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スカッと短編

【連載版始めました】メシマズ扱いしてくる婚約者とは別れることにしました ~本当は美味しかったと言われても、料理バフで必要とされているのでもう戻りません~

作者: 村沢黒音

 

「ああ……ひどい。これはひどい味だ」

 

 フィンセントは開口一番、そう言った。

 ジーナ手製の菓子を呑みこんだ直後の発言である。

 秀麗な眉をひそめ、ゲテモノを口にしたかのような顔をしている。更には手を口に当てて、えずく動作までした。

 

 一連の行動を、ジーナは冷めた目で眺めていた。

 

 ジーナが何の反応も示さないからだろう。フィンセントはこちらの様子を、ちら……ちら……と、窺ってから、菓子をまた口に含む。

 

(美味しくないなら、無理して食べなくてもいいのに)

 

 ジーナは心の底からそう思った。

  

「ごほっ、うおっほんっ!」


 フィンセントの反応は先ほどよりも大仰だった。

 えずきながらも、それを無理やり咀嚼している。

 何度も咳込んでから、ジーナの顔を、ちらり……と、窺った。そこで不審そうに眉を寄せる。

 ジーナの対応が冷ややかだったからだろう。普段とちがっているのだ。

 

 具体的には――

 悲しそうな顔をしない。「申し訳ありません……!」と頭を下げもしない。泣きそうな声で「フィンセント様、もうそちらは召し上がらなくて結構です……」と、言い出すこともしない。

 

 ジーナは微動だにせず、表情1つ変えずに、ただフィンセントの姿を見つめ続けているのだった。

 ジーナの態度は普段と異なっているのに、フィンセントはいつも通りの台詞を吐いた。困ったような笑顔を浮かべて、

 

「心配しなくていい。君が一生懸命に作ったものを無駄にはしたくない。これは私が全部、食べるから」

「……そうですか」

 

 ジーナはようやく言葉を発した。

 そして、先ほどからずっと思っていた本心を口にした。

 

「フィンセント様のお口に合わないものを、無理に召し上がっていただく必要はありません」

「そんなわけにはいかない。いくら独創的な味とはいえ、君がわざわざ私のために手作りしてくれたものだ。最後までいただくよ」

「そうですか」

 

 ジーナは同じ調子で続けた。


 ここ、フェリンガ王国は美食の国と呼ばれているほど、食文化を大事にする国家だ。そのため、「菓子作り」は貴族令嬢の嗜みとされている。ジーナも幼い頃より菓子作りを学んできた。

 令嬢が婚約者に手作り菓子を渡すのは、フェリンガ王国では当たり前の光景だった。公爵家のジーナと、第一王子フィンセントの間でも、それはしかりだ。

 ジーナはこれまで、たくさんの菓子をフィンセントに貢いできた。だが、そのどれもがフィンセントの舌には合わなかった。フィンセントはいつも眉をひそめて、時にえずいたり、むせたりしつつも、ジーナの菓子を食べていた。

 

『美味しくないのでしたら、残してください』

 

 ジーナは何度も言った。しかし、フィンセントは口では「まずい」と言いつつも、いつもジーナの菓子を残すことはなかった。

 ものすごくまずそうにしながらも、完食するのだ。そして、『次の菓子には期待しているよ』と言い添える。ジーナが菓子を持って行かないと、『今日はないのかな?』と催促してくるのだった。

 だから、彼と会う日にはジーナはいつも手作り菓子を持参した。それをフィンセントはことごとくけなした。

 その様を見る度に、ジーナの心は蝕まれていった。


 フィンセントがえずく動作を続けながら菓子を食べるのを見て、ジーナは言葉を足す。

 

「もう二度とお作りはいたしませんが」

「…………え?」

 

 フィンセントはきょとんとした。

 そんなことを言われるとは予想外だったのだろう。それからフィンセントは「仕方がない」という様子で肩をすくめた。

 彼はどうやら、ジーナが「ただすねているだけ」だと思ったらしい。

 

 ――そんな過程は、もうとうの昔に過ぎ去っているというのに。

 

 フィンセントは苦笑しながら言葉を継ぐ。

 

「気に病むことでもあるまい。誰しも向き不向きがあるものだ。それで人から何か言われることもあるだろう。しかし、私は君の作ったものを今まで残したことはないじゃないか」

「人から何か言われる、とは? 具体的にはどのような? 例えば、男爵家のエリデさんが『フィンセント様にお出しする物が、そんな貧相なものなんて信じられない』とか、『私の方がもっと美味しいものを作れるのに』とか、言ってらっしゃることですか?」

「どこでそれを……!」

 

 ジーナが滔々と告げると、フィンセントは顔を青くする。

 

「それに対して、フィンセント様はこう答えたそうですね。『その通りだ。私も本来ならば、あのような吐き気を催すような代物を口にしたくはない』と。そして、エリデさんがお作りになられたお菓子を美味しそうに召し上がられていたそうですね。その話を聞いた皆様は、フィンセント様に大変、同情的な様子だったそうですが……」

「ちがう、それは言葉の綾だ! 君は勘違いをしている!」

 

 フィンセントは次に顔を真っ赤に染めた。対するジーナはあくまで淡々と答える。

 

「そうですか。勘違い」

「ああ、そうだ。現にこうして、私が君の作った菓子を残したことはないだろう? ちゃんと全部、食べているのだから」

「毎回、えずきながら召し上がっておられますが。その上、私が作る菓子を社交の場で散々、けなして、笑いものにしているという噂を耳にしております。それも私の勘違いなのでしょうか?」

 

 フィンセントは口をパクパクと開いて、何かを言おうとした。しかし、言葉にならないらしい。

 その隙にジーナは畳みかけた。

 

「これ以上、フィンセント様に『とても人が口にするようなものじゃない』『吐き気が止まらない』『醜悪な』代物を、召し上がっていただくわけにはいきません。昨日、婚約解消の手続きを行わせていただきました」

「なっ……わ、私はそんな話、聞いてないぞ……!」

「国王陛下にはご承諾を得ております」

「ち……父上が……?」

 

 フィンセントは蒼白になる。それでもなぜか、手に握りしめた菓子だけは離さなかった。あれほどけなして、「美味しくない」と、えずいていたにも関わらず。

 

 ジーナはその様子を一瞥すると、キッパリと告げた。

 

「もう二度と、私の料理をフィンセント様にお出しすることはありませんので、どうぞご安心を」

 

 そうして、ジーナは席を立った。

 婚約破棄は昨日のうちに成立している。

 このテーブルに着いた時点で、2人は婚約者ではなくなっていたのだ。

 ジーナは毅然とした表情を一切崩すことなく、彼の元から立ち去った。

 



 そして――その日、公爵家の娘、ジーナ・エメリアは姿を消した。



 

 + 



 茶器の割れる音が響く。メイドたちは「きゃ」と怯えた声を上げた。

 それに構わず、フィンセントは机の上のものをすべて叩き落した。

 

「ちがう! これじゃない!」

「申し訳ございません、殿下! すぐに別のものをお持ちいたします……!」

 

 メイドが震えながら、別の菓子を運んでくる。しかし、どれを口にしてもフィンセントは満足することができなかった。

 

「ちがう! これでは、何もかもちがう!!」

 

 フィンセントは激昂し、喚き散らした。


(ジーナの菓子は……もっと……もっと美味しかった・・・・・・のに!)

 

 あれだけが自分の舌を満足させることができた。早急にあの味をまた味わいたい。

 

「彼女はまだ見つからないのか!?」

 

 フィンセントは乱暴に尋ねる。

 ジーナ・エメリアが失踪してから1カ月。フィンセントは兵士に命じて、国中の捜索に当たらせていた。しかし、国の総力を挙げても、彼女の行方はわからなかった。

 

「早急に探し出せ!」

 

 フィンセントは暗い感情を瞳に宿して、決意する。

 

(……そして、また私のために菓子を作ってもらう)

 

 

 +


 昼時の厨房は戦場だ。腹を空かせた若者たちは、1秒だって待ってはくれない。

 だから、従業員は忙しなく厨房を動き回っていた。

 

「グラタン皿、用意できてる!?」

「はい」

 

 その声に答えたのは、地味な容姿の娘だった。メガネをかけ、栗色の髪をお下げにしている。

 

 少女がこの食堂で働き始めたのは、今から1か月前のことだった。

 食堂の主人・エマは、知り合いからこの少女を紹介されて、受け入れた。

 少女は洗い終わったグラタン皿を持ってくる。

 

「ありがとう、ジーナさん」

 

 エマが礼を言うと、少女はぺこりと頭を下げて、また洗い場に戻っていく。

 ……無愛想なのがたまにキズだが。

 でも、エマは少女――ジーナのことをすでに気に入っていた。

 彼女はある程度、料理ができるにちがいない。ただ皿を洗うだけでなく、どの順番で皿を綺麗にしていけば注文に対応できるのか、常に考えて動いている。料理人が今、どの料理にとりかかっているのかを瞬時に把握しなければ、できることではない。

 

(いきなり素性のわからない娘を紹介された時は、怪訝に思ったけど。彼女を雇って正解だったわね)



 

 少女の名は、ジーナ。

 姓を持たない平民の娘だ。

 彼女は魔法学校フィオリトゥラの食堂で、下働きをしている。




 +


「ジーナさん、昼休憩に行ってらっしゃい」

「……はい」


 ジーナはランチボックスを2つ・・抱えて、食堂を後にする。

 彼女が家出してから1カ月が経っていた。ジーナは父の伝手で、この食堂で働き始めた。その際、役立ってくれたのはジーナがかけているメガネだ。

 それは魔導具で、かけることで容姿を変えることができる。ジーナの元の姿は、銀髪赤眼の冷めた雰囲気の少女だ。しかし、メガネをかけると髪と目の色が変わり、面立ちも冴えないものとなる。これも父に用意してもらった物だった。


 『しばらく素性を隠して、料理の修行をしたい』――ジーナの希望を、父は認めてくれた。

 フィンセントに料理を散々けなされたので、ジーナは自信を失くしていた。フィンセント以外の者は、ジーナの料理を絶賛してくれる。しかし、「それは私が公爵家の娘だから、皆、お世辞を言っているだけなのでは……?」と思うようになっていた。公爵家の娘という立場を捨て、一から料理を勉強し直そうと思ったのだ。


 ジーナは中庭を抜け、いつも昼食をとっている場所へと向かう。

 道中、学校の生徒とすれちがった。彼らが着ている制服は、黒を基調として裏地はえんじ色、金の糸で紋章が刺繍してある。ジーナが通っていた学校とは雰囲気が異なり、「魔道士」としての風格を感じるデザインだった。

 魔法学校と名のつくものは全国に存在するが、その中でもフィオリトゥラは、王族・貴族の子らが通う名門校だ。魔力を生まれつき持った子供だけが通うことができる。

 ジーナには魔力がないため、こことは異なる王立学校に通っていた。


 学校の生徒とすれちがう度に、ジーナは警戒の視線を向ける。その中にフィンセントがいないかを確認していた。

 フィンセントはこの学校に通う3年生だ。


 もし、彼に会ってしまったらと考えると怖かった。しかし、他に食堂の伝手もなかったので、ここで働く以外なかった。見た目が変わっている今は、気付かれることはないだろう。フィンセントは第一王子だし、こんな雑用人の娘を気にかけることもないはずだ。と、ジーナは自分に言い聞かせる。


 ジーナがたどり着いたのは、温室だった。職員はおろか、この学校の生徒だっておいそれと立ち入ることはできない。王族専用の休憩室だ。

 その前で待っていたのは――


「お待たせいたしました、殿下」

「いや……今、来たところだ」


 第二王子シスト・フェリンガ――フィンセントの腹違いの弟だ。ある理由から、王位継承権は限りなく低い。

 ジーナが頭を下げると、彼は素っ気なく告げて温室へと入っていく。


 シストがテーブルに着き、ジーナはその正面に座った。

 彼の顔をちらりと窺う。同じ王子でも、フィンセントとは雰囲気の異なる少年だ。

 不機嫌そうな表情、鋭い眼光。フィンセントは金髪碧眼だったが、シストの髪は紺色だ。その碧眼は威圧的で、近寄りがたい。


 だが……。


「今日はブルスケッタか。……ん、美味い」


 シストはジーナからランチボックスを受けとり、それを食べる。途端に険しい顔付きは蕩け出した。ぱっと目を輝かせ、心の底から美味しそうに料理を咀嚼している。

 シストは普段、不愛想な方だが、食事をとっている間は幸せそうに顔を綻ばせるのだ。


 ジーナが彼とこうして昼食を共にするようになったのは、ひょんな理由からだった。

 ジーナはその日、ランチボックスを抱えて、昼食に向かおうとしていた。その時、シストとぶつかって、ランチボックスが入れ替わってしまったのだ。ジーナが使っていたのは、食堂の汎用的なランチボックスだった。それも、どちらも中身は同じで、パニーニ。ただし、シストは食堂で購入したもので、ジーナのものは自前だ。見た目にそれほど差がなかったため、シストは気付かずにそのパニーニを食べた。そして――ジーナの料理をえらく気に入ってくれたらしい。


 すぐに食堂にやって来て、「あの料理は素晴らしかった」と褒めちぎった。ジーナに「あれをどうしても売ってほしい」とお願いしてきたのだ。


 初め、ジーナは半信半疑だった。フィンセントには散々、料理を馬鹿にされた。だから、『この人も私の料理を馬鹿にするために、また作れって言ってるんじゃないか……』と思えた。

 ジーナはその申し出を断った。しかし、シストは諦めず、毎日のように頼みこんできた。そのうち、食堂に様々な贈り物が届くようになった。どれもジーナが前から欲しいと思っている物ばかりだった。どうやらシストは食堂の人間にリサーチして、ジーナが欲しいと思っている物を用意してくれているようだった。


(……不思議)


 と、ジーナは贈り物を見て、思った。

 フィンセントにもよく贈り物をされていた。だが、それは好きではない花だったり、彼が選んだドレスだったり……。どれもジーナの趣味に合わない物ばかりだった。

 一方、シストが贈ってくるのは、欲しかった食材や、調理器具。一見すれば地味な物ばかりだが、ジーナはそれらを見て胸を弾ませた。『嬉しい……』と、心から思うことができた。

 シストの贈り物攻撃は、食堂の従業員にも知れ渡る。『そこまで熱心に口説かれてるなら、売ってあげたら?』と、料理長のエマから言われたこともあり。

 ジーナはその申し出を受けることにしたのだった。その時のシストの喜びようはすごかった。普段は不愛想な顔付きを輝かせて、ジーナに何度も礼を言った。それで『本当に嬉しいと、私の料理を美味しいと思ってくれているんだ』と、ジーナも信じることができた。


 その後、シストに誘われて、こうして昼食を共にすることになったのは予想外の出来事だったが……。その時間を、ジーナは楽しみにするようになっていた。

 シストはジーナの作った料理を全部「美味い」と褒めちぎった。その上、普段は浮かべないような笑顔を見せるのだから、本当にそう思ってくれていることがわかる。

 

 そんな姿を見ていると、ジーナも食欲が湧いてきて、自分の分に口をつける。

 完熟トマトを載せたブルスケッタだ。オリーブやバジルの香りが口いっぱいに広がる。

 

(……美味しい…………)

 

 自然とそう思うことができた。フィンセントとのお茶会はいつも胃が痛くなることばかりだった。フィンセントがえずきながら菓子を食べるせいで、自分で作る物が美味しいのかそうでないのか、わからなくなっていたのに。


(シスト様……)

 

 シストは心底、美味しそうに料理を食べてくれる。そんな姿を見ると、ジーナの心はホッと落ち着くのだった。


「今日の昼食も、とても美味かった。……ありがとう」


 昼食を終えて、温室を後にする。シストに礼を言われて、ジーナは目を逸らした。こんな風にお礼を言われることには、まだ慣れない……。不相応な評価ではないのかと、胸がドキドキとしてしまう。


「いえ……。シスト様も、いつもありがとうございます。先日の贈り物も嬉しかったです」


 こうしてシストに昼食を提供するようになった後も、シストは定期的に贈り物をしてくれる。ジーナが欲しがる食材を、最高品質の物でそろえてくれるのだ。そのおかげでジーナはより料理に張り合いが出ていた。


 温室を後にして、2人で中庭を歩いている時だった。

 ジーナはハッと目を見張る。対面から見覚えのある人物がやって来たのだ。しかし、その人物はジーナには目もくれない。苦い顔付きでシストを睨み付けていた。


「シスト、お前……」


 フィンセントだった。ジーナは体を固くする。

 彼はちらりとジーナの姿を見ると、馬鹿にしたように鼻で笑った。


「そんな地味な雑用人と親しくしているのか? 落ちこぼれのお前には、お似合いだ」


 正体がバレていない……そのことに、ジーナは胸を撫で下ろす。一方でシストは苛立った様子で、フィンセントを睨み付けた。


「俺のことは何とでも言え。けどな、こいつのことを悪く言うな」

「なっ……」


 フィンセントは眉をぴくぴくと震わせる。格下の存在に反抗された苛立ち。それを露わにして、刺々しい声を出す。


「ふん……初級魔法もろくに使えない無能が!」


 彼は馬鹿にしきった様子で吐き捨てる。そのままジーナには一瞥をくれることもせずに、去っていった。


「おい」

「は、はい……」


 不機嫌そうな声でシストが言うので、ジーナはぴくりと反応した。


「さっきの、気にすんなよ」

「えっ……?」

「別にお前は地味じゃ……あ、いや……何でもない」


 気まずそうにシストは顔を逸らす。

 ジーナは唖然として――肩から力を抜いた。


(ぶっきらぼうだけど……優しい人)


 凍り付いていた心が、ゆっくりと溶け出していくような感覚。その温かさにジーナの気持ちは、軽くなるのだった。



 +


 『落ちこぼれの第二王子』――それはフィオリトゥラ魔法学校では有名な話だった。


 魔法は魔力を消費して行使する。その魔力量がシストは0ではないものの、とてつもなく低かった。

 魔力量は訓練により伸ばすことができる。だから、シストも毎日のように魔法を使って、魔力の増加を図っていた。

 結果は――酷なものだった。

 魔力量がこれっぽっちも伸びなかったのだ。学校の教師たちも首をひねった。「これは100年に一度の鈍才かもしれない……」彼らは影でシストのことをそう呼んだ。


 一方で、兄のフィンセントはこの学校で一番の実力者だ。1年ほど前から急激に才覚を伸ばし、教師からも『100年に1人の大天才』と称えられている。


 フェリンガ王国の王位継承権は、『魔道士として力がもっとも優れている者』に与えられる。そのため、現在、王位継承権が高いのはフィンセントだ。初級魔法すら満足に使えないシストが、王となることは絶対にない。――フェリンガ王国の者は、誰もがそう思っていた。


(それでも……シスト様はフィンセント様にはない、素敵なものをいっぱい持っている……)


 ジーナはシストと過ごすようになって、そう思うようになった。

 そして、こんなに素晴らしい人なのに、その魅力を皆がわかってくれないことを歯がゆく感じた。


 フィンセントの婚約者であった時、ジーナはシストについてよくない噂ばかり耳にしていた。落ちこぼれ、授業をよくさぼる不良者、素行が悪い、など。フィンセントも彼については、『王家の手余し者だ』と言っていた。実際、ジーナが公爵家の娘としてシストと会った時、彼は険しい顔付きをしていて、近寄りがたい雰囲気だった。だから、「素行が悪い」という噂を、ジーナは信じてしまっていた。


 しかし、彼とこうして直に接するようになって……ジーナは理解した。シストは毎日のように訓練して、魔力量を増やそうとしている。そのために授業に顔を出さないのだ、ということを。そして、フィンセントがそれを影で『無駄な努力だ』とあざ笑っていることも知った。

 いつかシストの努力が叶うことがあればいいのに。と、ジーナは心から思うようになっていた。


 だからこそ、


「昨日……初級魔法の起動に成功した」


 昼食の席で、シストがぶっきらぼうに告げた時、ジーナは本当に嬉しかった。


「おめでとうございます、シスト様!」


 ぱっと顔を輝かせて、ジーナは告げる。自然と頬が綻んで、満面の笑顔を浮かべていた。


「なっ……」


 シストは目を見張って、ジーナの笑顔を見る。そして、じわじわと顔を赤くした。


「ああ……。たまたまかもしれないが」


 目を逸らして、彼は照れくさそうに告げる。ジーナは自分のことのように嬉しくて、はしゃいでいた。


「シスト様が毎日、頑張っていらっしゃるからですね。他の魔法もきっと使えるようになります。絶対に」

「…………お前の料理のおかげかもな」

「え……?」


 シストは机の上で頬杖をつく。ジーナを横目で見て、ぼそりと告げた。


「お前の料理は本当に美味い。そのおかげか、力が湧いてくるような気がする」

「ふ……ふふ」


 ジーナは思わず笑ってしまった。

 自分の料理が魔法に影響を与えるなんて。そんな話、あるはずがないのに。

 それがわかっていても、最高の誉め言葉だった。


「ありがとうございます、シスト様」


 ジーナはやはり満面の笑顔で言った。

 その笑顔をちらりと窺って、シストはますます仏頂面で赤くなる。



 +


 フィオリトゥラ魔法学校では、魔法実技の授業がある。

 3年生の授業は、いつも見学者であふれ返っていた。皆の目当ては第一王子フィンセントだ。

 学校が始まって以来の大天才――フィンセントはそう呼ばれていた。


 フィンセントが実技を披露する番になると、女生徒は一斉に目を輝かせた。

 火属性・上級魔法『紅蓮:業火』。辺りは火の海に呑まれる。豪快な攻撃呪文だ。消費魔力が大きいので、一般的な魔道士では1度撃つだけで精一杯だ。

 

 フィンセントはその魔法を、10回連続で発動することができる。規格外の魔力量の持ち主だった。



 しかし。




 その日は、まだ魔法を一度使用しただけなのに。

 フィンセントは軽いめまいを感じていた。足元がふらついて、頭を押さえる。

 

(またか……っ)

 

 この症状は、魔力欠乏症の一歩手前に似ている。いつもならこれくらいは余裕だ。魔力が足りなくなるわけがない。

 最近はそういうことが多かった。1か月ほど前からだ……魔法の行使が上手くいかないようになったのだ。

 そのことに、フィンセントは苛立ちを覚えていた。

 

(最近、妙に調子が悪い……っ)




 苛立ちを抑えられないまま、フィンセントは中庭を歩いていた。

 そこに、


「フィンセント様!」


 声をかけて来たのは、女生徒の1人だ。男爵家のエリダ。フィンセントがこの学校で親しくしている1人だった。以前はよく彼女に「婚約者の料理がまずい」と相談して、盛り上がっていた。

 彼女は嬉しそうに駆け寄って来る。その様にフィンセントはなぜか苛立っていた。


「フィンセント様は先日、アマレッティを食べたいとおっしゃっていましたよね。これ、私が作って来たんです♪」


 と、ラッピングされた菓子を渡してくる。

 それを見て、フィンセントの苛立ちは最高潮になった。

 アマレッティ――それはジーナに婚約破棄を告げられた時に、彼女が持ってきた菓子だった。ジーナのアマレッティは、手に持てば、アーモンドの香ばしい匂いが漂ってきた。口の中でほろりと崩れていく、不思議な食感。アーモンドのほろ苦い風味。夢のように美味しかった。フィンセントはあの味をあれから何度も思い返した。


 こんな紛い物とは、何もかもちがう。


「要らん!」


 フィンセントはそれを乱暴に払いのける。


「えっ……」


 エリダが目を見張る。そんな彼女をフィンセントは怒鳴りつけた。


「私が欲しいのはこれではない!!」


 彼が今、欲しいのはジーナの菓子だった。

 ――あれを早急にとり戻さなければならない。


(ジーナ……! どこにいる!!)


 フィンセントは苛立たしく思った。

 その時だった。


「これをどうぞ、シスト様」

「これは……」

「いつも贈り物を下さるので、そのお礼です」

「俺のは、昼食の礼のつもりだったんだが……」

「では、そのお礼のお礼です」


 聞こえてきた声に、フィンセントは視線を向ける。そこでは2人の男女が向かい合っていた。

 片方はシスト。もう片方は名前も知らないし、興味もない、地味な女だ。

 2人は仲睦まじい様子で会話している。その光景はやたらとフィンセントの神経を逆なでするものだった。

 更に、


「ありがとう、ジーナ。アマレッティか。美味そうだ」


 その単語が聞こえてきた時、フィンセントは大きく反応した。


(ジーナ……!? アマレッティだと!?)


 シストが手に持っている菓子。そのラッピングのリボンにも、袋にも見覚えがあった。

 フィンセントは衝動に突き動かされて、2人の間に割りこんだ。


「寄こせ!!」

「あ、おい……!」


 シストから菓子をとり上げる。中を確認すると、それは確かにアマレッティ。菓子の形状も、ラッピングの仕方も、フィンセントの記憶にあるものと一致する。


 ――これはジーナのアマレッティではないか!!


 フィンセントは目を血走らせて、シストにつかみかかった。


「ジーナはどこにいる! お前がジーナをさらったのか!?」

「はあ……?」


 シストは呆気にとられた表情をする。


「ジーナなら、ここにいるだろ」


 と、彼が視線を向けた先。

 そちらを振り返って、フィンセントは眉をつり上げた。そこにいたのは雑用人の女だ。フィンセントからすれば関わりたくもないほど、地味で、みすぼらしい平民の女だった。


「何だ、先日の雑用人ではないか……! では、この菓子は……」

「ジーナが作った物だ。返せ」


 険しい表情でシストが手を突き出す。

 フィンセントは眼前に菓子を掲げて確認した。この菓子を作ったのが、この女だというのか……?

 すると、途端にその菓子に食欲が湧かなくなった。


 フィンセントが欲しいのは、美しい公爵家の娘――ジーナ・エメリアが、フィンセントのために心をこめて焼いてくれた菓子なのである。


「同じ名前か。紛らわしい。こんな雑用人の作った、まずそうな菓子など……!!」


 フィンセントはその菓子を乱暴に投げ捨てた。雑用人の女が目を見張って、ショックを受けた顔をしていたが……そんなことはどうでもいい。しょせんは平民が適当な材料で、適当に焼いた菓子だ。そんなものはフィンセントにとって、まったく価値のないものだった。


 どん……。重い音が響く。


 フィンセントは眼前の光景に目を見張った。シストが菓子を抱えていた。地面に落ちる寸前で、自分の体を地に滑りこませて守ったのだ。

 フィンセントは「正気か?」と目を細める。

 小道から外れた土の上で倒れたので、シストの服が汚れている。あんな菓子のためにそこまでするのか、とフィンセントは呆れ返る。その後で納得した。やはり王家にふさわしくない落ちこぼれ――そうして薄汚れた恰好をしているのがお似合いであった。


 雑用人の女――ジーナは驚愕して、


「し……シスト様……!」

「心配すんな。こっちは無事だ」


 と、シストは菓子を掲げる。

 土を払って立ち上がると、


「おい、フィンセント……」


 こちらに向かってくる様を、フィンセントは悠然と眺めていた。もはや彼にとって、シストは同じ王家の血を引く弟でも、何でもなかった。薄汚い平民――いや、それよりも格下の存在だ。価値のない菓子に固執して泥にまみれる、野良犬も同然だ。

 だから、彼が手を振りかぶった時も、フィンセントは警戒すらしなかった。


「人がせっかく作った物を、粗末にすんな!」


 衝撃が襲う。右頬を殴打されて、フィンセントは大きくよろめいた。何が起こったのかわからない。フィンセントはあまりのことに思考が停止していた。

 自分はこの学校でもっともすぐれた力を持つ魔道士――それも、この国の第一王位継承権を持つ者である。そんな自分を殴ったのが、この学校で一番の落ちこぼれであるなどと。

 にわかには認めがたい事実だった。

 フィンセントは唖然として、頬を撫でる。徐々に理解が追い付いていくと、目も眩むほどの怒りに支配された。


「貴様――私の顔を殴ったな。シスト・フェリンガ! 貴様に、魔法決闘を申しこむ!!」


 フィンセントは高らかに宣言する。

 どちらが上の立場であるのか、この愚か者にわからせてやるのだ――!


 シストとジーナが同時に目を見張る。その反応にフィンセントは満足し、こう思った。

 ――平民と能なしめが。今更、後悔したところでもう遅い! と。



 +


 ジーナは顔を蒼白にしていた。

 魔法決闘――純粋な魔法のみを用いる決闘方式だ。敗北者は勝利者の要求を呑まなければならない。この魔法学校では、事前に申請を出し、両者の合意が認められた場合、執行を許可される。

 シストはジーナを庇うためにフィンセントを殴った。つまり、こうなったのは自分のせいではないか。


「シスト様、今からでも遅くはありません。決闘は辞退なさってください」


 フィンセントが去った後で。

 ジーナは必死に頼みこんでいた。シストは険しい表情で顔を逸らす。


「売られたケンカは買う。今さら逃げ出すなんて、みっともねえ真似ができるかよ」


 彼は手に持っていた袋を開く。そして、むっとした顔をした。投げ捨てられた衝撃で、アマレッティは割れていた。

 ジーナは慌てて言いつのる。


「申し訳ありません……。そのような物をシスト様に召し上がっていくわけにはいきません。また焼き直しますので……あ!」


 言葉の途中でシストがそれをつかんで、口に放りこむ。味わうように咀嚼してから、ニッと口の端をつり上げた。


「ん、美味い。こんな美味い物……今さら返せなんて言うなよ?」

「シスト様……」


 その姿にジーナの目元が熱くなる。後から、先ほどの感情が蘇ってきた。フィンセントに菓子を投げ捨てられた時――ジーナは心臓を握りつぶされるような心地だった。それをシストは拾い上げてくれたのだ。

 ジーナは静かに目の端を拭う。


「――ありがとうございます」


 シストは1つ頷くと、考えこむように目を細める。ぶっきらぼうに続けた。

 

「あいつとの魔法決闘。……絶対に見に来んなよ」

「なぜですか」

「来るな」

「シスト様……」


 強い口調で告げられて、ジーナは言葉を失う。


 

 +

  

(まさかすんなりと了承するとは……。やはり王族の血を引いているとは思えないほどの愚か者だ)

 

 フィオリトゥラ魔法学校は全寮制だ。王族であっても例外はない。ただし、フィンセントの寮室は一般寮よりも広く、装飾も豪華だ。身の回りの世話をする使用人も5人ついている。

 フィンセントはベッドに腰かけて、明日の決闘について考える。

 

 ――相手はあの落ちこぼれの弟。

 シストだ。

 

 負ける道理がない。

 フィンセントはそっと頬に触れる。昼間の痛みがぴりぴりと蘇り、怒りが噴出した。

 

(この私の顔を殴ったこと……後悔させてやる……!)

 

 

 +


 一方、シストもまた、自室で明日の決闘について思いを巡らせていた。

 

 フィンセントが自分のことをよく思っていないことは知っていたが……まさか決闘を申しこんでくるとは。

 と、苦い気持ちで思った。

 

 フィンセントはこの学校で一番の実力者だ。一方で、シストはこれまで初級魔法も満足に使えなかったほど、魔力量が少ない。

 最近はようやく魔法が1回だけ発動できるようになったが……それで勝てるはずもない相手だ。


 ――きっと、明日、自分は負ける。


 それがわかっているから、そんな情けない姿をジーナの前では見せたくないと思った。


 それでもフィンセントを殴ったことに後悔はなかった。ジーナがせっかく作った菓子を、本人の前で投げ捨てたのだ。あの時、どれだけジーナが悲しい思いをしたことか。少しでもフィンセントにわからせてやりたかった。


 翌日。

 シストが寮を出ると、そこで待っている人物がいた。

 

「……シスト様」


 ジーナだ。両手にバスケットを持っている。それをためらいがちに差し出してくる。

 

「差し入れ、です」

「来るなって言っただろうが……」


 シストは苦い表情を浮かべる。

 ジーナはぐっとバスケットの持ち手を握りしめる。俯いたまま、語り出した。

 

「シスト様は、私の料理を『美味しい』と召し上がって下さいました。

 それに私の心がどれだけ救われたか……。だから……」


 ジーナが顔を上げる。朝日が彼女の顔立ちを照らし、

 

「あなたの応援をさせて下さい。あなたが勝つと信じています」


 その陽光を口元に湛えるように――彼女は微笑した。

 シストは目を見張る。その時、彼女の相貌がとても美しく映ったからだ。

 言葉をなくして、シストはバスケットを受けとった。


 中身は『カネストレッリ』だ。マーガレットの花のような形をしたクッキーである。口に含むと、柔らかな食感。バターの優しい甘みが広がる。

 

「……美味い」 

 

 その菓子は今まで食べたどんな菓子よりも、美味しかった。



 +


 試合場は、学校の校庭に併設されている。魔法の訓練で生徒同士が戦う時に使用されるものだ。

 早朝にも関わらず、多くの生徒がそこに押し寄せていた。

 王子同士の決闘――それは学校中の噂となっていた。

 

 シストは試合場の階段に足を乗せる。不安で見守るジーナに、小さく告げた。

 

「あんたのために勝つ」

「え……?」

 

 本人も言ってからハッとなっている。言い訳のように続けた。

 

「あ、いや、だから今のは……つまり、フィンセントの鼻をあかしてやるってことだ。あんただって、あいつに菓子を捨てられそうになって、ムカついてんだろ! その気持ちを晴らしてやるって言ってんだよ。つまり、あんたのためじゃねえ!!」

 

 それはつまり、『ジーナのため』と言ってないだろうか。

 

(……言い訳になってないような……?)

 

 シストは顔を背けると、残りの階段を一息で越えた。

 試合場では、すでにフィンセントが待ち構えていた。

 

「よく逃げなかった、と称えてやらなければならないだろう」

 

 と、フィンセントは高慢に言い放つ。

 

「……それとも、互いの実力差を測れないほどの痴れ者が、私の弟であることを嘆くべきなのか」

「決闘を俺に申しこんできたのはあんただろ。あんたもその実力差ってやつを測れていなかったってことか?」

 

 シストの反撃に、フィンセントは眉をひくつかせる。

 

「ああ……初級魔法すら満足に起動できないようなお前に、同じ王家の血が流れているとは……虫唾が走る……!」

 

 うるさい、とばかりに目を細めるシスト。制服の上着を脱ぎ捨て、フィンセントと対峙した。

 

「うだうだ言ってないで始めるぞ。あんたが勝ったら、何を要求する?」

「この学校を辞めてもらおう」


 そこでシストを憐れむように冷笑し、

 

「もっとも、その方がお前のためになるのだろうな……魔道士としてまったくの才能がないお前にとってはな」

「わかった。それじゃあ、俺が勝ったら、あんたはジーナに謝れ」

 

 堂々とシストは言い返す。

 フィンセントは目を見張った。そして、顔を真っ赤に染めて、激昂した。

 

「まさか本気でこの私に勝てるつもりでいるのか……!? 無能なお前が、この私に……!」


 一方、シストは冷めた様子でフィンセントを見ている。

 審判を務める教師が声を上げた。

 

「これより、両者による魔法決闘を始めます」


 2人の王子は、互いに闘志をこめた視線を交え合う。

 緊張が伝わって、観客も口をつぐんだ。静寂が辺りを包みこむ。


 次の瞬間、フィンセントは魔法の詠唱を始める。

 

(……シスト様……)


 試合場を見上げながら、ジーナは不安に手を握りしめた。



 +


 フィンセントが選択したのは、『紅蓮:業火』。

 魔法には4つの属性が存在する――火、水、風、土。その中でも火属性は、もっとも攻撃に特化した魔法だった。

 火属性の最上級魔法が炸裂。

 試合場は火の海に呑まれる。

 

(いきなり、ぶっ放してくるかよ!!)


 シストは目を見開く。

 あんなものが直撃したら、普通に死ぬ。フィンセントは今回の件、よほど腹に据えかねているようだ。

 シストは掌から風を撃ち出した。自分が唯一使える、風属性の初級魔法だ。炎が割れ、わずかな空洞ができる。だが――足りない。このままでは体が炎に呑まれる。


(くそ、ここで終わりかよ!? 何にもできねえなんて……!)


 あれだけの啖呵を切っておいて、開始数秒で終わるなんて――。シストは歯噛みする。

 眼前に炎が迫る。

 その時、耳に声が届いた。

  

「シスト様……!」

 

 ジーナだ。シストはハッとして、彼女の姿を脳裏に思い描いた。今朝の美しい笑顔と共に、

 

『――あなたが勝つと信じています』


 彼女の言葉が耳に蘇る。

 シストは生まれつき魔力が少なかった。だから、周りに期待されることもなく生きてきた。


 ――初めてだった。自分に「勝てる」と期待してくれた人は。


 だから、 

 そう言ってくれた少女の前で、無残な姿を見せたら――

 かっこ悪すぎるだろうが……!


 その時、体がカッと熱くなった。突き抜けるような衝動が迸り、それは掌から撃ち出される。風が炎の中心部を突き抜ける。火を払って、その奥――蒼穹が開けた。

 シストは迷わず、床を蹴り上げる。炎の中へと飛びこんだ。

 自身の周囲に展開された風。火の海にできた空洞。その中をくぐり抜ける!

 受身をとって、着地。熱い――肺が焼けそうなほどの熱気だ。しかし、体はどこも燃えていない。

 周囲の火が消えていく。シストは荒い息を吐く。信じられない気持ちで、


(魔法、2発目……!? 初めて撃てた)


 自分の手を見つめる。今まで初級魔法を1回撃つだけで、せいいっぱいだったのに。なぜ今になって急に……!?

 それも、まだ余力がある。

 後、もう一発……行ける! この魔法をフィンセントに撃ちこむことができれば、まだ勝機はある。

 しかし、シストは眼前の光景に愕然とする。フィンセントが2発目の詠唱に入っている。それこそがフィンセントの強みである、『規格外の魔力量』だった。これが普通の魔道士なら、一発目でへばっているところだ。

 

(このまま、次を撃たれたら……!)

 

 これではフィンセントに近付くことができない。攻撃を風の力で避けることはできても、シストの方が先に魔力切れを起こすだろう。

 何か手はないのか、とシストは考え続ける。

 その直後、フィンセントは詠唱を終了させた。


「終わりだ、シスト! 貴様のような落ちこぼれが私の弟であることが、私にとっての最大の汚点だ!」


 フィンセントがこちらに手を向ける。

 『紅蓮:業火』――2発目が、来る。シストは身構えた。


 次の瞬間、


(ん……?)

 

 シストは目を瞬いた。何も起こらない。魔法が不発だったのだ。それはフィンセントにとっても不測の事態だったらしい。焦ったように自分の手を何度も突き出している。

 何が起こったのかはわからない。

 だが――これは間違いなく好機!


 シストは詠唱を始める。自分の中に残る、少ない魔力をありったけかき集めて。

 掌を向ける先にフィンセントの姿。彼は驚いたように目を見開く。その姿を捉え、シストは魔力を解き放った。

 風属性――中級魔法『暴風』。

 勢いよく風が突き抜ける。フィンセントの体を床に叩きつけた。

 シストは肩で息を吐く。そのままフィンセントを油断なく見据えていると。

 フィンセントは床に手をつき、立ち上がろうとしている。しかし、目眩を起こしているのか、ふらついた。再度、床に激突する。

  

「勝者――シスト・フェリンガ!!」

 

 教師が高らかに叫ぶ。

 辺りはしんと静まり返った。観客は声を失くしていた。予想外の結果に終わったからだろう。

 誰もが唖然として立ち尽くす中――もっとも目を丸くしていたのは、シスト本人だった。

 

(……この魔法……初めて使った)

 

 中級魔法の起動に成功したのは、生まれて初めてだったのである。

 


 +


 ジーナは息を呑んだ。口元を押さえて、眼前の光景に見入る。

 

(よかった……シスト様……) 

 

 フィンセントの魔法には殺気がこめられていた。だから、試合の間、シストの身に何かあったらと思うと、ジーナは気が気ではなかった。

 ジーナは胸を抱えて、詰めていた息を吐き出す。

 と、その時。 

 

「この決闘は無効だ!」

 

 フィンセントが立ち上がり、喚き始める。

 

「私がこんな落ちこぼれに負けるわけがない! そうだ、こいつが何か不正を働いたにちがいない!」

「……やめなさい、フェリンガくん」

 

 冷静に諭したのは、立ち会いをしていた教師だ。この学校では、生徒の身分に関わりなく教師が指導を行うという決まりになっている。

 そのため、第一王子であるフィンセントの行いも堂々と咎めている。

 

「これだけの立ち会い人がいる中で、不正を働くことは不可能だ。君の負けだ」

「そんな……なぜ、私が……! この私が、お前なんかに!」

「約束を守ってもらおうか、フィンセント。ジーナ、こっちに来てくれるか」


 シストが試合場から手を差し伸べる。ジーナはこくりと頷いて、その手をとった。

 彼に引き上げられて、ジーナは試合場に上る。そして、フィンセントと対峙した。彼とはもう二度と、こうして顔を合わせたくなかった。それなのに不思議と今は、恐怖も気おくれも感じない。きっと隣にシストがいてくれるからだろうとジーナは思った。


「昨日のこいつへの非礼を詫びろ」

「何だと……!? その女は……平民の、雑用人だぞ!? 第一王位継承権を持つこの私が、そんな女に頭を下げられるわけがないだろう!」

「それが決闘の決まりだ」


 鋭い声でシストは突き付ける。フィンセントは屈辱に歯を噛みしめ、すさまじい形相をしていた。


「その女が、紛らわしい真似をするのが悪いのだ! よりによって、ジーナと同じ名前であるとは……! あの夢のように美味しい菓子を作るジーナ・エメリアと……」

「どういうことですか、殿下!?」


 観客の間から、声が飛ぶ。そこに立っていたのはエリダだった。


「殿下はおっしゃっていましたよね!? ジーナ・エメリアは料理下手の女だと。彼女の作るものはどれもまずいものばかりで、迷惑していると!」

「そんなものは嘘に決まっているだろう! ジーナは隙のない女だった。何か弱みでもあれば、可愛いものを……。そうだ、私はジーナのために! 彼女に可愛い弱みを作って、親しみやすい女となれるように……その手伝いをしてやったまでだ!」

「――そういうことだったのですね。フィンセント様」


 ジーナは凛と告げた。

 氷のような一言だった。皆の視線がジーナに集中する。フィンセントはこちらを見て、不快そうに顔をしかめた。「雑用人が口出しするな」とでも言わんばかりの面持ちだった。

 そんな彼の元にジーナは歩み寄る。そして、彼の顔を真正面から見つめた。その視線の強さにたじろいで、フィンセントが後ずさる。


 ジーナはメガネに手をかける。それを顔から抜きとった。


 栗色の髪が、朝日にきらめていて――髪の毛の一筋、一筋が、陽光をまとうように変化していく。美しい銀髪が、背中へと落ちた。冴えない顔立ちは、涼しげな美貌へ。最後に瞳の色が冷めた赤眼へと変わった。


 フィンセントはその顔を見て、絶句している。見る見ると顔が青ざめていく。


「お、お……お前は……ジーナ!?」

「私のため? それはちがいますよね。あなたは私のことをあざ笑って、楽しんでいらっしゃいました。そのために、私の料理をけなしていたのですよね」

「ち、ちがう! それはちがうぞ、ジーナ! あれは私なりの君への愛情表現だったのだ!」

「そうですか。今となってはどうでもいいですが。私にとっては不要のものですので」


 ジーナはきっぱりと告げる。フィンセントは「ちがう!!」とみっともなく叫んだ。


「君は誤解をしている! 私は君を愛している! 君の作る菓子も愛しているんだ! また私のために……菓子を作ってくれるだろう!?」

「以前、申し上げたはずです。もう二度と、あなたに料理は作らないと」


 氷点下の声で切り捨てると、ジーナは彼に背を向けた。


「なっ……そんな! 待ってくれ! ジーナ!」


 ジーナはいっさいその呼びかけに答えず、シストの元に向かった。


「さあ、行きましょう。シスト様」


 と、声をかけるが、シストは動かない。ジーナの顔を見つめて固まっていた。


「シスト様……どうかなさいましたか?」


 ジーナはきょとんとして尋ねる。

 それから気が付いた。彼にも今まで嘘を吐いていた、ということに。

 自分の正体がジーナ・エメリアだったことに、彼は驚いているのだ。……呆れているのか、もしくは、怒りを覚えているのかもしれない。

 シストに嫌われるのはジーナも嫌だった。しかし、悪いのは騙していたジーナだ。

 だから、どんな罵声でも受け入れようと。

 ジーナは静かに目を伏せる。



 +


 一方、シストは混乱していた。


(じ……ジーナの正体が、ジーナ・エメリア!?)


 公爵家の娘と確かに同じ名前だな、とは思っていた。

 しかし、見た目がまったくちがう上に、公爵家の娘が食堂で下働きなんてするはずがないと。

 だから、わからなかった。こんなに近くにいて、毎日のように接していたのに。


(俺は……つまり……!)


 認識すると同時に、顔中に熱が集まってくる。


(は、初恋相手と毎日、食事を共にしていたということに……!?)


 ジーナの正体が、ジーナ・エメリア。

 つまり――自分の憧れの相手であったことに。シストは大いに混乱して、目を回しかけていた。


 シストがジーナと初めて会ったのは、子供の時だった。公爵家の娘として紹介された。

 自分より2つ年上の少女。凛とした眼差し。背筋がいつもピンと伸び、隙のない態度。綺麗な人だ、と素直に思った。

 そして、いずれフィンセントかシストのどちらかが彼女と婚約することになると知らされた。彼女の婚約者になれる。そう思って、シストは胸を弾ませた。

 しかし、現実は残酷だった。彼女と結婚できるのは、第一王位継承権を持つ者――つまり、魔道士としての才能が必要だったのだ。

 シストにはほとんど魔力がない。兄と比べれば、その差は歴然だった。それでも訓練すれば魔力量を増やせると信じて、シストは努力を続けた。自分の原動力は、ジーナ・エメリアだったのだ。


 だが、今から1年前。その努力は無意味に終わった。

 ジーナはフィンセントの婚約者となった。悔しかった。兄の隣に立つ彼女とどう接したらいいのかわからなくなって、ついぶっきらぼうな態度をとってしまった。


 その憧れのジーナが……。

 自分と毎日、食事を共にしていたジーナと同一人物だったなんて――!

 心臓が早鐘を打つ。シストは混乱して、うろたえて、赤面していた。


 ジーナが口を開く。彼女は悲しそうに目を伏せていた。


「正体を今まで隠していたこと、申し訳ありません。シスト様……。どのようなお叱りでもお受けいたします」

「なっ……いや、そうじゃ……! だから……っ!」


 シストは沸騰しそうになる頭で、何とか言葉を紡ぎ出す。


「……正直、混乱している。けど、怒っては、いない……」


 すると、ジーナはホッとしたように口元を緩めた。


 その表情にシストは釘付けになる。


 え、かわいい……!

 ――とんでもなく、かわいい!!


 そもそもシストは、ジーナがメガネをかけて、地味な相貌をしている時から、その笑顔には見とれてしまったのだ。

 それが今や、初恋相手の見た目ともなれば――心臓を撃ち抜かれるレベルだった。


(好きだ、結婚したい……!!)


 思わず本音が口から零れかけて、シストは口を覆った。仏頂面で赤くなって、目を逸らす。


「その……お前と昼食を共にするのは、楽しかった」

「はい。私もです。でも、これからはそうすることもできなくなると思うと……残念です」

「なっ……!?」


 彼女が漏らした言葉に、シストは焦る。


「私の正体がバレてしまったので……今後は食堂で働くことはできません」

「そ……っ、そうか。そうだったな……」


 盛り上がっていた気持ちが、急速にしぼんでいく。ジーナともう会えなくなるのか……? シストは絶望して、しょげ返った。

 ジーナが迷うように視線を漂わせる。こちらをちらりと窺うと、


「――また、会いに来てもいいでしょうか」

「当たり前だ! お前の料理は美味い」


 と、言ってから、それでは「料理だけが目当てみたいじゃないか!」と、シストは慌てた。


「あ、料理だけではないからな! 俺はお前にまた……!」


 そこで、はたと口をつぐむ。

 今、とんでもなく恥ずかしいことを言おうとしているのでは……? と、気付いた。

 しかし、ここできちんと口にしなくは、ジーナともう二度と会えなくなるかもしれない。それだけは絶対に嫌だった。

 シストは咳払いをして、意を決すると。

 改めて、言い直すのだった。


「……俺は、ジーナに会いたい。これからも会ってくれるか」

「はい。嬉しいです。シスト様」


 ジーナがふわりとほほ笑む。その表情に完全に胸を撃ち抜かれて、シストは真っ赤になって、硬直した。




 +



 行方不明になっていた、公爵家の娘ジーナ・エメリア。彼女は無事に家へと戻った。その後、彼女が定期的に手作り菓子を手に、フィオリトゥラ魔法学校を訪れる姿が目撃されたという。


 そして――不思議なことが起こった。

 シストの魔力量が徐々に増加していったのだ。学校での成績もそれに伴い、伸びていった。


 一方で、フィンセントの魔力量は減少していった。それでも一般的な魔道士の容量ではあったのだが、彼は不相応な上級魔法を使い続けた。「私は優秀だ! これくらいできる!」と、彼は気負っていたのだが……。無理がたたって、ある日、魔法が暴発する。彼は大怪我を負い、その影響で魔力が回復しない体となってしまった。

 フィンセントは学校を退学となる。今は辺境の治療院でリハビリを続けている。しかし、本人が現状を頑なに認めないため、それも難航しているらしい。






 + + +




「ここで大丈夫だから」

「はい。行ってらっしゃいませ、お嬢様」


 馬車を降りて、ジーナはその地を踏みしめた。

 ――フィオリトゥラ魔法学校。

 敷地内には春の花が咲き誇っている。ジーナは中庭を通り抜け、校内を歩いていく。すれちがう生徒は皆、ジーナに注目し、敬意を示して礼をした。


 彼女がたどり着いたのは、温室だった。

 中を覗いて、ジーナは顔を綻ばせる。


「シスト様」


 と、彼の元に向かった。

 シストはいつもの制服姿だ。今は胸元に花の飾りを付けている。

 ジーナの顔を見て、彼も優しくほほ笑んだ。


「よく来てくれた、ジーナ。……会いたかった」

「もちろん来ますよ。今日は特別な日ですから」


 ジーナは、ふふ、と笑って、持っていたものを彼に差し出す。


「ご卒業おめでとうございます、シスト様。それも首席でのご卒業だなんて、素敵です。シスト様の努力が実りましたね」

「ありがとう」


 シストは照れくさそうに告げて、ジーナから菓子を受けとる。


「今日はカネストレッリか。俺の好物だ」

「ふふ……知ってます」

「美味いな」


 菓子を一口食べて、シストは顔を輝かせる。美味しそうに食べてくれる姿は、いつ見ても嬉しいものだった。ジーナの頬が自然と緩み切ってしまう。


 ジーナの菓子を食べながら、シストはしみじみと告げる。


「やはり、この菓子のおかげではないかと思っているんだ」

「何がですか?」

「魔力量が上がったこと。俺が首席になれたのも……王位継承権を得られたことも」

「もう……」


 ジーナは恥ずかしくなって、笑った。


「褒め上手なことは嬉しいですが、大げさです。シスト様が魔法を使えるようになったのは、シスト様の努力の結果ですから」


 シストがこちらを見つめて、赤くなる。最近の彼はいつもこうだった。ジーナが笑顔を見せる度に、照れた様子で見つめてくるのだ。

 彼はハッとして、目を逸らしてから――また決意したように、ジーナの顔を見た。


「まだ、欲しいものが1つ残っている。どうしても手に入れたいものなんだが……」

「はい……?」


 きょとんとするジーナの前で。

 シストは菓子をテーブルに置くと、跪いた。ジーナの手を握って、真剣な顔で告げる。


「君が好きだ。ジーナ。――俺と結婚してくれないか」


 その言葉にジーナは目を見張る。


 彼女の白い頬に――。

 周囲に咲き誇る、春の花の色が移ったかのように。

 パッと朱が灯るのだった。




終わり



読んでくださって、ありがとうございました。


☆連載版を始めました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです短編なのに内容も濃くて読みごたえもありました。連載版も読みましたが当然おもしろかったです(^^♪ 毎日「まずいと」言われえずかれたら例え相思相愛だったとしても冷めますよね……
[良い点] そりゃ、作る方だって『まずいけ、どしゃーないから食ってやる』とか言われるより、『上手いからおかわりプリーズ!』と言ってくれる方が良いよね(笑) ……後の幸せ太りである。 ……地獄(肥満…
[良い点] やっぱり、美味しいのにまずいと言うのはいけないことですね。 楽しく読めました!
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