10
ゆうに半時間は待ったかというころ、足音が聞こえてきた。
全身に緊張を漲らせ、耳を澄ませる。
近づいてくる。玄関と階段は廊下を反対方向に進まなければならないから、目的地は間違いなくトイレだろう。気だるそうな足音。無警戒で、緩みきっている。己の目的地に曲者が身を潜めているなどとは夢にも思っていないようだ。
勇気が漲った。潰れんばかりに柄を握りしめる。掌に伝わった木の硬さに、いい意味で心のこわばりが緩んだ。
足音が止まり、ドアノブが掴まれた。狂気を全身に行き渡らせ、凶器を高々と振りかざす。ドアがゆっくりと開かれる。
頭部が現れた。誰の顔かを識別するよりも早く、ハンマーを頭頂部に振り下ろす。ある程度の硬度を有する、ある程度の大きさの物体の一部分が、力任せに押しつぶされた音。手応えがあった。電流のような衝撃が右腕を駆け上がる。肩が波打った。攻撃を受けた少女は、バンザイをする姿勢で俯せに床に倒れた。全身が小刻みに痙攣していて、首から上がもっとも激しい。
百合梨は肩で息をする。全身が熱いが、体の芯はむしろ冷ややかに安定している。握りしめる右手の力はそのままに、相手の出方をうかがう。
痙攣は全体的に収束していく。震えているのが首から上だけになったのを境に、被害者が顔を持ち上げはじめた。じれったいほど遅いが、百合梨の視界に入る顔の面積は着実に広がっていく。正体が明らかになる。
神宮寺玲奈だ。その顔は濃密な恐怖一色に染まっている。
記憶が逆流する。
さんざん悪口を言われたこと。休み時間に脚を引っかけられて転ばされたこと。玲奈は「偽りのトモダチ作戦」などというふざけた策を講じて百合梨を欺き、裏切った。朗らかな笑顔も、軽やかな饒舌も、ことごとく偽物だった。そして、偽りのトモダチでいた期間に得た材料を活用しての、苛烈さを増したいじめ。
それら全てを一撃のもとに破壊せんとばかりに、二撃目を後頭部に炸裂させる。嘔吐する瞬間のような声が玲奈の喉から押し出された。さらに一撃、もう一撃と、同じ一点を狙って機械的に攻撃を反復する。腕が痛み出した。玲奈はいっさいの抵抗なく打撃を食らいつづけている。
百合梨は攻撃をやめる。
右手を下ろし、荒い呼吸をくり返す。視界の端に映る便器には広範囲に血が飛び散り、元の白さは見る影もない。
玲奈に視線を戻す。頭部の痙攣は完全に収まっている。身じろぎ一つしない。シルエットは凹んでいる。わざわざ左胸に掌を宛がってみるまでもない。脳みそをハンバーグの生地のようにこね回したいという欲望が胸に滲んだが、静かに頭を振って邪念を消し去る。
愚行を思い留まれたのは冷静さが戻ってきた証拠だ。視界に捉えているのは玲奈の死体だが、意識は未来に向いている。
――あと五人。
呼吸が落ち着くまで待って、百合梨はトイレから出た。
血しぶきは廊下にまで飛んでいた。暗いままならともかく、排泄しに来た者は間違いなく電気を点けるだろうから、もう待ち伏せ場所には使えない。足を使って遺体を中に押し込め、ドアを閉ざす。
和室を目指して廊下を進みながら、あと五人、と改めて思う。殺すべき人間はまだまだ多い。できれば和室に乗り込む前にもう一人くらい減らしておきたい。
最終コーナーの手前で足を止める。和室から出てきた者がトイレに向かう場合、角を曲がりきるまでは死角になる位置だ。ハンマーとナイフを持ち替え、息を殺す。
十分も待たずに、襖が開く音が聞こえた。いっときよりも緩んでいた緊張感が、最高潮時よりも頭一つ高まった。
足音は百合梨が待ち構える方角へと向かってくる。玲奈と同じく警戒心は感じられない。
何者かが角を曲がり、百合梨の視界にフレームインした。
刹那、一閃。
パジャマを紙切れのように切り裂き、胸と腕を傷つけた。斬撃を食らった衝撃に、被害者の体が一歩二歩と後退する。切られた左腕を押さえ、驚愕に双眸を瞠って百合梨を見つめるのは、花岡。
ナイフの柄を両手で握りしめる。両足を踏ん張って持ちこたえた花岡を目がけて、きっさきを先頭にしてタックルする。壁にぶち当たったような感触に遅れて、パジャマの柔らかな感触。花岡の口から不明瞭な短い叫び声が飛び出した。上体が引っ張られるように後ろに傾き、仰向けに倒れる。百合梨は腹部に刺さったナイフを抜きとろうとしたが、滑って上手くいかない。舌打ち。ハンマーを右手に持ち替え、顔面に打ち下ろす。さらに三発を続けざまに打ち込んだところで、ハンマーの柄が手から抜けた。宙を飛び、床の上を回転しながら遠のいていく。花岡のパジャマで右手の血を拭い、今度こそナイフを抜く。上から体重をかけて押し込むようにして、刃を左胸に深々と突き刺す。
――あと四人。
ハンマーは和室の襖の前まで飛んでいた。
花岡との一戦では何度も物音を立ててしまった。緊張しながらハンマーへと歩み寄り、室内の気配に注意を凝らす。音を聞きつけた四人のいずれかが目覚めた、というわけではなさそうだ。ハンマーを回収し、今度こそ襖を開く。
布団は縦に二列に並べられている。手前は左から、もぬけの殻、佐久間。真ん中は、渡会、高宮。もっとも奥が、もぬけの殻、樹音。グループ内における地位的に、樹音と枕合わせの布団が玲奈だろうから、残る手前の一枚は必然に花岡だ。二階から持ち込んだ荷物が各人の枕元に置かれている。数はそう多くなく、犯行の邪魔にはならないだろう。
理想を掲げるならば、四人が部屋から逃げ出さないうちに鏖にしたい。十秒ほど考える時間をとり、まずは佐久間の布団の前まで行く。
今日の佐久間はいろいろと癪に障る真似をしてくれた。これまでに佐久間から受けた被害は、他のメンバーと比べて甚大なわけではないが、四人の最初として選ぶのに彼女ほど適役はいない。左胸は掛け布団に保護されている。しゃがんで標的に近づき、頸部に刃を突き立てる。真横に動かして喉を掻き切る。
――あと三人。
刃に付着した血を掛け布団で拭いながら、改めて状況を確認する。渡会と高宮までの距離は同程度。先に葬るとすれば、残る四人の中でもっとも体格的に優れた高宮だろう。
歩み寄ろうとしたとき、突然渡会が寝返りを打った。仰向いていた顔が百合梨のほうを向き、瞼が開いて百合梨の姿を捉える。渡会は双眸を見開いて叫んだ。その顔は高濃度の恐怖に歪んでいる。虚を衝かれた百合梨は狼狽し、思考も肉体も一時停止した。
渡会の声に反応し、隣で寝ていた高宮が目覚めた。二秒ほどの間があり、先ほどの渡会のそれを模倣したような絶叫。高宮の視線は百合梨ではなく、息絶えた佐久間へと注がれている。渡会が両手で床を押して上体を起こした。
百合梨は舌打ちし、渡会へと突進する。ターゲットは全身を硬直させている。凶器を持ち替える暇はない。ナイフとともにハンマーも持ち、側頭部を横殴りにする。渡会は再び横倒しになった。樹音や高宮とは逆方向にハンマーだけを投げ捨てる。馬乗りになり、首を狙ってきっさきを振り下ろす。狙いが微妙に逸れた。皮を薄く裂き、肉を浅く抉っただけだ。渡会は凶器を取り押さえようと両手を伸ばしたが、そうはさせまいと引っ込めるほうが速い。その流れのままに振り上げる。顎への一撃。血が闇の中を迸った。断末魔を思わせる渡会の絶叫。死んでいない。
二撃目でも殺せなかったことで、百合梨は軽度のパニックに陥った。奇声を撒き散らしながら、刃を無茶苦茶に振り下ろす。ことごとく防がれる。渡会も死に物狂いだ。一撃目が頸部、二撃目が顎だったため、両手のガードはそれらに跨る領域に集中していると気がつく。そちら方面を愚直に攻めつづけるかのように見せかけておいて、出し抜けに攻撃目標を転換し、胸部に刃を叩き込む。的の中心は外したが、刀身が殆ど埋まる一撃となった。暴れていた渡会の両手が完全に止まる。刃を引き抜き、確実に心臓を貫く。
――あと二人。
いきなり肩を思い切り突かれた。百合梨は事切れたばかりの渡会の隣に倒れた。見上げた視線の先には、右足を腰の高さに上げた高宮。斜め後ろには、怒りと恐怖を等分に満面にたたえた樹音。ファイティングポーズをとっているが、逃げ腰だ。蹴りを受けた衝撃で、刃は渡会の胸部から抜けている。
「高宮っ! 押さえ込めっ!」
樹音の怒号が轟いた。
一秒の逡巡を挟み、高宮が突撃してきた。一秒のアドバンテージは、大柄な体に急接近される迫力に気圧されて消えた。ナイフを振るう間もなく組み伏せられる。先ほど渡会と揉み合ったさいと同じ体勢。しかし、今回は高宮が上だ。
体重をかけられて、逃れられない。高宮の右手が百合梨の右手へと伸びる。凶器を取り上げようとしているのだ。百合梨は利き手を大きく引いてそれをかわす。今度は殴りつけてきた。ガードが遅れる。顎に強烈な一撃。脳が震えた。両の拳を交互に殴り下ろしてくる。左腕をくの字に構えて防御を試みるが、掻い潜って体に命中させてくる。半分ほどしか防げていない。一撃一撃が重く、ガードしても痛みが走る。わずかな隙を見出してはナイフを振るう。体勢が苦しく、迫力を欠いた中途半端な攻撃にしかならない。高宮のナイフへの注意力は高まったが、体感での攻撃の激しさに大きな変化はない。
情勢を見て、好機だと樹音は判断したらしく、誰かの鞄を両手に持ち、百合梨の上半身を目がけて続けざまに叩きつけてくる。最初は闇雲に打ちつけてくるだけで、高宮の攻撃の邪魔になることもあった。しかしすぐに、高宮の攻めが緩み、百合梨が反撃に転じるタイミングに合わせてぶつけてくるようになった。
それでも機を見出し、高宮の左手の甲と左手首に切り傷を負わせた。ただ、どちらも浅い。抵抗が鈍ったのを見てとり、ナイフを奪おうとしてきたときには、喉元を狙って刃を突き上げた。しかし、力がこもりすぎて空振りに終わった。以後は防戦一方になった。左腕に蓄積されたダメージにより、ガードを継続するのも苦痛になってくる。
――ここで終わりなの?
過去の映像が走馬灯のように頭の中を巡る。樹音たちから受けた被害の数々。いじめられる以前の、友だちができず、孤独だった学校生活。
それらの映像は、百合梨の心の目を否応にも惹きつけた。中でも、転校前の日常は興味深かった。同じ景色なのに、当時リアルタイムで体験していたころとは違ったふうに見えるのだ。
いじめに遭っていたわけではない。暴力も、金銭の要求も、仲間外れにされることもなかった。しかし、陰で悪口をささやき合っていた者は何人もいたのだろう。
被害妄想などではなく、歴とした事実だったと、今ならば断言できる。当時の百合梨が底抜けの馬鹿で、お人好しだったから気がつかなかっただけで、実際は誰もが陰で彼女を嘲笑っていたのだ。男子も女子も、おそらくは教師までもが。
悔しいが認めざるを得ない。一枝百合梨はそういう星の下に生まれたのだ。転校前までは、むしろ運がよかったのだろう。暴言を吐かれ、暴力を振るわれる、惨めな日常。それこそが常態なのだ。
つまり、生まれてから死ぬまで。
嫌だ、と思う。
そういう星の下に生まれてきたから? そんな理由で諦めていいの? 嫌だ。絶対に嫌だ。暴力と暴言を浴びるのも、嘲笑されるのも、惨めな思いをするのも。
被害者として生きる日々は、これで終わりにする。
これまでさんざん溜め込んできた憎しみを、復讐という名目で晴らすことで、終止符を打つ。
おおおおおおおお、と百合梨は咆哮した。
突然の大音声に、怯んだ。馬乗りになって拳を振るう高宮も、鞄を武器に加勢する樹音も。
生じた一瞬の隙を衝き、渾身の力で高宮を押し返す。百合梨よりも大きな体がひっくり返る。樹音が息を呑んだらしい気配。百合梨は俊敏に立ち上がり、猛然と襲いかかる。高宮は右足で蹴って間合いをとろうとしたが、百合梨は最小限の動きで攻撃をかわし、左腕を回して右脚を捕獲した。無防備な太ももにナイフを突き刺す。絶叫。右脚を解放する。高宮はくずおれ、患部を両手で押さえて悶絶する。俯せの姿勢になったところをすかさず、背中にのって押さえ込む。左手で後ろ髪を鷲掴みし、刃を首筋に突き立てる。語尾が濁り、声が断ち切られた。
――あと一人。
凶器を引き抜こうとすると、血で滑った。三度ほど試みたが、抜けない。もどかしさが胸に滲むと同時、樹音の存在を思い出す。素早く部屋を見回したが、いない。どこにもいない。
……消えた?
半分は呆気にとられて、半分は行方を見極めたい気持ちから、耳をそばだてる。廊下を遠ざかる足音が聞こえた。舌打ちをして立ち上がる。
「樹音! 逃げるな! おい!」
遠のく速度が加速した。また舌打ちが出た。追いかけようとして、ふと思い出して進路を変え、部屋の隅に飛んでいたハンマーを拾い上げる。玄関ドアが開いたらしい音。一体、二体と死体を跳び越え、和室を飛び出す。
玄関ドアは開け放たれていた。夜気は湿っていて冷たい。樹音の後ろ姿は闇に紛れている。しかし足音は聞きとれる。裸足らしい。その認識が百合梨に靴を履くだけの心のゆとりをもたらす。ハンマーをいっそう強く握る。
「樹音っ!」
ひと声吠えて外に飛び出した。
川真田家は山中にある。混沌と生い茂った植物の中に身を潜められるのがもっとも厄介なのだが、樹音は曲がりくねった道を馬鹿正直に道なりに走っている。気が動転しているのだろう。追う側と追われる側とでは、心理状態にそれほどの差が出るものなのだ。
すぐに追いつけると思っていた。樹音は途中で転ぶような気もしていた。追いついたあとは、襟首を掴んで路上に突き飛ばす。転んでくれたならばその手間が省ける。馬乗りになり、これまでに溜め込んだ憎悪を罵詈雑言に変換して浴びせながら、頭部をハンマーで滅多打ちにして殺害。そんな未来が実現すると思っていた。
しかし、百メートルも走らないうちに息が切れてきた。
あれっ、と思った。
一歩ごとに進む距離が通常よりも短いことには、内心で首を傾げたあとで気がついた。樹音との距離は縮まるどころか、足音は次第に遠ざかっていく。
なぜ? なぜ追いつけない?
簡単なことだ。息を切らしている現状がそのまま答えになっている。
疲れているのだ。
当たり前だ。百合梨は今宵、五人もの人間と格闘し、殺した。
高宮には手酷く痛めつけられた。守勢に回る時間が長く、あまりにも殴られすぎた。打ち負かせたのが不思議なくらいの強敵だった。渡会、佐久間、花岡、神宮寺玲奈。四人からは攻撃らしい攻撃は食らわなかったが、殺すべく、死に物狂いで凶器を振るって消費した体力は馬鹿にならない。特に渡会の抵抗はかなり激しかった。ハンマーはそれなりの重量があるし、ナイフの刃はかなりの力を込めないと人体には埋まらない。和室の外で殺した二人に関しては、興奮していたのと、人を殺した経験が浅かったのとで、凶器を不必要に振り回しすぎた嫌いがある。
「……いや」
浅いとはいえない。丸一日前にトモノリを殺している。相手は無抵抗だったとはいえ、殺人を経験しているのは事実。
当時は特に疲れを感じなかったが、初めて人を殺した興奮と、明日悲願の鏖を果たせる興奮により、無自覚だっただけなのだろう。あの日トモノリを殺した疲労が今になって足を鈍らせ、結果、百合梨は樹音を逃す危機に瀕しているのかもしれない。
呪いだ、と思う。
わたしはトモノリに呪われている。トモノリは殺すべきではなかった。あの人は死ぬべき人間ではなかった。
トモノリとともに過ごした過去が思い出される。
彼は人と口頭でコミュニケーションをとるのが嫌いで、不得手だと自己申告した。しかし、百合梨とは普通に話せていた。百合梨は幼少時から友だちとは無縁、人と話すのはそう得意ではないにもかかわらず。言葉を交わしてみた限りでは、人と話すのが嫌い、という印象は抱かなかった。
広い意味で似た者同士だからこそ上手くやれていた、という側面はあるかもしれない。しかし、それを差し引いても、トモノリは正常からは大きく逸脱していないように感じた。声にも顔にも感情が表れにくいという異常を抱えてはいたが、百合梨自身は、会話を交わしているうちに違和感を抱かなくなった。慣れれば無視できる程度の異常に過ぎなかった。
トモノリは人嫌いだった。その原因は、人と口頭でコミュニケーションをとるのが嫌いだし、不得手だから。
しかし、嫌いなのも不得手なのも思い込みだった。人さえ選べば、トモノリは問題なく他者とコミュニケーションがとれる。
嫌いだ、苦手だと思っていたのは、実は思い違いだったと本人が自覚すれば、他者に対する彼の態度には変化が現れただろう。条件によっては普通に話せるくらいだから、トレーニングさえ積めば、誰とでも普通に話せるようになる可能性は高かったはずだ。長年社会に出ていないことによる弊害も多いだろうが、他者からのサポートも受けられる。
トモノリは三十歳。十四歳の百合梨は、三十歳と聞いて「歳を食っている」と感じたが、冷静に考えるとまだ平均寿命の半分も消化していない。手先が器用という、なんらかの形で社会の役に立ちそうな長所を持っていることを考え合わせれば、まっとうな生活を送るチャンスは充分にあった。
トモノリには未来があった。可能性があった。もっともっと生きていける人だった。
それなのに、百合梨は彼を殺した。命を、可能性を、未来を、永遠に、不可逆的に奪った。
百合梨はトモノリの友だちとして、「誰かに殺してもらうことで自らの命を終わらせたい」という歪んだ欲望を叶えるために協力したが、それは間違いだったのでは?
本当は、トモノリを励まし、他者からのサポートを受けるようにすすめ、人生をたった三十年で終わらないように導くべきだったのでは?
トモノリを殺さず、なおかつ彼が社会復帰に前向きになっていたならば、異常の枠から卒業した彼は、いじめっ子を鏖にするという、百合梨の異常な願望を否定し、やめさせようとしていた可能性もあり、だとすれば百合梨は樹音の家に宿泊する誘いを断っていたかもしれず、泊まらなければ当然殺人は起きなかったから、こうして百合梨が樹音を追いかけ、追いつくどころか突き放されている今が訪れることもなかった。
「――樹音! 待てぇっ!」
たまらない気持ちになり、裏返る寸前の声で叫ぶ。
「命乞いをしろ。無様に額を地面にこすりつけて。そうすれば赦してやる。命だけは助けてやる。死にたくないんだろ? だったら、今までわたしにしたことを謝れよ。謝るから助けてくださいって言えよ。ほら、早く!」
返事はない。ただ夜を駆ける音だけが聞こえている。それが徐々に遠ざかっていく。おそらく、樹音は振り向きもしていないだろう。人間だったころは一枝百合梨と呼ばれていた悪魔から逃れるために、一心不乱に全力疾走しているだけ。
不意に、寂しさが胸を過ぎった。
今までさんざん、わたしにあんな酷いことをしてきたくせに、いざ自分が被害に遭ったら逃げるのか。束の間向き合うことすらもなく。川真田樹音はなんて卑怯な人間なんだ。
そういえばあいつは、高宮を見捨てて逃げた。高宮に一方的に危険な役回りを命じ、高宮がわたしを攻め立てているあいだはいっしょになって攻撃したくせに、いざ劣勢に立たされると見捨てて逃げる。友だちの命は命を擲ってでも助ける、ではなくて。
樹音だけではない。
神宮寺玲奈は、自分たちが日常的にいじめている相手により深いダメージを与えたいという動機で、好意を抱いてもいない百合梨に接近し、偽者の友人として振る舞った。
トモノリは、「トモノリには死んでほしくない」という百合梨の願いを無視して、自分を殺すように彼女に迫った。
百合梨だって、トモノリの死をさほど悲しまなかった。
これがこの世界の仕組みなのだ。
真の意味での友だちなど、できるはずがなかったのだ。
この世界は、なんと寂しいのだろう。なんと虚しいのだろう。
百合梨は見る見る減速する。足音が遠のいていく。
そして、彼女の両足は止まる。
先行する足音が聞こえなくなり、百合梨は闇の中に一人取り残される。
脳髄は仕事を放棄している。自分自身を叱咤激励する気力はすでに空っぽだ。
「……終わってる」
力なくひとりごち、血に濡れたすみれ色のワンピースを脱ぎ捨て、道の脇に広がる植物をかき分ける。
メインストリートと呼ぶには、山中を真っ直ぐに走るその道の左右に広がる景色は寂しすぎる。草木、草木、空き地、草木、民家、草木、草木、草木――延々とそんな調子だ。隼人は気が張っているからなんとも思わないが、成長しすぎた木の幹や枝葉が、あふれ出すように路面の上空にせり出した光景は、客観的には極めて不気味なのだろう。
道に入ったのに前後して、隼人は走行から歩行へと切り替えていた。体力が限界に近かったからだ。
民家を見かけるたびに表札を目で確認しているが、これまでのところ「川真田」の三文字には巡り合えずにいる。そもそも、「かなり大きな家」を見つけられていない。疲れと焦燥とが絡み合い、玲奈の情報がそもそも嘘だったのではないかと疑い、絶望の沼に沈みつつあった。
それでも隼人は捜索を継続する。愛する百合梨が酷い目に遭わされている公算が高いのに、見捨てるわけにはいかない。ここまで来て諦めるなど、プライドが許さない。
やがて、川真田家の場所を住人に尋ねよう、と方針を固めた。これから自分がしようとしている行為を考えれば、その情報を得たがっていることは誰にも知られたくないが、背に腹は代えられない。
次に見かけた民家が川真田家でなければ、住人に尋ねてみるつもりでいた。しかし間が悪いことに、道の両脇から民家どころか建物すらも消えた。
不意に前方から聞こえてきた音に、隼人は息を呑んで足を止める。
目を凝らしたが、視界に映るのは闇ばかりだ。
しかし、音は前方からたしかに聞こえてくる。近づいてくる。
足音なのは間違いないが、靴音ではないようだ。まさか、野生の動物でも出たのだろうか? 植物の陰に身を潜めようかとも考えたが、その場で待ち構えることを選ぶ。無意識に、ポケットに収めた包丁の柄を握りしめていた。
闇の中から徐々に浮かび上がってくるものがある。それは人の形をしている。ゆりりんかもしれない、という思いが初めて胸に浮かんだ。待ち受ける隼人の存在には気がついていないらしく、走るのをやめようとしない。荒い呼吸音が耳に届いた。
「……お前は」
思わず漏れた呟きに、その人物の足が止まる。後ずさりをしたが、視線の方向は隼人のままだ。彼はその人物の名前を呼ぼうとした。とたんにその人物が駆け寄ってきて、彼に抱きついた。
「おっ、おい。どうしたんだよ――川真田さん」
少女特有の柔らかさに困惑しながらも、隼人は今度こそ名前を口にした。
樹音は彼の両腕ごと束縛するように固く抱擁している。密着の度合いは深く、体の震えが伝わってくる。かなり激しい。肩が剥き出しの黒いネグリジェ一枚という姿。抱きつかれているので足元は見えないが、裸足なのだろうと想像がつく。髪の毛は乱れに乱れていて、少し汗臭い。
どう見てもなにか事件が起きたとしか思えない。
やがて、両腕の力が不意に緩んだ。顔を埋めたままだが、心は一定の落ち着きを取り戻したと隼人は判断を下す。
「川真田さん、なにがあったの?」
呼びかけると、一拍を置いて顔が持ち上がった。涙と汗でぐちゃぐちゃになった顔は、恐怖に強張っている。瞳は隼人を捉えているが、意識は別の対象に注がれている。その対象に樹音は怯えているのだ。
反応は、呼びかけてから十秒も二十秒も遅れて返ってきた。
「……一枝が」
「一枝さん? 一枝さんがどうしたの?」
「みんなを殺した。寝込みを襲われて、あたし以外の五人はみんな殺された。部屋の外に行ったまま帰ってきていない子が二人いるけど、多分二人とも殺されてる。みんな、みんな、一枝に殺されて、生き残ってるのはあたし一人」
「……マジかよ」
にわかには信じがたかった。自分が暮らす町で、身近な人間が身近な人間を殺したという非現実的な展開に、頭がついていかない。
信じがたいと感じる理由をさらに挙げるなら、樹音が加害者だと名指しした一枝百合梨の人となりだ。
隼人はこれまで百合梨のことを、圧倒的に被害者だと認識していた。いじめられっぱなしの、やられっぱなし、反撃も抵抗もしない人間だと。現在の状況から自力で脱出することがあるのだとすれば、自らの手で自らの命を絶つしかないと思い込んでいた。
それが、まさか、いじめっ子を殺すことで打破しようとするなんて。
とうてい信じられる話ではない。樹音たちのグループの誰かが犯した凶行を百合梨になすりつけようとしているのでは、と疑いもした。
しかし、酷く怯える樹音の顔がその可能性を強く否定する。いじめの首謀者である樹音にとっても、一枝百合梨は圧倒的に被害者だった。だからこそ、反抗したことに虚を衝かれ、手段が殺人だったことに驚愕し、恐怖している。
話をしたことで、襲われているさなかのことを思い出したらしく、樹音は泣き出した。
隼人は全身に鳥肌が立ちっぱなしだ。
一枝百合梨はこれまで、どこを切りとっても被害者でしかなかった。しかし、当たり前だが、被害に甘んじるかたわら、憎悪を溜め込んできたのだ。復讐心を育んできたのだ。殺意を高めてきたのだ。
ただ、放出はしなかった。なんらかの方法で小出しにしていたのかもしれないが、大がかりな放出は行わなかった。
しかしやがて、あふれ出すときが来た。六人中五人を殺し、リーダーの川真田樹音を精神的に追い詰めた。殺し損ねはしたが、実質的に復讐は完了したようなものだ。一枝百合梨の大勝利だ。
……俺も。
俺も一線を越えたい。臆病な自分と決別したい。愛するゆりりんと同じ地平に立ちたい。
そのために必要なのは――。
「川真田さん、大丈夫だよ」
深更の闇の中でもはっきりとわかるように、前歯を剥き出しにして微笑んで隼人は言う。
「俺がいるから大丈夫だよ。怖い目に遭ったみたいだけど、俺と合流したからもう大丈夫。二度と怯えなくても済むよ」
左手を横方向に広げて歩み寄る。樹音は少し表情を緩め、自らも彼に近づく。
隼人はジーンズのポケットから包丁を掴み出す。
樹音ははっとして立ち止まる。その顔に向かって彼は宣告する。
「だって、お前はここで死ぬんだから」
隼人は路上に衣服が落ちているのを発見した。すみれ色のワンピース。
その近くの道路脇に、何者かが植物を掻き分け、踏み荒らしながら突き進んだらしい痕跡を見つけた。暗さと狭さのせいでわかりづらいが、たしかに通り道ができている。
躊躇いはなかった。スニーカーの靴底が下草を踏みしめる音が立つのも、押しのけた樹枝が乾いた音を立てるのを厭わずに、隼人は獣道を突き進む。
五分も歩かないうちに行き止まりに達した。そこには見覚えのある人物がいた。
「一枝さん」
名前のわからない針葉樹の下、下草の褥の上に、正座を大きく崩したような座りかたで座っている。ブラジャーとショーツを身に着けただけという姿だ。
呼びかけに三秒遅れて顔が持ち上がった。隼人を捉えた瞳は、光を奪われたように、あるいは義眼のように、虚ろだ。
鳥肌が立った。恐怖ではなく、歓喜の鳥肌が。両の二の腕から生じたそれは、瞬く間に全身へと波及し、身震いを強制した。
ああ、ゆりりん。
やっと、会えた。
とうとう、二人きりで話す機会ができたね。
「一枝さん」
改めて呼びかける。まばたきが観測できた。瞳は虚ろだが、森嶋隼人の姿を捉えている。目の前にいる人物が、クラスメイトの森嶋隼人だと認識している。会話が成立しそうだ。
「さっき偶然、道でクラスメイトの川真田さんと会って、事情を聞いたよ。一枝さん、川真田さんのグループの女子たちを鏖にしたんだって? 寝込みを襲って」
「そうだよ。ハンマーで殴り倒して、ナイフで突き刺して、殺した」
百合梨の声は普段よりもいくぶん低い。音量は小さいが、まるで耳元でささやかれたように明瞭に聞こえる。吐息さえ耳朶に感じたように錯覚された。
「一人逃しちゃったから鏖じゃないけどね。そんなことより、森嶋くんはどうしてこの場所に?」
「ここを見つけたのは、人が無理矢理通ったような跡を見かけたからだよ。そもそもどうしてこんな山の中にいるのかというと――」
神宮寺玲奈との関係や、玲奈と連絡をとったことについて、簡潔に説明する。
「つまり、森嶋くんはわたしが心配で会いに来てくれたんだね」
「そのとおりだよ。お土産があるんだ。ほら」
ポケットから取り出したものを歩み寄って差し出す。受けとってくれるか不安だったが、百合梨は自ら右手を伸ばして掴んだ。
ピンポン玉よりも一回り小さな球体――眼球。つい十分ほど前まで、樹音の右の眼窩に収まっていたものだ。
口を半分開けた顔が隼人を見つめる。彼は説明する。
持参した包丁で樹音を刺殺した。動機は、百合梨が殺し損ねた樹音を殺せば、百合梨の好感度が上がると考えたから。殺した証拠として、体の一部を切りとって見せることにした。本当は生首を持参したかったのだが、包丁では上手く切れなかったので眼球で妥協した。数ある部位の中から眼球を選んだのは、樹音の瞳には死んでもなお人を委縮させる力が宿っていると感じたので、その効果を消し去りたかったから。
「好感度、というのはどういう意味? わたしが殺人鬼だから、機嫌をとって殺される確率を下げようとしたということ?」
「違うよ。殺されたくないなら、川真田さんの話を聞いた時点で逃げているさ」
ひと呼吸を置く。今の隼人は気持ちが前のめりだ。怖いものなどなにもない。
「一枝さん。いや、ゆりりん。君のことが好きだからだよ。君のもとに駆けつけたのも、川真田さんを殺したのも、君が好きだからこそ」
百合梨の瞳に光は宿らない。まばたきの頻度は少し増えたようだ。彼女の手に握られた樹音の眼球が隼人を見つめている。百合梨の双眸も見つめている。もっと言葉を聞きたがっている。説明を求めている。
「お互いに殺人の罪を犯して、先が見えなくて、なにかと大変だと思うけど、似た者同士、手を取り合えば案外なんとかなるんじゃないかな。いじめを克服できたゆりりんと、臆病さを克服できた俺が協力すれば、きっとどんな困難も乗り越えていけるよ。だから、お願いします。俺の恋人になってください……!」
深々と頭を下げる。人声が途絶え、一帯は死後の世界を思わせる静寂に包まれた。
十、心の中でカウントアップした。
百合梨からの返事はない。
恐怖にも似た不安感が隼人の胸を駆け足で染め上げていく。
邂逅を果たした瞬間の百合梨は、呆然自失といった様子に見えた。犯した罪の重さを遅まきながら自覚し、途方に暮れていると解釈するのが妥当な姿だった。救済が必要だと思ったし、救済を欲しているとも思った。弱みにつけ込むようで罪悪感を覚えたが、それでも告白しようと決意した。二人でこれからの人生を歩んでいくこと、それこそが救済だと信じた。
では、肝心の百合梨はどう思っているのだろう?
彼女は果たして、「森嶋隼人は一枝百合梨を救い得る人間だ」と認識しているのだろうか?
隼人はこれまで、いじめられている百合梨をまともに助けようとはしなかった。全く行動を起こさなかったわけではないが、総じてささいで、なおかつ間接的な手助けに過ぎなかった。暴言や暴力をやめるよう加害者に物申したり、被害者の相談に乗ったりしたことは一度もなかった。百合梨にとって隼人は、多数派を占める傍観者グループの目立たない一員でしかないはずだ。
そんな人間から「恋人になってください」と言われて、心が弾むか? 「はい」と気持ちよく返事をする気になれるか?
喜ぶどころかむしろ、今になっていけしゃあしゃあと仲間面をしてきたことに腹を立てて、いじめっ子たちと同じような目に遭わせてやりたいと――。
かさり、と草が鳴った。
はっとして顔を上げた。百合梨の右手は眼球を掴んでいない。色のない瞳が見つめる対象は、隼人だ。
「森嶋くんは包丁、今も持っているんだよね。川真田さんを殺した包丁」
「うん、持ってるよ」
ポケットから取り出し、顔の高さにかざしてみせる。「包丁がどうかしたの?」と眼差しで問うと、
「恋人って、友だちの上位互換だよね? 友だちよりも親密な関係だよね?」
抑揚のない声、漣一つ立っていない無表情での詰問だ。毛先がちりつくような迫力に気圧されながらも「そうだね」と答えると、
「じゃあ、心中して」
体温が急上昇し、汗が噴き出す。心臓が早鐘を打ちはじめた。
「わたし、もう死にたいの。わたしのことが好きなら、わたしと恋人になりたいんだったら、わたしの願いを叶えてよ。わたしは死にたい。ただ死ぬんじゃなくて、誰かといっしょに死にたい。それが願いなの。だから、森嶋くんが先に死んでくれない?」
試されているのだ、と隼人は悟る。
要求を拒めば、百合梨は隼人に失望するだろう。告白を断り、森嶋隼人という存在とは永遠に決別するに違いない。最悪この場で、自らの手で自らの喉笛を掻き切らないとも限らない。
しかし、だからといって、隼人が自殺してしまっては元も子もない。死んでしまえば、百合梨とともに過ごす時間を体験できなくなる。後を追って死んでくれれば慰めくらいにはなるかもしれないが、希望どおり動いてくれる保障はどこにもない。
虚ろだ、虚ろだとばかり思っていた百合梨の黒目に、芥子粒ほどの光が宿っていることに不意に気がつく。小さいが揺るぎのない、見つめれば見つめるほど引き込まれるような光だ。
彼女は冗談などではなく、真剣に、本気で、心中してくれと願い出ている。隼人のほうが先に死んでくれと願い出ている。この二つに疑いの余地はない。
ならば、隼人も真剣に、本気で応える必要がある。
喉を鳴らして唾を飲み下し、隼人が出した結論は――。
雑草を踏みしめ、枝葉を押しのけながら、百合梨は道に出た。
おもむろに、右手に提げていたものを放り投げる。
突如として、円盤状の刃がうなりを上げて回転した。ガラスが破砕する音が響き、砂があふれ出す。緩やかに四方に広がる流砂はほどなく動きを止め、薄れ、「青春」の二字がしたためられた書道作品の数々へと姿を変える。それらはサツキツツジの花弁のようにいっせいに舞い落ち、音もなく床に貼りつく。全て裏面を上にしているが、一枚だけ表を上に向けている。その一枚に焦点を定めた瞬間、幻視は跡形もなく消滅した。
百合梨の視界の中央に映し出されているのは、仰向けに路面に転がった隼人の生首。
虚ろな二つの瞳は限界近くまで見開かれ、夜空を仰いでいる。口は不満を訴えようとするかのように歪に開いている。顔や髪の毛は血で赤黒く汚れている。
『嫌だ。俺はゆりりんといっしょに生きたい。どうして死にたいと思うの? 理由を教えて。簡単に諦めないで、二人で協力して解決策を探そうよ。だって、俺たちは恋人同士でしょ? 友だち以上の関係でしょ?』
それが「心中がしたいから、先に死んで」に対する隼人の返答だった。
百合梨は作り笑いを浮かべ、包丁を渡すよう手振りで促した。意思を翻し、隼人とともに生きる決心がついたと解釈したのだろう。彼は表情を明るくさせて凶器を手渡した。とたんに百合梨は笑顔を引っ込め、包丁の刃でクラスメイトの心臓を貫いた。それが森嶋隼人の最期だった。
隼人を刺殺したのは、百合梨の言うことを聞かなかったからだ。そんな人間、恋人はもちろん、友だちにすらなれるはずがない。だから、殺した。
殺害後、隼人のあとを追って死のう、という気分にはならなかった。彼が失望させるような返答をしたために、心中のパートナーから降格したのではない。百合梨は最初から死にたくなかったし、隼人が運命をともにするのにふさわしい相手だと見なしてもいなかった。
百合梨はどこまでも一人で生きたかった。
本当は、友だちなんて欲しくなかった。
いじめっ子に復讐するよりも、平穏がほしい――。
そう気がついた過去のことが甦った。
わたしは、一人きりでも構わないから、平穏に生きたかっただけなのだ。それを阻害する人間がいれば、殺してでも平穏を手に入れようとする、それがわたしという人間なのだ。
一枝百合梨は、なんて寂しい人間なのだろう。
たまらない気持ちになり、隼人の遺体を包丁でめった刺しにした。すぐに息が切れ、我に返り、落ち着けと自分に言い聞かせた。なぜかは自分でも説明できないが、感情的になるのは避けたほうがいいと思った。心を落ち着かせるには単純作業がいいということで、隼人の頭部を切り離しにかかった。
手を動かしているあいだは、円盤状の刃が緩慢に回転する映像が脳裏をちらついた。感情の高ぶりと人体の硬さに邪魔され、作業は捗らない。しかし、時間が経てば経つほど熱は冷めていき、平熱に復したころに切断を完了した。長々と息を吐き、生首の髪の毛を鷲掴みにして道に出た。
平穏に生きたい。
そんな願いを持つ百合梨にとって、今後の人生は試練の連続となるだろう。川真田家の惨劇も、川真田樹音や森嶋隼人の死も、いずれは露見する。重要参考人として一枝百合梨の名前が挙がるのは間違いない。樹音以外の人間を殺したのは事実なのだから、ひとたび警察の手に落ちたが最後、百合梨は平穏な暮らしから遠ざかる。もしかすると、一生縁がないままかもしれない。
「……嫌だ」
捕まりたくない。逃げなければ。
でも、どこへ?
この町に引っ越してくる前に住んでいた町?
――父親が責任を追及された事故のことを考えれば、あの町にはもう戻れない。
トモノリが住まう小屋?
――彼はもう死んだ。
学校?
――加害者と傍観者しかいない場所になど、たとえ加害者が死に絶えたとしても行くのはごめんだ。
では、どこへ行けばいい? どこへ逃げればいい?
「……家だ」
自宅。この町の住宅地に建つ、一枝家。
あそこなら、自分専用のベッドがある。家族も待っている。靖彦は愚痴ばかりだし、無理矢理コミュニケーションをとろうとしてくるのが煩わしいが、そろそろ飽きるころだろう。麻子の諦めきった態度は不愉快だが、気にしなければいい。両親となら、どうにか折り合いをつけて共生できる。
どうしても難しいようなら、鏖にしてしまえばいい。
思い出したが、そういえば、ダイニングの電球をまだ交換していないのだった。両親は一向に着手しようとしないから、あれはきっと百合梨の仕事なのだろう。仕事が残っているのだから、帰ってはならない理由はない。
血塗れの包丁を手にしたまま、百合梨は走り出した。
実際は町の中心地へ向かう下りの山道だが、頭の中では、サツキツツジが植えられた通りを疾駆している。色鮮やかな赤い花は一輪残らず茶色く枯れ、人通りは途絶え、静謐さが空間を領している。
活気のない、音のない、色のない世界。
それでも百合梨は希望を手放していない。
すみれの花言葉をネットで検索したさいについでに調べたから、百合梨は知っている。赤色のサツキツツジの花言葉は「幸福」だということを。開花期は五月から六月にかけてで、今はまだ六月に入ったばかりだから、枯れるにはまだ少し早い季節だということを。
明るくなったダイニングで、笑いたかった。
新品のようにまっさらな服、返り血に彩られた服、どちらを着ているのだとしても。