもっと前からわかっていたのだから、早く替えておけばよかったのに」と、自らの怠慢を棚に上げて家族の怠慢を非難する。
家族に対して、それらのいずれかの行動をとらずにはいられなかっただろう。
しかし、今日の百合梨は違う。
電球の寿命がいよいよ尽きようとしていることに気がついてはいるが、気にならない。明滅の間隔がもう少し短くなるか、最悪でも明かりが灯らなくなるかすれば、さすがの親も対応するだろうから、放っておけばいい。そうきっぱり割り切って、今晩のメインである豚の生姜焼きを付け合わせの千切りキャベツに巻きつけては口へと運んでいる。
彼女を寛大な気持ちにさせている立役者は、神宮寺玲奈に他ならない。
教百合梨と玲奈が交流したのは、昼休みの一時間弱のみ。それ以外の時間には一言も言葉を交わしていない。連絡先は交換していないから、放課後にもやりとりはいっさいない。
それでも百合梨の心はポジティブだ。今日は楽しかったし、明日も楽しい時間を過ごせる。そんな確信が、彼女をほとんど別人にさせていた。玲奈のことを考えてさえいれば、靖彦の愚痴も、麻子の諦めきった態度も、全く気に留めずに済んだ。
心が浮ついている自覚はある。だから家族と夕食をともにしている今は、意識して感情を抑えるようにしている。異変を察知されて、「学校でなにかあったの?」などとつまらない言葉をかけられたくなかったから。
楽しみは自分の一人のものにしておきたい。
そして、玲奈も同じ気持ちでいることを願った。
「そういえば、玲奈。玲奈が川真田さんとは別々に昼食をとっていることについて、川真田さんたちからなにか言われてない? こっそりわたしといっしょにお昼を食べていることがばれて、玲奈が酷い目に遭わされるかもしれないと思うと、心配で」
あるとき、百合梨は前々から抱いていた懸案事項について玲奈に尋ねてみた。いつもの木陰のベンチで、談笑しながら昼食をとっているさなかのことだ。
百合梨の唐突な発言に玲奈は目を丸くした。しかしすぐに、本日の空模様のように爽やかな笑みを咲かせた。
「大丈夫だよ。全然疑われてない。ゆりりんとの関係がどうこうとか、今までに一回も言われたことないもん」
「そうなんだ。玲奈が決まっていなくなっているのに、言及はいっさいなしって、逆に不自然なような……」
「樹音はそんな細かいことは気にしないよ。あいつはメンバー一人一人が大事っていうよりも、みんなからちやほやされて、輪の中心で威張り散らせればそれで満足だから。私の代わりに、他のみんなが一生懸命樹音の機嫌をとっているんだって思うと、ざまあみろって感じ」
「それ、なんていうか、寂しいね」
「寂しい? どういうこと?」
アスパラのベーコン巻きを掴んだばかりの箸を虚空に停止させ、訊き返してきた。百合梨は少し考えてからこう答えた。
「だって、本当の友だちじゃないみたいで」
「樹音とグループの他の女子たちがってこと? そりゃそうでしょ」
「えっ?」
「私もそうだけど、周りは誰も樹音が友だちだとは思っていないよ。つるんでいて楽しいやつだとは思うけど――どう言えばいいのかな。少年漫画とか青春ドラマなんかで描かれているみたいな意味での友だち、という認識はしていないんじゃないかな。そんな爽やかで気持ちいい関係では」
言葉の続きは、箸につまんだおかずを食べたあとで述べられた。
「樹音のほうでは、私たちとはまた違った認識かもしれないけどね。自分の命令をなんでも聞いてくれる、召使いみたいな人間こそが真の友だちだって思い込んでいるのかもしれない。でも、その友情観は歪んでいるよね。本物じゃない友情。……ゆりりんが言った『寂しい』の意味、なんとなくわかったかもしれない。
「箸、止まってるよ」と玲奈は指摘し、別のおかずに箸をつける。水筒から注いだ茶をちびちびと飲みながら百合梨はこう考えた。
わたしと玲奈は「真の友だち」だよね? 元はいじめっ子・いじめられっ子の関係だけど、今は立派な友だち同士だよね? トモノリに「友だちだよね?」って確認を求めて、「友だちだよ」と返してもらえなかった過去が頭を過ぎって、もしかしたらっていう思いがあるから、確認をとるのは怖いけど……。
玲奈との関係を深め、満喫する一方で、トモノリとの交流も変わらず続いている。
その日、トモノリは珍しく小屋の外にいなかった。同じく道具類も出ていない。
ドアに貼りついて耳を澄ませると、物音が聞こえた。なにかを叩いているらしい音で、そう激しくはない。音は二十秒ほど続き、ぱたりと聞こえなくなった。
「トモノリ……?」
恐る恐る呼びかける。足音が近づいてきたので、三歩後退する。
ドアが開き、鼠色の作業着姿のトモノリが現れた。新鮮な木の匂いの主張が強い。その底に鉄の臭いが薄く漂っている。
「珍しいね。今日は中で作業していたんだ」
「そうだね。中でくつろいでいたときにふと思い立ったから、そのまま中で」
「なにを作っていたの?」
「余った板を使ってコースターを。単純な作りにはしたくなくて、いろいろと試行錯誤していたんだけど――」
トモノリは肩越しに後方を振り向く。体が邪魔になって全容は見えないが、先日拵えていた木製の台が置かれている。その上に、さながら常連客のように小さな砂時計が置かれているのが見えた。
「でも、失敗した。イメージどおりものが一つもできなくて」
「そうなんだ。でも、一つも成功例がないって、自分に厳しすぎない?」
「細部が難しいからね。想像していたよりもはるかに難しい。でも、凝りすぎて自分を追い詰めているのは事実だと思う」
「そっか、こだわりがあるんだね。トモノリは職人気質なんだね」
「思いつきで作りはじめると、こういうことはよくあるよ。僕にとって工作はただの趣味で、専門的な技術を持ち合わせているわけではないからね。とにかく、もう今回の挑戦は終わったから」
「さっきの音、もしかして壊しちゃったの?」
「そうだよ。ごみに出しやすいように小さく砕いたんだ。職人としてのプライドが、失敗作を手元に置いておくことを許さなかったわけでは断じてないよ」
トモノリの口角が緩み、人によっては微笑と受けとれそうな形になった。冗談を口にすること。不器用に笑ってみせること。どちらも、最近になってようやくちらほら見られるようになった。
薄気味悪い笑いかた、という評価を下す者も中にはいるだろう。しかし百合梨には、その笑顔がかわいくてたまらない。年端もいかない子どもにするように、銀色が混じった丸刈り頭をよしよししたくなる。
「立ち話もなんだし、外で座って話そうか」
「そうだね。……中はだめかな?」
「別に構わないけど、換気をしていなくて空気が悪いからね。おすすめはしないよ」
「じゃあ、今日は外にしておこうかな。天気もいいし。雨の日は中で話してもいいよね?」
「そういう日は真っ直ぐに帰ったほうがいいんじゃないかな。僕と過ごす時間に、雨天決行するほどの価値があるとは思えないよ」
「あるある。全然あるって」
外に出て木箱に腰を下ろす。スカートの裾を押さえながら座る動きを追っている視線の感じ、悪くないな、と思う。
「さて、なにを話そうかな。意欲はあるんだけど、話題がないね。もっぱら小屋の中とその周辺で暮らしていて、出会いというものがあまりないから」
「じゃあ、わたしから質問いい? ぱっと思いつくの、二つあるんだけど」
どうぞ、というふうにうなずいたので、百合梨は遠慮なく言葉に甘えることにする。
「砂時計はなんのために使っているの? 工作をしていて時間を計る必要になる場面、あるの?」
「計る目的では使っていないよ。少し休憩したいときにひっくり返して、砂が落ちる模様をぼーっと眺めるんだ。暇つぶしになるわけではないし、癒されるとも少し違うんだけど、なんとなくそうするのが好きで」
「へー。そんな意味があったんだね」
「やっぱり、変かな」
「ううん、いいと思うよ。わたしはいいと思う」
「時間が有限であることや、人生の短さを肝に銘じるために、目が届く場所に置くように心がけているのかもしれないね。僕はほら、近い将来に自殺しようと考えている人間だから」
「そっか……。でも、わたしは逆かな」
「逆?」
「砂時計を見ると、わたしは永遠っていう言葉を連想する。だって、ひっくり返しさえすればまた時を刻むでしょ。返す人間さえいれば半永久的に」
「なるほど。それは鋭い視点だね。一枝さんの意見を聞いたことで、僕の認識も今後変わってくるかもしれない」
多分変わらないんじゃないかな、と百合梨は思った。トモノリは穏やかな性格だが、その実頑固で、自分の考えを曲げない印象が彼女の中では強い。
「二つ目の質問だけど、この小屋の中にはなにが置いてあるの?」
建物を肩越しに一瞥しての問いかけだ。
「置かれているものの内訳は、食品、調理器具、日用品、寝具、工具、資材――そんなところかな。もともと工具類の保管庫として使用されていたから、比率としては工具がもっとも多いね。空間の占有率でいえば資材が一番かな。資材に関しては、必要に迫られて新規に購入したものもいくつかあるけど」
「ドア越しに何回か中の様子を見たけど、やっぱり工具が多いんだね。具体的にはどんなものがあるの?」
トモノリは口頭で説明する。金槌や糸鋸など、たちどころに映像が浮かび、使用法もわかるものもあれば、名前すら初めて聞くものもある。
「実際に見てもらったほうがわかりやすいかな」
トモノリは小屋の中からいくつかの工具を持ち出し、二人の前の地面に広げた。この道具の正式名称はこうで、使いかたはこうで、といった解説が述べられる。
「暑い季節だったのかな。ねじり鉢巻きに上半身裸の僕のおじいちゃんが、大きな木材に鉋がけをしているんだけど、面白いくらいに出てくる鉋屑を見て、削り節みたいだと言ってはしゃいだ記憶があるね。あんな単純なことで盛り上がるなんて、子どもというのは無邪気なんだなって思うよ。それとも、僕が年齢の割に幼かったのかな。小学校に入るか入らないかのころだったと記憶しているけど」
一目で使い込まれているとわかる鉋を眺めながら、トモノリは語る。彼は感情をめったに表に出さないし、出したとしても表現は控えめだ。目元に浮かぶ懐古の微笑は、微笑とは呼べないようなささやかさだが、鉋にまつわるエピソードについて語っているあいだずっと消えなかった。
「おじいさんのこと、好きだったんだね。おじいさんのことを話すときのトモノリ、凄く楽しそう」
「そう見える?」
「見えるよ。こっちまで微笑ましくなってくる」
「中学生のころから学校に行かなくなって、ひきこもるようになったことは話したよね。そのころになっても交流が細々と続いていたくらいだから、やっぱり好きだったんだろうね。おじいちゃんは僕や両親とは別の家で暮らしていて、家庭の問題には首を突っ込まなかったから、それがよかったんだと思う」
「トモノリのほうから遊びに行ってたの?」
「そうだよ。おじいちゃんも僕に似て人嫌いだから、孫だからといって笑顔で歓迎してくれるわけじゃなくて。僕の姿を見て『おお、来たか』と呟くくらい。茶や菓子でもてなしてくれるわけでも、小遣いをくれるわけでもない。黙々と、一心不乱に大工仕事に励むおじいちゃんを、少し離れた場所からただ眺める。沈黙を埋めるために世間話をしてくれるわけではないし、なにを作っているのかや、どんな作業をしているのかを説明してくれるわけでもない。だけど、僕は幸せだったよ。大工仕事をするおじいちゃんを眺める、ただそれだけで」
百合梨は当時の光景を脳内で再現しようと試みる。年齢不詳の感があるトモノリの子ども時代を想像するのは簡単ではない。彼の祖父の具体像を思い描くのはなおさら難しい。
「おじいさんは工具をたくさん持っていたんだよね。ということは、大工さんだったの?」
「そうだよ。特定の会社に所属していたんじゃなくて、今風に言えばフリーランスの立場だったみたい」
「フリーランスの大工さんか。そんな働きかたがあるんだね」
「大工として働いている人間にとって、どういう雇用形態が一般的なのかは寡聞にして知らないけど……。いろんな建築現場にふらっと顔を出しては仕事をもらって、大工仕事にありつけないときは雑用を広く引き受けて日銭を稼ぐ。おじいちゃんは、そういう自由で柔軟な生きかたをしていたみたいだね。親が子に『こういう生きかたをしなさい』とは絶対に言わない生きかただ。だからこそ、普通からは外れた僕はおじいちゃんに惹かれたんだろうね」
トモノリの表情は柔らかい。同志の武勇伝を思い返し、懐かしむと同時に賞賛しているような、そんな横顔だ。
トモノリは祖父とのエピソードを次から次へと語る。思い出したものから気軽に口にするといった感じで、総じて他愛ない。語られる内容そのものよりも、快さそうに過去を語る彼の表情と声音に、百合梨の表情は緩みっぱなしだ。
語り口が淡々としていて、感情表現に関して積極的な人ではないから、今の今まで気がつかなかったが、トモノリは決して無口ではない。基本的には寡黙だが、興がのってくると饒舌な一面を見せることもある。
孤独な人という印象が強いトモノリではあるが、他者と交流したい気持ちはしっかりと胸の中にある、と百合梨は思う。
トモノリを特別な存在だと見なしたい彼女からすれば、不都合な真実だ。
心を覆いはじめた陰りに待ったをかけるように、彼は暴力と狂気に対する嗜好を内に秘めているかもしれない、という疑惑の存在を不意に思い出した。
異常と正常。どちらがトモノリの本質なのか、わからなくなってくる。自分がどちらのトモノリを望んでいるのか、それさえも。
本質などという、厳密さを少しでも蔑ろにすれば嘘になるものを、中学二年生の知能と語彙で定義できるわけがない。
現時点でトモノリに関して判明している絶対的な事実の筆頭は、彼と過ごす時間は楽しく、充実したものだということ。
ならば、そんなつまらないことに思案を割いていないで、今この時間を楽しむべきだ。
「逃げている」という思いが強くつきまとったが、無理矢理気味にそう結論づけた。